◎学問の領域では南朝正統論が確定された
石田雄『明治政治思想史』(未來社、1954年11月)から、後篇第一章の第四節「明治末期における権力と思想」を紹介している。本日は、その三回目。
大逆事件とならんで明治四四年〔1911〕における二大事件とされ(5)、桂〔太郎〕首相自身が一生の中で最も心痛した事件(6)と回顧している南北朝正閏論争も、事の起りは、すでに明治三六年〔1903〕以来久しきに亘つて問題にもなつていなかつた文部省編纂の教科書中の南北朝を対立させて取扱つた箇所が、文部省主催の講習会における同教科書編纂責任者の一人喜田貞吉〈キタ・サダキチ〉博士の講演中北朝正統論ともみなさるべきものがあつたということから問題視されるに至り、明治四四年一月一九日の読売新聞社説「南北朝問題(国定教科書の失態)」以来広く世人の注意をひくに至つた点にある。同社説は、激烈な論調で「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は、知識徳行の優劣よりも、先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何〈イカン〉に在り。今の如く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては、特に緊要重大にして欠く可らず。而して国民に此の情操を豊富ならしむる方法は、実に国史の教育に若く〈シク〉ものなし。然るに今文部省が国定歴史を以て『南北朝対立――傾逆不二』の観念を第二代の国民に鼓吹せば、其結果は如何。実に寒心に堪へざるなり」と南北対立を認めれば楠公と尊氏とは同列となり大義名分が明かにならないことを論じ、最後に〔小松原英太郎〕文相に警告して「文相速かに此の失態を修正し、兼て行政上の責任を明かにし、且委員会の組織を更め〈アラタメ〉、斯の如く慎重を要すべき業には、少くともハイカラ学者の参加を排し、以て将来を戒飭〈カイチョク〉せざるべからず」と結んでいる。その後早稲田大学講師牧野謙次郞、松平康國がこれに共鳴して教科書改訂の運動をはじめさらに代議士藤澤元造を動かして議会の問題とするに至つて、俄か〈ニワカ〉に政治上の重要事件となつた。二月六日には 「文部省は南北両朝の御争を以て皇統の御争となすや」「文部省の編纂に係る小学校用日本歴史は順逆正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷け〈キズツケ〉奉り、教育の根柢を破壊するの憂なきや」等の五項目に亘る質問書を提出したが、時あだかも大逆事件と共にこの問題をめぐつて、かねてから政界の中でも基礎の動揺しはじめていた桂〔太郎〕内閣に迫ろうとの気運の高まつていた際でもあり、また問題が皇室に関することだけに一度対策を誤まれば、内閣にとつて致命傷となることを恐れて、種々の苦肉の策を用いた。すでにその手段については前篇において触れた(7)のでくりかえさないが、要するに結果としては、桂内閣の懐柔策が奏効して表沙汰とならず、藤澤の質問は中止されたが、しかもその学問の領域での帰結は、南朝正統論が確定され、教科書の執筆者であつた喜田博士は二月二七日責任者として休職処分に付せられたのである。【以下、次回】
(5) 明治四五年一月一日の萬朝報における過去一年の回顧によれば次の如くである。
「予算案以外の問題にして、政界を賑はしたるもの二あり。大逆事件はその一なり、南北朝正閏論はその二なり。大逆事件は必ずしも桂内閣あるが故に発生したるものに非ず、然れども当局者の措置、之を激成したるの慊あるは識者皆な之を認む、蓋し先年桂系の政治家、西園寺〔公望〕内閣破滅の陰謀を企つるや、社会主義取締、寛に失するを口実として、盛んに内閣を中傷したることあり。故に代りて政権を取るに及んで勢ひ自家の大忠臣たるを證明せざるべからざるに至れり。社会主義者に対して手段峻厳を極む、而して後に大逆事件あり。人皆な逆徒の罪を悪むと共に、桂首相等の形式的に待罪書を捧呈したるを見て其だ不快の感に堪へざりしが、既にして南北朝正閏論起り、輿論囂々として、教科書の改訂を求む。然れども小松原文相に輿論を聞くの耳なく、加ふるに桂首相が一代議士を買収して該事件の質問演説を止めしめたること公然の秘密となるに至りて、事態益〻重大となり、遂に国民党の問責決議案となれり。」
(6) 公爵桂太郎伝 坤 五二〇頁。
(7) 前篇第二章第二節註四四参照。
註5の「慊」は、ウラミともキライとも読める。