◎美濃部達吉銃撃事件の真相
本日は、憲法記念日である。そこで、昭和の憲法学者・美濃部達吉にちなむ話題を提供しよう。
美濃部達吉(一八七三~一九四八)と言えば、天皇機関説の主唱者として、あるいは一九三五年(昭和一〇)の天皇機関説事件の主人公として、よく知られている。
しかし、美濃部達吉博士が、一九三六年(昭和一一)二月、自宅を訪れた右翼の青年に銃撃された事件は、あまり知られていない。この際、博士は右脚にピストルの弾丸を受けたが、その弾丸が、護衛の警察官によって放たれたものであったという事実にいたっては、全くと言っていいほど知られていない。
以下に紹介するのは、『人物往来』第四八号(一九五五年一二月)特集「昭和重大事件の真正報告」から、有松祐夫執筆「護衛に撃たれた美濃部達吉」の全文である。
護衛に撃たれた美濃部達吉 有松 祐夫【ありまつ すけお】
――右脚に当った弾は犯人小田十壮の撃ったものてはなかった――
問 題 の 発 端
憲法学者美濃部達吉博士の天皇機関説が、議会の大問題となったのは、昭和九年〔一九三四〕、岡田啓介内閣の第六十五議会に於てである。
貴族院議員菊池武夫男爵が、天皇機関説は反逆思想であると攻撃し、次で六十七議会に於ても菊池氏は同様攻撃を続けた。博士は右攻撃に対し、その然らざる理由を弁明したが納得せしめるには至らなかつた。
一方軍では、軍の動揺を防ぐ為めと称して、国家統治の主体は天皇におはします。機関説は誤りであると、真崎〔甚三郎〕教育総監が全軍に布告した。
昭和十年〔一九三五〕三月、江藤源九郎〈ゲンクロウ〉代議士は、機関説は不敬罪なりとして告発した。博士は検察当局の調べを受るに至った。
この様な無意味な渦の中で、博士は狙撃された。以下はその真相である。
暴 漢 の 訪 問
昭和十年十二月十五日、予て〈カネテ〉都下吉祥寺に新築中の家屋が完成したので、博士は新邸に引越して行った。邸内は七名の巡査が三交替で、警戒していた。
明けて昭和十一年〔一九三六〕二月二十一日午前十時少し前、袴を着し二重廻〈ニジュウマワシ〉を着た、三十前後の小づくりではあるが血色のいい、扁平な顔をした青年が、果実籠をさげて、自動車で訪れた。
青年は警戒の巡査に名剌を出しその身分を明かにした。巡査は一応青年の身体を改めたが、果実龍は改めなかった。青年は門をはいって玄関に行き二重廻を取り左手に持ち、取次に出た女中に
元福岡地方裁判所判事、法学士弁護土 山田俊雄
の名刺を出して、博士に面会を乞うた。そうして、学校時代の「教え子です」とつけ加えた。
女中の取次を受けた博士は、山田俊雄なる名刺の人を知らなかった。しかし、はるばる福岡から出て来た者を、追い返すのもいかがやと思い、応接間で会うことにした。
【一行アキ】
応接は日本間に絨氈〔ママ〕が敷れてあった。青年は帽子と二重廻をガラス戸の際に置いた。頭はイガ栗坊主であった。果実籠は裸の儘〈ママ〉左手の椅子の側〈ソバ〉に置いた。青年は黒の絹の羽織の裾を後に引いて肱掛椅子に腰をおろして、博士の来るのを待った。
やがて、博士は着流〈キナガシ〉のまま這入って来た。青年は立ってそれを迎え、手焙りの火鉢を挟んで横の椅子に博士は座った。
挨拶が済むと、博士は何時も教え子に聞くように、東大か私大か、卒業年度はいつかと聞いた。青年は大正十一年〔一九二二〕の東大卒業だといった。それから選挙の話、高文試験〔高等文官試験〕の話が持ち出された。青年の答は時々ピントがはづれ法学士とは嘘ではないかと思われる節もあったが、言葉付〈コトバツキ〉や態度が非常にへり下っているので、頭から疑えなかった。青年は話題を機関説に移した。
「機関説当時は御心配だったでしょう」
「ええ、もうあの当時は実に五月蝿くて〈ウルサクテ〉……。私が貴族院議員をやめないと、内閣が潰れるというもんだから仕方なしに辞任しました」
博士は当時を追想して苦笑した。そうして
「私の説に反対のものは、二言目にはピストルを突き付ける様な輩〈ヤカラ〉ですからね……」
と笑った。青年は落ついて
「御尤もで御座います」
と、とり澄していった。青年は更に
「先生の最近の御著書を拝見させて頂けないでしょうか」
「ええ、お目にかけましょう」
博士は気軽に書斎の方へ出て行った。
すると、青年は側ら〈カタワラ〉に置いてある果実籠を引き寄せ、底の方に手を突込んで、木藻〔ママ〕が外へ出ない様に注意しつつ、一挺のピストルを取り出した。弾は七発入れてあった。
博士が「法の本質」〔『美濃部達吉論文集 第二巻(法の本質)』日本評論社、一九三五〕「ケルゼン学説批判」〔『美濃部達吉論文集 第三巻(ケルゼン学説の批判)』日本評論社、一九三五〕を持って戻り、青年の前に置いた。青年はその一冊を取り上げ一寸〈チョット〉頁を開いて見る風を粧った〈ヨソオッタ〉。その時満身の力をこめて
「いや、大事な用事がありました。私はここに書きものをして来たのですが、見て下さいますか」
と、訊ねた。博士は
「そうですか、拝見しましょう」
と、愛弟子に対する如く、前かがみになって手を出した。青年は懐中から封書を取り出して、卓上に置いた。博士がそれを取り上げて見ると
天誅 逆徒美濃部達吉
と書いてある斬奸状〈ザンカンジョウ〉であった。博士の顔が真青になり、少し震えたが、最後迄読んだ。
「とんでもないことを書いたものですね、貴方は御名前が違うではないですか」
と叫んだ。斬奸状には「小田十壮」と本名が認めて〈シタタメテ〉あった。博士は
「貴方は私の本を読んでいない!」
と、いい放った。
小田は威丈け高〈イタケダカ〉になり
「いや読んでいる、その斬奸状を読んで何か釈明を書く意思はないか」
と怒鳴った。博士は
「そういうことはお答の限りではありません――失礼します」
と、言い残して応接間の襖〈フスマ〉を開け廊下へ出ようとした。
逃げられてはならぬと、小田は立ち上り、博士の後に続いた。博士は前向に小田と対峙し乍ら、後すざりで廊下を玄関の方に行き
「お客さんお帰りよ」
と、叫んだ。
小田は外の人が集っては一大事と、廊下に飛び出した。博士が後退し乍ら玄関先にいたので、ピストルを出し、狙〈ネライ〉をつけ、引金を引いたが、安全装置になっていて落ちなかった。
先に立って逃げる巡査
はッと思って小田が装置を下げている間に博士は内玄関に通る方に曲って、横飛びに飛んで、ガラス戸から足袋跣足〈タビハダシ〉の儘、外へ出ようと焦っていた。小田は博士目がけて一発、発射した。手応えはなかった。
博士は跣足のまま表門に通ずる砂利道に飛び出した。小田がそれを追いかける。表門迄の距離は九〇米ある。この間を追かけざま、小田は七発の弾丸を打ち尽した。中に二発不発があった。
博士は表門迄馳せ〈ハセ〉つけた。門には護衛の巡査がいるので、犯人を取押えて呉れるだろうと思った。ボックスの中には正服〔ママ〕巡査が立っていたので、「後からピストルを打つものが来るから取押えて呉れ」といった。巡査は二十九才の屈強な男であったが、博士に先立ってスタコラ逃げ出した。
やむなく、博士は逃げる巡査の後に追従して、左手の横の空地を自宅の生垣〈イケガキ〉に沿うて、逆に裏手の方向に走りかけた。巡査が躓いて転倒した拍子に所持のピストルの引金を引いた
ずうっと向うの道の真中に杭が立ち、鉄条網が張られて行き詰りになっていた。無意識にその間を潜り抜けて走ると、博士は右脚の後脛が石をなげつけられたような衝撃を受けた。流弾〈リュウダン〉が一発あたったのである。
小 田 の 逮 捕
小田は撃ち尽したピストルを提げて〈サゲテ〉表門を出たが、空地の所で右袂〈タモト〉から実弾を取出し、弾倉へ詰めた。慌てたので二三発外へ紛失したが、四発位装填することがか出来た。博士が鉄条網を抜けて向う側の通りに出る角の辺に逃げるのを見すましてから、追いかけても間に合わないが、何れ帰って来るに違いないから、家に這いって〈ハイッテ〉来る所を射殺してやろうと表門を引返し、内玄関前の大きな樫の木の下に立ち止まって待った。
「お客様お帰り」という博士の声を聞いていた女中が、玄関に出て見ると誰もいなかった。不思義だと思って、玄関の外を見ると、今朝程の青年が羽織をはだけ、袴も崩し、手にピストルを持って、こちらを向いていた。吃驚〈ビックリ〉した女中は之も足袋跣足の儘にて玄関を飛び下り巡査の詰所に向って力一杯「BさんBさん」と私服の巡査を呼んだところ、そのうち詰所のガラス戸が開いてBの顔が見えたので「旦那様が大変よ」といって博士を捜しに表門の方へ犯人の後へ喰ついて〈クッツイテ〉駆け出した。其所〈ソコ〉から博士が左隣の空地を裏の方へ無事に逃げて行くのが見えたので安心した。この時犯人が立ち止って女中の方へ背中を向けて、何かしている様子であったが、それは弾丸を補填しているのであった。
女中に急を告げられたB巡査は、表玄関から外へ出ると、犯人が袴を引摺り、ピストルを握り乍ら玄関へ引返して来るところであった。
何をするか! 巡査は一喝して己のピストルの引金に指をかけ、樫の大木の所にいる犯人を狙った。樫の大木から新宅に通ずる門のところに、A巡査が折敷〈オリシキ〉の構えで小田を狙っていた。小田の右側をC、左側をDの各巡査がピストルで狙っていた。小田は完全に包囲された事を感じ、身を縮め、殺されるよりは死んでやれと思ったらしく、ピストルを胸に当てた。
轟然、数発の弾が飛び散った。小田はその場に座り込んだ。忽ち前後左右から警官が躍りかかった。小田は竟に〈ツイニ〉逮捕された。小田は胸に一発、肩に一発、足に一発の弾を受けていた。
不 思 議 な 幕 切 れ
五月二十八日、小田十壮は殺人未遂で起訴、予審の調べが開始された。殺人未遂罪で東京地方裁判所の公判に附する旨、予審決定がなされた。
一審では美濃部博土は小田の撃った弾によって傷を受けたものとして、徴役八年の判決が下された。小田は控訴した。
二審の裁判が東京控訴院で開かれた。処が茲〈ココ〉に予期しない問題が起きた。
被害者美濃部博士の供述調書によれば、右足に負傷したのは空地の鉄条網を越えてからのことになっている。然るに、小田が七発の弾丸を撃ち尽したのはその以前、玄関から表門に至る間であった。さすれば博士の脚部を撃った者は別人であらねばならぬ。
弁護人林逸郎〈ハヤシ・イツロウ〉、竹上半三郎は、弁護人の第六感からこの点を取り上げた。
巡査達の喚問が行われたが、証言は曖昧であった。次で〈ツイデ〉巡査所持のピストルの取寄〈トリヨセ〉が申請されたが、警視庁では当該ピストルが見付からぬとのことであった。それではピストルの台帳を出せと要求したが、これ亦警視庁には見当らぬと回答した。
やむなく帝大で摘出せられた弾丸と小田が犯行に使用したピストルとの対照鑑定が行われた。一体この弾丸は犯人のピストルから発射せられたる弾丸に相違ないかどうか。
精密なる測定研究の結果、銃腔の中に刻まれた螺旋〈ラセン〉と、発射の際に弾丸に印せられたる螺旋の痕跡とが、その巻き方を異にすることが判った。
小田の弾丸は美濃部氏の身体を損傷していなかった点が立証されて来た。小田には傷害の責任はないことになった。
之が為め二審の判決は懲役三年に相当の末決拘留が通算され、小田は黙々刑を終えてから郷里に帰農した。
新憲法の制定により、天皇の地位は単なる象徴と規定せられ、主権は人民の手に移された。そうして、天皇機関説の存在理由も、之の期〈コノゴ〉を以て終了したのである。
だが、此の篤実なる老学者美濃部達吉博士の右脚に、長さ四分、直径二分二厘の弾丸を撃ち込んだ下手人の穿鑿〈センサク〉は、闇から闇に葬られて今日迄判明していないのである。 (法曹ペンクラブ同人)
この文章は、「護衛に撃たれた美濃部達吉」と題されている。しかし、筆者の有松祐夫は、美濃部達吉の右脚に当たった弾丸が、護衛警官が放ったものであることを、ここで明確に指摘しているわけではない。
美濃部博士に当たった弾丸は、博士に先立って逃げ出した二十九才の巡査が、転倒した拍子に撃ってしまったものであろう。このことが、文脈から、ほぼ読みとれるように思うが、もちろん、明示的に書かれているわけではない。
こういう肝心なことについては、何ともアイマイであって、その一方、犯人あるいは美濃部博士の挙動などについては、細かいところまで詳しく描写されている。何とも不思議な文章である。
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