◎世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問
終戦直後に、世界画報社という出版社があり、『世界画報』というグラフィック雑誌を発行していた。その編集局長であった木村亨さんは、陸軍七三一部隊の石井四郎軍医中将が帰国して、市ケ谷の自宅に潜んでいるという情報を入手し、訪問して取材しようとしたことがある。
この話は、木村亨さんの生前、木村さんから直接、伺ったこともあるが、ここでは、木村さんの文章を引用させていただくことにしよう。引用は、松坂まき編『横浜事件 木村亨全発言』(インパクト出版会、二〇〇二)の四二二~四二三ページより(初出、一九九一)。
世界画報社での私の編集稼業で何はさておいても特筆したいスクープといえば、やはり、例の石井四郎中将の、大陸における「七三一細菌戦部隊」のことであった。
なぜまた、私にそんな稀有のスクープがやれたものか?
そのいきさつは思いもよらぬようなことであった。私は戦前から安田徳太郎博士というドクターと顔見知りの仲で、以前からこの安田博士にはお世話になっていた。
一九三三年二月二〇日に築地警察署で特高の拷問に遭って虐殺された作家小林多喜二の死体を検死したドクターこそ、他ならぬ安田徳太郎博士その人であった。
敗戦直後に祐天寺裏に居住していた私は、白金台町の安田博士の医院へは時折お邪魔していたが、そんなある日、私の家へ安田博士から電話があった。話はこんなことだった。
「木村さん、今日私のところへ入った情報だが、満州で細菌戦部隊を指揮していた石井四郎中将が昨日東京の自宅に連れ戻されており、二、三日中に米軍によってアメリカヘ連れ去られるということだ。貴君が『世界画報』をやっておられるのなら、カメラマンをつれてすぐにも市ケ谷の石井中将の家を訪ねるとよろしい」
安田博士は若い時に京大医学部で石井中将とは同窓で、「石井は戦犯もいいとこだ」と苦笑していた覚えもそのころの私にはあったから、安田博士からのこの知らせは、私にとっては絶好のありがたい情報だった。さっそく、世界画報社のカメラマン田村茂君と若手の渡部雄吉君の二人を誘って、市ケ谷の石井中将宅を訪ねていった。
かなり古びた和風二階建ての石井家に着いた私は、玄関に入るなり面会を求めた。暫時、玄関の土間で三人が待っていると、奥からヌーッと立ち現われたのが六尺豊かな和服姿の石井中将である。
容貌怪異な石井中将の異様な姿に私も一瞬たじろいだが、ここを撮らねばと思った私は、傍らの田村茂君に「おい頼むぜ」と声をかけた。途端に石井は奥へ逃げこんだ。
ところがどうしたことか。田村君は玄関の土間にドドーッとくずれるように倒れ、カメラを握ったまま気を失ってしまったではないか。
私は「どうした!」と励ましたが、田村君は気を失って倒れたままだ。仕方なく渡部雄吉君とともに、応接間に上がり込み、石井のアルバムを引っ張り出し彼の写真を一枚ひっぱがして持ち帰った。それでやっと出来上がったのが『世界画報』の七三一石井部隊長の見開きの訪問記事であった。〔『記録』、一九九一年五月号〕
なぜ、カメラマンの田村茂氏は、気を失ってしまったのか。この質問を、木村亨さんにしてみたところ、人を数多く殺しているような人間には、何か、得体のしれない妖気のようなものを放っているものだ、というようなお答えがあったと記憶する。
さて、石井四郎が潜んでいた市ケ谷の自宅だが、具体的に、どのあたりにあったのかということは、不覚にも、木村さんにお聞きしておかなかった。
ところが、最近読んだ、郡司陽子著『【証言】七三一石井部隊』(徳間書店、一九八二)には、その自宅の場所、間取りなどが、詳しく描写されている。それについての紹介は、次回。