礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

唯一の例外は、万葉集巻十八の「也末古衣野由支」

2024-12-23 00:25:58 | コラムと名言
◎唯一の例外は、万葉集巻十八の「也末古衣野由支」

『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その二回目。

 それでは母音一つで出来た音節には、どう云ふ特異性があるかと考へて見ますと、第一に、母音一つの音節――これは少し面倒ですから仮に母音音節と言つて置きます――母音音節は古代国語に於いては語頭以外には用ひられないのが原則でございまして、此の原則が間違ひなく守られて居るのはアの音節とオの音節の場合であります。此のことは昔からの学者が能く認めて居る所であります。所が母音のエの音節については、斯様〈カヨウ〉な原則があることはまだ一般に知られて居ないかと思ひます。それは奈良朝からして平安朝の初期にかけての毋音のエ――五十音で言へばア行のエでありますが――それとヤ行のエ――ローマ字で書けばyeのエ――此の二つの音があつて区別せられてゐたのでありますが、其のことがまだ一般に知られて居なかつた為に、エについては語頭以外にも用ひられると云ふ風に考へられて居たのであります。けれども、今迄調べた所によりますと、毋音のエが語頭以外に用ひられた例は、少くとも奈良朝に於いては見出されないのであります。其の母音のエは例へば物を「得る」と云ふ語のエ、「可愛」の意味のエ、「榎【エノキ】」のエ、「荏【エ】」のエ、「葡萄【エビ】」のエ、「夷【エミシ】」のエ、「棧【エツリ】」のエ、(榱【タルキ】の上に竹を編んだもの)、さう云ふのがア行のエでありまして、これは皆今挙げた通り語頭にある。其の外にはないのであります。尤も万葉集に「左佐良榎壮士【ササラエヲトコ】」とあつて、お月様のことをササラエヲトコと言つて居ります。其のエがア行のエでありますけれども、是は「ささら」と云ふ語と、可愛と云ふ意味の「え」と、「をとこ」と云ふ語と三つの言葉が合して出来たものなのですから、是は言葉の中〈ナカ〉及び終りに用ひると云ふ意味にはならないのであります。唯一つ例外になつて居るのは、万葉集巻〈マキ〉十八にあります「也末古衣野由支【ヤマコエヌユキ】」の例であつて「越【コエ】」の「エ」にア行のエの仮名が書いてあります。「越」といふ語は沢山例がありますが、そのエは悉くヤ行のエで書いてあり、此の一つだけが例外になつて居るのであります。処が万葉集十八の巻を見ますと、仮名の遣ひ方が、上古の仮名遣ひから見ると変に思はれる所がちよいちよいあるのでありまして、或は後になつての写し違ひか、或は書き改めなどがあるのでないかと思はれるのでありまして、或は此の例も元はヤ行のエを表す仮名で書いてあつたのを、こんな仮名に改めたか、間違つたかしたのではないかと云ふ疑ひが非常に濃厚なものであります。下つて平安朝初期に於きましても母音のエ音節は語頭に用ひられるのが普通であります。今挙げました言葉の外に蝦【エビ】であるとか、■【エメムシ】と云ふ動物の名、赤鱝【アカエヒ】などの鱝【エヒ】、病気の疫【エヤミ】、物を選択する意味のエラブ、さう云ふエがア行のエであつて、これらは皆言葉の初めにあります。但し醍醐天皇の延喜〈エンギ〉年間に作られた本草和名〈ホンゾウワミョウ〉と云ふ本があります。動植物鉱物などのことを書いたものでありますが、其の中に、ア行のエが語頭以外に、即ち言葉の中、或は終りに用ひられて居る例が三つ程あります。其の一つは「尨蹄子」を「世衣【セエ】」とありますが、調べて見ますと、万葉集に「石花」と書いて「セ」と読んで居るのが是と同じ言葉であります。此の「世【セ】」の音を延ばして「世衣【セエ】」と言つたものと考へられます。さう云ふやうに音を延ばして言つた場合には、下の音は純粋母音でありまずから母音の文字で書くのが当然で是は奈良朝の時代に於ける地名に例があります。即ち大隅の「贈唹【ソオ】」郡、薩摩の国の穎娃郷など、「ソ」「エ」であるのを、何でも郡や郷の名は二字で書くことに定められたものですから、「ソー」「エー」と音を延ばして「唹【オ】」「娃【エ】」のやうな母音を表す字を附けて書いたのであります。ですから「世【セ】」であつたのが長くなつて「世衣【セエ】」になつたとすれば、下の「衣【エ】」が母音であつても例外とするに当らないと思ひます。〈161~163ページ〉【以下、次回】

 文中、■としたところは、印刷が鮮明でないが、「虫ヘン+旃という字のツクリ」という字のように見える。
 また、「薩摩の国の穎娃郷」の「穎娃郷」には、穎の一字のみに【エ】のルビが振られていた。一般には、「穎娃」の二字で「エイ」と読まれている。

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