◎鵯は、ヒエドリが後にヒヨドリと変化
『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その三回目。
一つは「鹿藿」を「久須加都良乃波衣【クズカヅラノハエ】」と呼んで居りますが、これは「葛根之苗」と註してありますから、苗を「波衣【ハエ】」と言つたものかと思ばれますが、外〈ホカ〉に例がないので分りませぬけれども、とにかく言葉の終りにア行の「衣【エ】」が書いてあるのであります。ですけれども、之を平安朝の院政時代に出来た医心方と云ふ本に引用してあるのに依りますと、「エ」の所だけが字が違つてゐて「江」が書いてあります。「江」ならばヤ行のエであります。或は今伝つて居る本草和名〈ホンゾウワミョウ〉が誤写をして居るのかも知れませぬ。即ち之は医心方の如く「江」が書いてあつたのかも知れませぬ。さうすれば例外にはならず、ア行のエが語頭以外に來ると云ふことにはならないことになります。
それから猶一つ、ヒヨ鳥の鵯を「比衣止利」とよんで居り、これも、ア行の衣と云ふ字が書いてあります。語頭でなく二番目にア行の「衣【エ】」が出て来る訳です。是は分りませぬけれども、この「ヒエドリ」が後にはヒヨドリと変化して居るのですから、或はヤ行のエであつて、本来はヤ行のエの字が書いてあつたのでないかとも考へられます。
全体ア行のエとヤ行のエの区別は平安朝に入つてからも初めの中〈ウチ〉は区別がありましたが、醍醐天皇の御代〈ミヨ〉になると、幾らか乱れたものがあつたのでありまして、丁度其の時分に出来た新撰字鏡〈シンセンジキョウ〉といふ字書にも極めて少数ながら乱れた例が見えるのであります。ですから延喜年間に出来た本草和名の例も、或は仮名としては斯う云ふ風に江と衣と別の字で書いてあつても、ア行のエとヤ行のエの仮名遺ひが乱れて居つたので、実際の音はア行のエもヤ行のエも同じ音で、区別が無かつたかも知れないと思ひます。又仮にさうでなくて、文字の通り「波衣」「比衣」の「衣」をア行のエに発音して居つたとしても、それは既に醍醐天皇の御代であります。平安朝になつてから百年位経つて居る時であります。それより前の平安朝の初期のものでは母音のエが語頭以外に用ひられた実例はまだ見附からないのであります。その以前の奈良朝に於いてもさうでありますから、詰り母音のエと云ふものは、本来は語頭に用ひなかつたと云ふことは出来るのであります。
以上アとオとエとの三つの母音音節について述べましたが、次にイとウ、此の二つは昔から語頭以外に用ひた例はないでもございませぬ。例へば舟を漕ぐ「橈【カイ】」のイ、それから活用する言葉の語尾として悔いるの「クイ」のイ、年が老いる「オイ」のイ、それから主格を表すと言はれて居る助詞のイ、さう云ふものがあります。ウの方は「儲け」がマウケとなつて居り「申す」が「マウス」であり、語尾としては下二段活用の「植ウ」、「飢ウ」、斯う云ふ風なものが見えて居ります。併し斯う云ふ風なものは語頭に用ひられるものに比べて数が非常に少いのであります。活用語尾として用ひられるもの以外にはほんの一つ二つの言葉に見られるだけでありますから、例外的のものと見るべきでありまして、矢張りイ、ウも語頭に用ひるのが原則であつたと言つて宜いのであります。以上が母音音節の第一の特質であります。〈163~164ページ〉【以下、次回】
インターネットで「鹿藿」を検索すると、「鹿藿(ろっかく)」、「イヌブンドウ」、「タンキリマメ」などという説明がある。
『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その三回目。
一つは「鹿藿」を「久須加都良乃波衣【クズカヅラノハエ】」と呼んで居りますが、これは「葛根之苗」と註してありますから、苗を「波衣【ハエ】」と言つたものかと思ばれますが、外〈ホカ〉に例がないので分りませぬけれども、とにかく言葉の終りにア行の「衣【エ】」が書いてあるのであります。ですけれども、之を平安朝の院政時代に出来た医心方と云ふ本に引用してあるのに依りますと、「エ」の所だけが字が違つてゐて「江」が書いてあります。「江」ならばヤ行のエであります。或は今伝つて居る本草和名〈ホンゾウワミョウ〉が誤写をして居るのかも知れませぬ。即ち之は医心方の如く「江」が書いてあつたのかも知れませぬ。さうすれば例外にはならず、ア行のエが語頭以外に來ると云ふことにはならないことになります。
それから猶一つ、ヒヨ鳥の鵯を「比衣止利」とよんで居り、これも、ア行の衣と云ふ字が書いてあります。語頭でなく二番目にア行の「衣【エ】」が出て来る訳です。是は分りませぬけれども、この「ヒエドリ」が後にはヒヨドリと変化して居るのですから、或はヤ行のエであつて、本来はヤ行のエの字が書いてあつたのでないかとも考へられます。
全体ア行のエとヤ行のエの区別は平安朝に入つてからも初めの中〈ウチ〉は区別がありましたが、醍醐天皇の御代〈ミヨ〉になると、幾らか乱れたものがあつたのでありまして、丁度其の時分に出来た新撰字鏡〈シンセンジキョウ〉といふ字書にも極めて少数ながら乱れた例が見えるのであります。ですから延喜年間に出来た本草和名の例も、或は仮名としては斯う云ふ風に江と衣と別の字で書いてあつても、ア行のエとヤ行のエの仮名遺ひが乱れて居つたので、実際の音はア行のエもヤ行のエも同じ音で、区別が無かつたかも知れないと思ひます。又仮にさうでなくて、文字の通り「波衣」「比衣」の「衣」をア行のエに発音して居つたとしても、それは既に醍醐天皇の御代であります。平安朝になつてから百年位経つて居る時であります。それより前の平安朝の初期のものでは母音のエが語頭以外に用ひられた実例はまだ見附からないのであります。その以前の奈良朝に於いてもさうでありますから、詰り母音のエと云ふものは、本来は語頭に用ひなかつたと云ふことは出来るのであります。
以上アとオとエとの三つの母音音節について述べましたが、次にイとウ、此の二つは昔から語頭以外に用ひた例はないでもございませぬ。例へば舟を漕ぐ「橈【カイ】」のイ、それから活用する言葉の語尾として悔いるの「クイ」のイ、年が老いる「オイ」のイ、それから主格を表すと言はれて居る助詞のイ、さう云ふものがあります。ウの方は「儲け」がマウケとなつて居り「申す」が「マウス」であり、語尾としては下二段活用の「植ウ」、「飢ウ」、斯う云ふ風なものが見えて居ります。併し斯う云ふ風なものは語頭に用ひられるものに比べて数が非常に少いのであります。活用語尾として用ひられるもの以外にはほんの一つ二つの言葉に見られるだけでありますから、例外的のものと見るべきでありまして、矢張りイ、ウも語頭に用ひるのが原則であつたと言つて宜いのであります。以上が母音音節の第一の特質であります。〈163~164ページ〉【以下、次回】
インターネットで「鹿藿」を検索すると、「鹿藿(ろっかく)」、「イヌブンドウ」、「タンキリマメ」などという説明がある。
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