礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この数年、ファッショ政治礼讃の声が抬頭し……

2023-09-08 00:06:46 | コラムと名言

◎この数年、ファッショ政治礼讃の声が抬頭し……

 美濃部達吉『議会政治の検討』(日本評論社、1934)から、「井上準之助君の遭難」という文章(初出、1932年3月)を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 一方に於いて、此の数年来政党政治の弊害百出、其の信用の益々失はれて来たのに基いて、フアツシヨ政治礼讃の声が漸次抬頭し、殊に満洲事変勃発後はそれが急激の勢を以て昂進して来たことも、亦暴力肯定の風潮を促がす原因を為して居ることと思ふ。政党政治が今日のやうな不信用の状態に在る間は、さういふ思想が勢力を得るのも已むを得ない所であり、殊に現代の如き経済上の危機に当つては、力強い政治が最も必要であつて、政党政治はそれに対する適当な能力を欠いて居る憾〈ウラミ〉があり、それがフアツシヨ政治を謳歌する重なる〈オモナル〉原因となつて居るのであるが、併しフアツシヨ政治は名称こそ新しいが、実質に於いては決して新らしいものではなく、我が国に於いて立憲政治の施行に至るまで行はれて居た旧薩長政府の政治は、実質上一種のフアツシヨ政治であつたと謂つて可い。それは一国一党の政治で反対党の存立を許さず、実力を以て反対者を圧迫し、一切の政治が政府の首脳者の独裁を基礎とするものである。其の発生の原因と政治の内容とに於いては、薩長政治は固より現代の所謂フアツシヨ政治と同一ではないが、併し実力を基礎とする独裁政治であることに於いては、其の本質を同じくして居るものである。斯かる独裁政治も維新創業の際、政治及社会の総ての方面に亘つて急激な改革を要する過渡の時代には、必要であつたのであつて、実際にも能く実効を挙ぐることを得たのであるが、併し其の結果は何うであつたかと謂へば、実力に依る圧迫に対しては又実力に依る反抗が絶えず、明治七年〔1874〕の佐賀の乱を初として叛乱相次いで起り、政府は極力言論出版及び集会結社の自由を圧迫し、甚しきは明治二十年〔1887〕の保安条例の如き突然民間の志士を帝都三里以外に放逐するやうな暴挙をも肯てするを憚らなかつた。其の間一方に於いては政府の大官や有力な政治家で刺客の厄に遭うたものも尠からず、明治十一年〔1878〕には大久保利通の暗殺が有り、十五年〔1882〕には板垣退助が刺客に襲はれ、二十二年〔1889〕には森有礼(もり・ありのり)が殺害せられた。明治二十三年に始めて議会が開かるることなつたのは、斯かる暗黒な歴史を経て後、此の独裁政治の害毒を救ふが為にしたものであつて、而してそれは実際にも能く其の目的を達し得たのである。実力に依る暴動は其の以後は少くも内地に於いては殆ど跡を絶ち、国力の発展も其の以後殊に著しきものが有つた。保安条例は撤廃せられ、新聞紙の無条件な発行停止権は排除せられ、仮令〈タトイ〉言論出版又は集会結社の自由に対する保障が、尚不十分であるとしても、之を藩閥政治の時代に比しては、其の差異は極めて著しい。之を再び独裁政治の昔に復し、暴力を以て反対者を圧迫する暗黒時代を再現せしめようとするのは、如何にしても吾々の忍び得ない所である。現在の政党政治が甚だ不満足の状態に在ることは、争ふべからざる所で、しかも之を救ふべき方策は容易に之を求め難く、今俄に〈ニワカニ〉完全な良策を見出だすことは望み得ないけれども、吾々は根本に於いては何処までも立憲主義の精神を尊重し、朝野の政治家及び社会の有力者が此の主義に付いての強き信念を養ひ、飽くまでも暴力を否定する態度を取られんことを希望せざるを得ない。それが不慮の災厄に遭はれた井上君の霊を慰むる唯一の手段であらう

 文中、森有礼殺害の年を、「二十三年」としてあったが、引用者の責任で、「二十二年」と訂正した。

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