礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北朝正統論は自然派、南朝正統論は規範派(史学協会)

2023-09-16 00:08:55 | コラムと名言

◎北朝正統論は自然派、南朝正統論は規範派(史学協会)

 石田雄『明治政治思想史』(未來社、1954年11月)から、後篇第一章の第四節「明治末期における権力と思想」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 昨日、引用した部分のあと、改行せずに、次のように続く

この際併せて注目しなければならない点は、久米〔邦武〕事件の場合のように単に直接的に関係ある一部の神道者流の動きではなく、更に広い層が体制的イデオロギー形成の前衛的担い手として現われて来たということである。たとえば二月一九日には水戸市教育会長菊地謙二郎が同教育会の決議により理由書付きの建議書を文相の許にもちこみ、市村瓚次郎〈サンジロウ〉、姉崎正治〈アネサキ・マサハル〉(8)、笹川種郎〈ササカワ・タネオ〉らは水戸に乗込んで本問題の講演会を開き、そのほか弘道会、丁酉〈テイユウ〉倫理会等もきそつてこの問題をとりあげ、さらに大日本國體擁護団が作られ五六百通に及ぶ教科書排斥の檄文を全国新聞社等に配送して世論をあおつた(9)。新聞・雑誌もこぞってこの論争をのせ、とくに万朝報〈ヨロズチョウホウ〉、読売新聞などは南朝正統論の立場を示していた。しかも、これら民間の動きが、同時に政界における政府攻撃の動きと結びついたことにも久米事件当時と異つた特徴を見出すことができる。二月六日の藤澤〔元造〕の質問書の賛成者中には、河野広中〈コウノ・ヒロナカ〉、大竹貫一など、日比谷国民大会〔1905〕当時の指導者が名前をつらねており、藤澤の質問演説中止後も、犬養毅〈イヌカイ・ツヨシ〉、大石正已、河野広中を提出者として二月二一日政府弾劾案が提出され、そのほか、貴族院でも徳川達孝〈サトタカ〉、高木兼寛〈タカキ・カネヒロ〉らがこの問題について文相に質している。さらに戸水事件の中心人物戸水寛人〈トミズ・ヒロンド〉をはじめとして政友会中の有志二八人が紅葉館に会して教科書失態問題決議案を決議しているが、学問の自由を標榜して休職処分を撤回させた戸水教授が一度〈ヒトタビ〉國體の問題に関しては、同僚教授を休職とするような結果をもたらすことに力をかしたということは、まことに戸水事件の本質が「新紀元」の記者の論断の通りであったことを裏書きするものではあるまいか。とにかく、民間における運動が、思想、言論界と政界とに亘つて行われ、一見政府鞭韃の形式をとりながら実は体制の強化に役立つという関係は、日露戦争における対外硬論と同様であるが、問題が対外関係でなく「國體」に関するものであるだけに、論争対立はさらに心情的なものとなり、学問の自由への圧迫は常識的な心情の圧力を媒介とすることによつて、政府の直接的な暴力的統制による以上の効果をおさめることができる。すなわち「文部省が平生〈ヘイゼイ〉偏狭な精神を鼓吹して居たから、今度の如き場合にも、縦令〈タトイ〉文部省の方が宜い〈ヨイ〉と思つて居る者も、其弁護を好まぬ向〈ムキ〉もあろう。以前は物議を醸す者は多く民間にあつたが、今日では文部省が物載を醸す〈カモス〉、己れに出て己れに返へる。文部省は自縄自縛の破目に陥つて居るのである(10)」という浮田和民〈ウキタ・カズタミ〉の指摘は確かに当つているが、「之に鑑みて須らく〈スベカラク〉固陋の見解を捨て多少不健全の思想も、他の健全なる思想の刺戟剤として之を許し、国内の人心を快濶ならしめ、自由討究の精神を盛んならしむるに努むるを要す(11)」という提言が容れられるどころか事態はかえつて逆の方向にむかつて進んだ。たとえ文部省が物議を醸し、政府が攻撃されても、それが「國體論」を基礎としているものである限りは、決して脅威を感じて思想一般の取締について譲歩するというようなことはありえず、逆にそのような表面的な対立や政府攻撃を媒介することによつて、益々権力の基礎は強化され、思想の自由への統制は厳となる。なぜならば、本来國體論は前篇に詳述した如く、権力に対抗する側で援用できる規範ではありえず、専ら既存の権力のための弁神論にほかならなかつたからである。もつとも、結果的には体制的イデオロギーの安定をもたらしたとしても、この論争自体が、その中にはらまれた内在の矛盾の露頭であつたことは否定すべくもない。たとえば、南朝正統論の立場から論争を整理した史学協会編「南北朝正閏論」が北朝正統論者乃至両統対立者を自然派、南朝正統論者を規範派とよんでいるように南北朝当時における事実的支配は明かに北朝にあり、神器の所在等についても、必ずしも南朝に有利なきめ手があるわけではなく、明治天皇に至る皇統も北朝派からひいているという点からすれば北朝論乃至両朝対立論が優勢であるにも拘らず、それは事実であつて、規範としてはあくまで南朝を正統とすべきであるということを、南朝の忠臣等に対する国民感情に訴えて行こうとする南朝正統論の論拠は理論的には極めて困難であり、しばしば単なる感情論が前面に出ざるをえなかった(12)。
 これはまさに、時を同じくして作られた修正修身書の内容について藤井健治郎が「都合によつては自然の情を説き、都合によつては当然の道を説く(13)」と批判したその矛盾にほかならない。しかし、このような内在的矛盾も前篇にのべたような「家族国家」観の構造の中に位置づけられることによつて、また同時に、他方では、タブーの領域を拡大すること――別の面からいえば学問の自由の狭隘化――によつて次々に解消の方向にむかうのである。むしろ極言すれば、学問に固有の領域を認めず、これをも「國體論」乃至「国民道徳論」の体系の中にくみこむことによって矛盾をはらむ無矛盾の体系、あるいは体系なき体系としての「家族国家」観が完成されるわけである。学問の領域を自己の内にくみこむということの半面には、当然包摂しえない異質物を強力的に排除するという過程を伴う。南北朝正閏論と同じ年に起った岡村司〈オカムラ・ツカサ〉教授の事件はその一つの適例である。これは明治四四年〔1911〕六月京都大学教授岡村司博士が岐阜県教育会総会で、知事・小学校教員を前にして行った「親族と家族」と題する講演が、家族制度を非難攻撃し、平田〔東助〕内相、小松原〔英太郎〕文相の訓示を根抵から破壊したものと報ぜられ、ついに岡村教授は七月一七日譴責〈ケンセキ〉に処せられた事件である。すでに前年には河田嗣郎〈カワタ・シロウ〉助教授の著書「婦人問題」が文部当局から家族制度を破壊する処ありと絶版を求められたほどであったから、我が国の家族制度は昔の遺風で今は何の意味もないと自ら新聞記者にも語る岡村教授の存在は、外ならぬその酵風美俗を國體の基礎におくことを強調している当局にとつて好ましくなかつたのは当然であろう。京大法科大学では最初は、学問の独立のために毅然とした態度をとるべきであるとの論もあつたが結局沈黙を守つた。そればかりでなくこの問題の責任を感じて総長は辞表を提出するという卑屈な態度にさえ出た(14)。このようにして、戸水事件では一致して抵抗を示した大学も、喜田、岡村両教授の場合には何らの態度も示さなかつたということは、帝国大学がなお根柢から自由な学問の府として確立されているのではなく、等質的な体制的イデオロギーの一環において独自の存在領域を与えられているにすぎないことを示すものであり、このような関係にある限りは、学問の自由は本来的意味においては存在しないに等しく、恣意的にその範囲が限定されるに至るのである。【以下略】

 (8) 姉崎正治の論旨については、同著南北朝問題と國體の大義(明治四四年)参照。
 (9) 内田周平「南北正閏問題の回顧」向坂逸郎編著 嵐のなかの百年 六〇頁による。
 (10) 浮田和民談「此頃の人心」史学協会編 南北朝正閏論(明治四四年)所収 同書二三五頁。
 (11) 同前 二三五~六頁。
 (12) 詳しくは前掲書所収の約四〇篇に及ぶ諸論参照。
 (13) 藤井健治郎「新制第三学年用高等小学修身書の批評」丁酉倫理会講演集 第一〇四号(明治四四年)所収 同書四〇頁。
 (14) 岡村司教授の事件について詳しくは向坂逸郎編著 嵐のなかの百年 八三頁以下参照。

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