礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

徳富蘆花、吉田松陰と幸徳秋水とを対比

2023-09-14 03:32:33 | コラムと名言

◎徳富蘆花、吉田松陰と幸徳秋水とを対比

 石田雄『明治政治思想史』(未來社、1954年11月)から、後篇第一章の第四節「明治末期における権力と思想」を紹介している。本日は、その二回目。

 一九一一年(明治四四年)二月には徳富蘆花〈トクトミ・ロカ〉が第一高等学校弁論部から講師に招かれたとき、吉田松陰の最後と幸徳〔秋水〕のそれを比較したため、新渡戸稲造〈ニトベ・イナゾウ〉校長が文部省に出頭進退伺を出すというような状態であつた。これら一連の事件の背後には、明治三九年〔1906〕六月九日の文部省訓令(学生の思想風紀取締に関する訓示)、明治四一年〔1908〕一〇月一三日の戊申詔書〈ボシンショウショ〉、この年からはじまる国定修身書の改訂等を指標とする政府の側からの政策が一貫して思想に対する積極・消極両面での統制強化の方向を示していた。しかも、それは単に統制の量的増大だけでないことは前述の通りである。右にあげた幾つかの指標については、すでにその多くのものについて前篇で説明を加えているから、ここではただ戊申詔書だけをとりあげて、これをみよう。この詔書を出すことを最も強く主張したといわれる内相平田東助〈トウスケ〉は、詔書が出た翌日からの地方官会議で「近来世上危激なる論説を鼓呼し、又は卑猥なる冊子を領布するの類〈タグイ〉少からず。此〈カク〉の如きは社会の秩序及風教を維持する上に於て、最も憂ふべきの事に属す(2)」と訓示してこの詔書煥発の直接的動機と思われるものを示しているが、同時にこの詔書のもつた現実的効果は、勤倹の奨励によつて、「日露戦争後社会に現れて来た不穏なる事は、此の道徳と経済とが相伴つて居らぬからであります。即ち道徳と云ふものを捨てゝ、そして富を作ることが出来るものであると云ふ考へが、非常に間違つた結果を生じて来たものと考へます(3)」という認識に基づき、「道徳と経済の一致」という形で解決することであり、それは前篇にのべた日本型社会政策の特質を規定するものとして、「皇室仁慈の余光(4)」による社会救済(明治四四年〔1911〕すなわち幸徳〔秋水〕事件の翌年一一月の恩賜財団済生会の設立を象徴的事件とする)と表裏をなすものにほかならなかつた。そのことは明かにただ経済と道徳の一致というにとどまらず、一般に「国民道徳」と称せられたものが、本来の道徳の領域以外のところへの浸透を意味するものであり、幸徳事件(それが被告の多くのものにとつてフレームアップに外ならなかつたにしても、支配層の感じていた社会主義からの脅威の強さを示す点では疑う余地はない)をピークとする体制の危機感は、極めて顕著な形でこのような滲透過程をおしすすめる。その際における犠牲として南北朝正閏論争による北朝正統論の抹殺と家族制度の問題をめぐる岡村司〈オカムラ・ツカサ〉教授の事件があり、またこの過程の戯画的表現として、三教合同をみることができよう。【以下、次回】

 (2) 伯爵平田東助伝 一二三頁。
 (3) 井上哲次郎「戊申詔書に就いて」(帝国教育会戊申詔書捧読式講演)同著 教育と修養(明治四三年)所収 同書三五二頁。
 (4)  平田東助「恩賜財団済生会設立の趣旨」(雑誌産業組合四五年一月号)平田東助述 淬励録(大正二年)所収 同書一八五頁。

 徳富蘆花が、1911年2月1日に第一高等学校でおこなった演説は、「謀反論」として世に知られるものである。幸徳秋水が、死刑に処されたのは、同年1月24日のことであった。この演説を聞いた学生のひとりに、法哲学者の恒藤恭(つねとう・きょう)がいるという。
 文中、「詔書煥発」とあるのは、原文のまま。「詔書渙発」が、このように誤用されることがあるという。

*このブログの人気記事 2023・9・14(10位になぜか末謙人糞事件)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする