◎日蓮の思想と国家権力との関係
よく知られているように、満州事変(一九三一)の主謀者・石原莞爾〈カンジ〉、血盟団事件(一九三二)の中心人物・井上日召〈ニッショウ〉、二・二六事件(一九三六)の黒幕とされる北一輝〈キタ・イッキ〉は、いずれも日蓮主義者であった。彼らの過激な思想と行動は、日本と世界の歴史を大きく動かしたのであった。
そうした一面のみを見ると、日蓮の思想、あるいは日蓮系の宗派というのは、国家権力と関わりながら、それを過激な方向に導く傾向があるかのごとき印象を持つ。
しかし、その一方で、日蓮の思想、日蓮系の宗教団体というのは、ときの国家権力と対決し、それゆえに、国家権力から激しい弾圧を受けてきた歴史がある。
江戸時代において、日蓮宗不受不施派が、キリシタンと並ぶ「禁教」であったことはよく知られている。
戦前・戦中においては、大本教(皇道大本)、ほんみち(天理本道)、ひとのみち(扶桑教ひとのみち教団)、灯台社(ものみの塔聖書冊子協会日本支部)といった新興宗教が、激しい弾圧を受けた。これらと並んで、日蓮正宗系の創価教育学会(創価学会)も、激しい弾圧を受けていることに注意したい。
日蓮の思想、あるいは日蓮系の宗派というのは、国家権力の激しい弾圧を受けることもあれば、逆に、国家権力と関わりながら、それを過激な方向に導くこともあるという二面性を持っているということが、一応、言えそうである。
国家権力に対するこうした二面性は、宗教一般に見られる傾向であって、特に、日蓮の思想、あるいは日蓮系の宗教団体に着目する必要はない、という見方もできるだろう。しかし、以下に見る通り、日蓮という宗教家、あるいは日蓮系の宗派は、独特の国家観を持っており、それゆえに、国家にかかわる「二面性」があらわれやすかったのではないだろうか。
日蓮宗系の宗教の開祖である日蓮が、ときの国家権力(鎌倉幕府)から、激しい弾圧(法難)を受けたことはよく知られている。日蓮の思想については詳しくないが、その著『種種御振舞御書』〈シュジュオンフルマイゴショ〉には、「日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば、釈迦仏の御使ぞかし。僅かの天照太神正八幡なんどと申すは、此の国には重けれども、梵釈、日月、四天に対すれば、小神ぞかし」という文言がある。その思想そのものに、国家権力に立ち向かうという激しい一面があったのである。
ずっと時代がくだって、戦中の一九四三年(昭和一八)ことであるが、創価教育学会の創立者で、初代会長の牧口常三郎は、皇大神宮の大麻〔お札〕を拒否したため、会幹部とともに、治安維持法違反で逮捕されている(翌年、獄死)。
日蓮という宗教家、あるいは日蓮系の宗派が、弾圧を受けてきたのは、信仰は国家権力に優位するというという国家観に起因するところが大きい。
一方で、この国家観は、信仰によって国家権力をコントロールするという志向、あるいは、自己の信仰にふさわしい国家を造るという志向に結びつきかねない。昭和期にあらわれた石原莞爾、井上日召、北一輝といった日蓮主義者も、もちろん、日蓮以来の独自の国家観の持ち主だったと捉えるべきであろう。
さて、いまの私の関心事は、今日の安倍政権を支えている公明党が、宗教と国家との関係をどのように捉えているのかということである。端的に言えば、「日本会議」を偏重する安倍首相について、どのように考えているのかということである。