礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石田雄『明治政治思想史』(1954)を読む

2023-09-13 02:34:35 | コラムと名言

◎石田雄『明治政治思想史』(1954)を読む

 以前から、南北朝正閏問題に関心を持っている。最近、石田雄(たけし)の『明治政治思想史』(未來社、1954年11月)を再読した。ただし、南北朝正閏問題に関わるところのみ。この本は、著者が31歳のときに出した本だが、なかなかの名著だと思う。
 本日以降、同書のうち、南北朝正閏問題に言及しているところ、すなわち、後篇「明治政治思想史の諸問題」の第一章「権力と思想」の第四節「明治末期における権力と思想」を紹介してみたい。

  第四節 明治末期における権力と思想
     この時代の特徴――南北朝正閏論――三教会同
【一段落分、略】
 日露戦争前後からの社会的矛盾の激化は明治四一年〔1908〕には増税反対のスローガンに煽られて二月一一日日比谷に主催者不明の国民大会が開かれ、同年三月七日には普選運動の大会を禁止するほど神経質にならざるをえなくなつている。それに伴つて体制のイデオロギー面での不安定性の露呈に直面して政府は周知のような社会主義に対する極度の取締を行つた。とくに矛盾の根源を除去せずして社会主義思潮乃至は広く「國體」に反する思想の拡大を伝染病のように恐れる政府は、国民教化の場としての教育界については、とくに神経質であつた。例えば一九〇二年(明治三五年)六月一日に麻布中学校長江原素六〈エバラ・ソロク〉が静岡県教育懇談会で、教育勅語について、勅語といえども時の推移によつては替りうると演説して尾崎〔行雄〕の共和演説〔1898年〕以来の問題とされたのをはじめとして、一九〇六年(明治三八年)〔ママ〕には、神田区佐久間小学校訓導座間鍋治は、東京師範卒業の優秀な教員であるにもかかわらず、熱心な社会主義者であるという理由で休職となり、同時に東京師範は「直言」の講読を禁止した事件、あるいは、一九〇六年(明治三九年)七月二一日に、神田青年会館の社会教育会第三回演説会で慶應義塾教諭向軍治〈ムコウ・グンジ〉が、五百余名の聴衆を前に文部大臣の教育訓令を非難する演説を行い、教育勅語には遵奉の義務がないとのべたというので文部省から中学・高専学校教師の資格を奪われた事件等がある。さらに後になると一九〇九年(明治四二年)岐阜師範三年生小森菊次郎が校友会雑誌「良友」にトルストイに関する文章をのせて諭示停学となり、主任教諭もその責任上三カ月間月俸十分の一の減俸処分にあい、翌明治四三年〔1910〕には
 「小松原〔英太郎〕文相は此程各地方長官に内命を下し、其高等官をして親しく実地に就き公私立の図書館、及公私立学校の図書室に於ける閲覧図書の部類、多寡幷に〈ナラビニ〉閲覧者の種類年齢等を精密に調査し且つ左記項目の図書には特に注意せしむるやう要求せり一、淫逸的記事の図書、一、厭世的記事の図書、一、社会主義の図書、右の内特に社会主義図書の調査に重きを置き厳重に之を取締る筈なり(1)」
と報ぜられている。【以下、次回】

 (1) 教育時論 九一三号(明治四三年八月二五日)参照。

 註は、節の最後に置かれているが、今回の紹介では、関係の註を、その都度、掲げることにする。
 文中、「一九〇六年(明治三八年)」とあるのは、原文のまま。一九〇五年(明治三八年)、もしくは、一九〇六年(明治三九年)でなければならない。いま、どちらが正しいか、いま判断できない。

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