◎憲法改正問題と近衛文麿国務相
今月になって、松本重治(しげはる)の『昭和史への一証言』(毎日新聞社、1986)を入手した。松本重治(1899~1989)は、昭和期のジャーナリストで、内外に広い人脈を持っていた。
彼は、憲法改正にも関与していた。ちょうど、南原繁の「憲法改正」という文章を紹介しているところなので、『昭和史への一証言』のうち、憲法改正の成立に関わるところを、少し紹介しておきたい。
本日、紹介するのは、同書の第八章「敗戦とマッカーサーの日本」のうち、「幣原内閣と憲法改正」の節の全文である。聞き手は國弘正雄(1930~2014)。
幣原内閣と憲法改正
―― 先生が軽井沢から東京に戻ってこられて間もなく、同盟通信社は解散させられ、先生ご自身の身辺があわただしくなるころ、東久邇〔稔彦王〕内閣のあとを継いだ幣原〔喜重郎〕内閣の下で、憲法改正の作業が始まります。『民報』創刊、そして創刊後の話は後で伺うことにして、憲法改正問題と近衛〔文麿〕さんとのかかわり合いについて、いくつかお聞かせください。まず、マッカーサーが近衛さんに憲法改正を手がけるよう示唆したと一部では伝えられていますが、事実でしょうか。
松本 それは本当ですよ。九月一四日だったか、横浜にあつた総司令部で近衛さんはマッカーサーに会っています。そのとき、マッカーサーは近衛さんに、君はまだ若いし、リベラリストだから、現憲法を民主的、平和的なものに改正してはどうか、と肩をたたいていったのです。
近衛さんにしては、マッカーサーにそういわれたけれども、自分が戦犯にされる危険もある。近衛さんがどちらが本当なのか何度もたしかめられるので、私は高木八尺〈ヤサカ〉先生といっしょにマッカーサーの高級副官であつたボーナ・フェラーズ代将を総司令部に訪ね、マッカーサーの真意をただしました。フェラーズはマッカーサーが憲法改正を近衛さんに示唆したことは間違いない、というのです。
―― マッカーサーのいつたことに「コンスティチューション」という言葉が出、近衛さんはそれを「憲法」と受けとつたのですが、「コンスティチューション」には、いろいろな意味があり、マッカーサーは全く別な意味でいったのに、近衛さんが自分に憲法改正をせよ、といわれたとカン違いしたという説が一部にありますが……。
松本 そんなことはありません。近衛さんがマッカーサーに会ったときには奥村(勝蔵・英語通の外務次官)が通訳としてついていっているのですからね。
―― 近衛さんが、どういう方向で憲法改正をしようとしていたのでしょうか。
松本 近衛さんは、日本を再建するには天皇を中心にしなければならない、と考えていました。だから憲法改正も、天皇さまになるべく傷がつかないようにやってほしかったのです。
明治憲法の前文には、この憲法を改正する必要があるときは、「朕がみずからその発議の権をとる」となっています。文字どおり読めば、憲法改正の発議の権をとるのは天皇さまでなければならない。明治憲法は欽定憲法なのだから、それを改正する発議は、天皇さまにやってもらったほうがいい、というのが近衛さんの理論です。そこで、憲法改正の作業をするために内大臣府御用係が設けられたのです。木戸〔幸一〕が内大臣をしていました。
近衛さんは京都大字の出身だから、京都大学教授をしていた佐々木惣一という憲法の大家に憲法改正案を頼み、内大臣府御用係に任命します。佐々木さんは弟子を二人連れてきて、箱根で草案づくりの作業をつづけます。佐々木さん自身はリベラリストなのですが、弟子の一人は大石義雄という大変な保守的学者でした。
―― 近衛さんは東久邇内閣では国務大臣でしたが、幣原内閣に代るとそのポストからはずされました。そのうち、マッカーサーが幣原に対してあらためて憲法改正を指示しますね。そうなると、近衛さんが憲法改正の本流からわきに押しやられることになります。
松本 東久邇内閣が総辞職して、幣原内閣ができるとき、東久邇内閣の外務大臣だった吉田茂がそのことを知らせるためにマッカーサーに会いに行ったのです。マッカーサーは吉田に対して、内閣が東久邇内閣から幣原内閣に代わっても、とにか憲法改正はしなければいけない、といいました。組閣を終えて幣原がマッカーサーを訪ねたときも、マッカーサーは同じことをいいました。マッカーサーにすれば、憲法改正を、近衛さんに頼んでも幣原に頼んでも同じだ、と思っていたのです。近衛さんと幣原とに別々に二元的な意味で指令したわけではないのです。
そこで、幣原は松本烝治を委員長にした憲法問題調査委員会を一〇月一三日に設置します。松本烝治は、国務大臣をしていましたが、頭の切れる人でした。大学では商法の講義をしていましたが、憲法の問題にもくわしかったのです。
そのうちに、内大臣府が憲法改正をすることに対する批判が出てきました。その急先鋒は、東大の宮沢俊義教授です。宮沢は憲法改正は「国務」であって、当然、内閣の責任でなされるべきものだ、という議論を展開するのです。たとえ、発議の権を天皇さまがとられても、実際の憲法改正の仕事は内閣がすることになるので、本当はあまり大きな違いはないのですが、宮沢理論によると、近衛さんははじき出されてしまうわけです。宮沢は大学で私と同級で、学問もよくできた人ですが、新聞でそういう意見を述べていました。近衛さんの立場が苦しくなりました。
―― 近衛さんに対する風当たりが強くなっていくなかで、近衛さんは一二月四日、自決します。
松本 マッカーサーは、憲法改正を近衛さんに正式に指令したことはないという取り消しの声明を出すのです。それに対して近衛さんは激しく怒った。最初、自分に頼んでおいて、いまになってそういうことは知らないとは、マッカーサーは自分をだました、というわけです。しかも、今度は自分を戦犯として逮捕しようとしている。憲法改正をしてほしいと肩をたたいておいて、それから二ヵ月たてば、逮捕するというのはなにごとか、と。戦犯として巣鴨に行き、法廷に立つことになれば、天皇さまと自分が近いことがわかり、戦争責任の累が天皇さまに及ぶ危険がある、それを防ぐために自殺したのではないか、と私は思います。〈169~171ページ〉
明日は、南原繁「憲法改正」の紹介に戻る。