◎右傾的な暴力思想に政府は寛大だった
美濃部達吉『議会政治の検討』(日本評論社、1934)から、「井上準之助君の遭難」という文章(初出、1932年3月)を紹介している。本日は、その三回目。
而してそれは主としては政治上に指導の地位に立つて居る有力な政党政治家の責に帰すべきものでなからうかと思はれる。二大政党のスローガンに陋劣な人身攻撃の文句を用ゐて居ることが、政党自身の責任に帰すべきことは、言ふまでもないのみならず、近年の政党には反対党の排撃の為には如何なる手段をも憚らない風潮が盛であつ、是が一般に伝播〈デンパ〉したものと見るべきであらう。殊に憂ふべきことは、政治上又は社会上に有力な地位に在る人々が、往々過激な××××××××××を与へ、陰に陽に之を庇護して居る形跡の有ることである。左傾主義に対しては政府は全力を挙げて之を抑圧することに努めて居るのに反し、××××を標榜して居る者は、其の主張が如何に過激であり、如何に非合法的であつても、尚公然天下を横行して、政府は之を取締らうともしない。併し暴力を是認し、立憲政治を否定する過激な思想は、其の国家及び社会に危険であることに於いて、過激な左翼思想と択ぶ所は無い。仮令〈タトイ〉表面には××××を名乗つて居るとしても、其の実は国家を危くし、國體を傷くる〈キズツクル〉もので、矯激な左傾主義と同様に排斥せられねばならぬものである。政府が左傾思想の取締にのみ汲々として、斯ういふ過激な右傾的な暴力思想の取締に寛大であつたことは、今日の如き凶変の頻々として起る有力な一原因を為して居るものでなからうかと思ふ。
此〈カク〉の如き凶変の再び発生することを防ぐ為に何よりも必要な事は、朝野の有力な政治家を初め、陸海軍部の首脳者、其の他社会上有力な地位に在る人々が、十分に立憲政治の精神に徹底して、相率ゐて暴力の排斥に努めることでなければならぬ。立憲政治は寛容の政治である。反対の主張に対しても寛容の態度を取り、それが国法を無視し国家を否定するものでない限りは唯言論に依つてのみ之に対すべく、権力や暴力を以て之を圧迫することをしないのが、其の根本精神の存する所である。それは又目的の為に手段を択ぶことを必要とする政治である。仮令其の目的に於いて適切であつても、共の目的を達する為に不法な権力や暴力を以てすることは立憲主義を否定するものである。今日の深憂とすべき所は、朝野の有力なる指導者が、此の立憲主義の精神を尊重せず、目的の為に手段を択ばず、反対党や反対思想に対し、如何なる不法の手段を以ても之を圧迫することを避けない傾向を有つて居ることである。今日の政党政治家は、屡々政治教育公民教育の必要を叫んで居る。それは固より異論を容るべき事柄ではないが実を謂へば政治教育の必要の最も痛切なのは、一般民衆ではなくして、却つて朝野の有力な指導者に在るのであつて、自ら政治の衝〈ショウ〉に当つて居る者が立憲主義の精神を蔑視して居りながら、如何にして民衆を教育するの任に当ることが出来ようか。民衆に対する政治教育の必要を絶叫する前には、政治家自身が先づ自ら反省して、立憲主義に対する深き信念を養ひ、暴力否定の態度を確立することが必要である。【以下、次回】