◎かかる天皇制と民主主義とは毫も矛盾しない
南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その三回目。
吾々は今、敗戦後満一周年、憲法改正の大業を通して、謂はば祖国興廃の関頭に立つてゐるのである。何故ならば、敗戦と降伏とによつて日本国家の根本性格が変更した訳ではない。一部論者のいふやうに、わが国がポツダム宣言を受諾した瞬間に、国民主権が日本に布かれたのではない。この点政府の意見に私は賛意を表する者である。併し、いま国民の自由意志によつて、まさに今期議会に於てそれを決定しようとしてゐるのである。この秋〈トキ〉に当りさきに連合軍最高司令官の第二声明に於て示唆された如く、『政略上の信条や不当な野心や利己的な陰謀を拭ひ去り、真に自国とその国民に対する責任に於て尊厳と叡智と而して愛国心を以て』事を決すべきであると思ふ。
草案が余りに多く外国の政治哲学から借り来り、日本の伝統的思想から遥かに断絶されてあるとは、外国の権威ある批評となつてゐる(五月十三日極東委員会声明参照)。今や吾々は新しき善きものはこれを摂取して改革を断行すると同時に、苟も国民の歴史的本質のうちに育成し来つたところのものはこれを保持することが必要である。謂はゆる憲法の「法的継続性」といふのも必ずやかやうな「歴史的継続性」に裏づけられてこそ初めて具体的意義を持つものてあり、これなくして新憲法は決して我が国民の血となり肉とならないであらう。かかる見地から我が国の政治的基本構造に関しては、単なる保守的現状維持でなく、また草案の如く歴史的断絶を意味するものでもないところの、第三の道を択び〈エラビ〉取る必要があつたと思ふが、政府当局はいかに考へられるか。
現に諸政党並びに有力なる諸研究団体が公にしたそれぞれの草案に於て、主権の所在を或は「日本国家」に在りとし、或は「天皇を含む国民共同体」に在りとし、或は「天皇を首長とする国民全体」に淵源するとしてゐるのは、この問題に関し輿論〈ヨロン〉の或る一致点を表はせるものと見ていい。いづれも政府案に此し、遥かに日本の歴史に立脚した改正を目指してをり、況んや衆議院今回の修正案の如き「主権在国民」の思想とは、本来根本的に異る立場に立つてゐたものである。私自身は予て〈カネテ〉「民族共同体」又は「国民共同体」(national community)の考を有しをる者である。これによつて一面、我が国の歴史に於て君主主権と民主主権との対立を超えた謂はゆる「君民同治」の日本民族共同体の本質を生かす所以であると同時に、他面、民主主権が原理的には個人とその多数に基礎を置けるに対して、更に国家共同体を構成するところの新な世界観的基礎を供し得ると考へるのである。これは恰も十八-九世紀の謂はゆる「自由主義的民主主義」から新たに「共同体民主主義」への発展を意味する概念である。さうして我が国に在つて、国民の統合を根源に於て支へ来つたものが皇室であることは、我が新しき民主主義に対して固有の意義を与へるものと思ふ。
政府当局は吾々のいふ「国民共同体」の思想に反対せず、或る場合にはそれを採つて説明せる如きも、それは単に「国民」といふ集合概念とは範疇を異〈コト〉にするところのものである。政府はそれならは寧ろ進んで「民族共同体」又は「国民共同体」の概念を取り入れて明確にする意志はないか。しかしこの新たな国民又は民族共同体の思想は、もはや古代的神権的な要素や、中世的封建的要素は一切これを払拭するは勿論、「憧れの中心」といふが如き浪漫的神秘的要索をも排除して、本年〔1945〕初頭の詔書に示されたが如き、専ら人間としての天皇を中核とし、国民との結合を同じく人と人との相互の信頼と尊敬の関係に置き換えへたところの、新しき倫理的文化的共同体を意味するものでなければならぬ。この点に於ても、政府当局は啻に國體観念の変らぬことをのみ云ふのを止めて、寧ろ進んでその変化し、時代と共に発展したこと、否、然か〈シカ〉せしめねばならぬことを明言し、同時に憲法に於て我が国の政治的権威は、かかる我が民族共同体又は国民共同体に由来することを、宣明する必要があると思ふがどうか。
さうしてその場合、国家とはかやうな国民共同体の最高の組織体に他なぬが故に、国民共同体結合の中心たる天皇は、必ずやそれにふさはしき地位を他ならぬ国家の中に於て持たれねばならぬは当然である。改正草案に於て議会・内閣・最高裁判所それぞれ独立の機能を持つことにより、三権分立が徹底化されたことはいいけれども、その法的政治的統一は或る点に於て空白に残されてゐる。この形式的統一を充たすは正に天皇の位置であるべきである。それは単なる「象徴」ではなく、謂はゆる国家の一「機関」、即ち国家の統一性を保障する機関として――私はこれを日本国家統一意志の表現者とするが妥当と考へるのであるが――構成されることが必要である。その限りに於て、天皇の行為は、単に儀礼的でなく、まさに政治に関する国務たるの名分と形式を具へなければならぬ。そして、このことは天皇制に関する各政党の論議のうち、左右両極を除き、有力なる在野政党並びに民間研究団体の公表した一致の意見であつたのである。
私の主張し度いのも正にこの一点であり、それは我が国家の統一的政治法律秩序の要請から来る当然の論理的帰結であり、苟も天皇制を存置するからには、それ以下のものであつてはならぬのである。同時にまた敢てそれ以上であつてはならぬ。即ち、現行法の如き包括的なる所謂大権事項は可及的これを制限し、且つ、天皇の国務に関する一切の行為については内閣の補佐と同意を条件とし、内閣がその責任を負ひ、また内閣は国会に対して責任を負ふとなす議会政治の確立は、まさに改正案の如くあつていい、否、あらねばならぬ。かやうにして天皇と国民との間に、もはや少数者による独裁政治の介入の余地なく、随つて外は彼等による戦争再発の危険が絶対になく、内は天皇の名に於て人間の自由と権利が再び蹂躙される余地のない平和民主日本の建設は成就されるであらう。さうして、かかる天皇制と民主主義とは本来毫も矛盾することなく結びつき、ここに「日本的民主主義」が実現されるであらう。かやうにして全く新たにせられる日本の新憲法が世界と連合国に了解せられぬ筈はない。政府当局は改正案作製に当つて、その内閣と国民の運命を賭けても、かかる努力を果したるや否やを承り度いのである。【以下、次回】
「吾々は今、……」のところは、普通の改行になっているが、ここは「(三)吾々は今、……」とあるべきだった。「憲法改正」の「二」では、(二)のあと、いきなり(四)となって、(三)に相当する範囲が判然としない。しかし、本日、紹介した部分が(三)に相当する範囲だと捉えるのが妥当であろう。