礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

荒海がアルミ、国内がクヌチ、我が妹がワギモになる

2024-12-25 00:03:56 | コラムと名言
◎荒海がアルミ、国内がクヌチ、我が妹がワギモになる

『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その四回目。

 第二の特質は語頭に母音音節を持つて居る言葉が他の言葉の後に結びついて複合語を作る場合とか、又他の語の後について所謂連語を作る場合に其の語頭の母音音節が全然なくなつて落ちて了ふか、或は其の直ぐ前の音節の中の母音が落ちて了ふかすることが多いのであります。是は実列を挙げれば直ぐ御分りになると思ひます。例へば「妹【イモ】が家【イヘ】」がイモガヘ「龍【タツ】の馬【ウマ】」がタツノマ、「離れ磯」がハナレソ、「荒磯【アライソ】」がアリソ、「河内【カハウチ】」がカウチ、「荒海【アラウミ】」がアルミ、「国内【クニウチ】」がクヌチ、「我【ワ】が妹【イモ】」がワギモ、「ズアリ」が、ザリになつたり、何々「トイフ」がトフ又はチフ、其の外「ニアリ」がナり、皆さうであります。是は矢張り一続きにきらずに発音する音即ち音結合体の中に於いて二つの母音が相〈アイ〉接触して現れる場合に其のどちらかが一つ落ちて了つて、接触することを避けるのでありまして、矢張り母音音節が語頭以外に用ひられないと云ふのと同じ傾向の現れであります。若し言葉の中へ母音だけの音節が来れば、其の前の符節が母音で終つて居りますから、母音と母音と接触します。さう云ふことを避ける為に言葉の中、或は終りには用ひないと云ふ風になつて居つたと思ひます。今のやうなことは有らゆる場合に行はれて居るものではありませぬけれども、古代語に於いては屡々現れて居る現象でありまして、古い時代に行く程著しいのであります。 
 それから母音音節の第三の特異性と云ふものは、歌の字余りの句に於いて見られるのであります。字余りの句には母音音節があるのが原則であります。是は本居宣長が自分が初めて見出したんだと言つて居りますが、字余りの句の中に母音の音節があると言ふのも、其の句の一番初めに母音の音節が現れるのではないのでありまして、矢張り中の方に現れる。詰り母音音節で始まる言葉が他の言葉の後に来て一つの句が出来て居る場合であります。従つて母音音節は句の最初には現れないで其の中に現れて来るのであります。此の歌の一句と云ふものは普通これを詠ずる場合には、ずつと続けて発音するのでありますから、其の母音音節は、直ぐ前の語の最後の音節の母音と直接に接触して現れるのでありまして、前に挙げました、二つの語が結合した時に二つの母音の中の一つが落ちる場合と丁度同じやうな条件の下にあるのであります。富士谷成章〈フジタニ・ナリアキラ〉は、かやうな場合には、二つの音節を反切〈ハンセツ〉して一音節にするのだといつて居ります。例へば「月やあらぬ」は「月ヤラヌ」、「さもあらばあれ」、は「サマラバレ」とよむのだといふのであります。もしさうならば、前に挙げました場合と全然同一になります。しかし、その説の当否はまだ明らかでありませんが、兎に角、歌の句が六音或は八音になつてゐても、五音又は七音と同等に取扱はれたと云ふことは、結局母音音節が音結合体の中程にあつては一つの音節としての十分の重みを持つて居なかつたと云ふことを示すものであります。
 古代国語に於ける母音音節は以上述べましたやうな色々な特異性を持つて居るのでありますが、是は結局国語に於ける母音の特性から来て居るものと思はれるのであります。即ち母音ほ子音と結合して初めて、しつかりした確かな音節を作るものであつて、それ自身だけでは十分確かな音節を作る力に乏しいと云ふ傾向があつたと思ひます。母音だけの音節は、音結合体の最初にあつて、其の前に他の音がない場合には、立派に独立した音節を作りますが、直ぐ其の前に他の音節があつて、其の音節を作る母音と接触すると云ふやうな場合には、実に不安定な状態にあつて、全く脱落して了ふか、さもなければ、其の直ぐ前にある音節の持つて居る子音を結合して新な音節を作り易いと云ふやうな性質を持つて居つたと考へられるのであります。
 以上の外にもう一つ古代語に於ける母音音節の性質を知るべき事実があると考へられます。それは漢字音の場合であります。aiとか、auとか、euと云ふやうなi uで終る漢字音は、我国ではアイ、アウ、エウとなつてをりますが、その終のイ、ウが古くエ、オに変つて居るのがあります。アイがアエ、アウがアオ、エウがエオとなる、さう云ふものがいくらかあります。ところが、そのエオは純粋の母音である筈ですけれども、実際は母音になつて居ない。ア行のエの代りにヤ行のエに当る仮名が書いてあり又ア行のオの代りにワ行のヲに当る仮名が書いてあります。万葉集の中に雙六〈スゴロク〉の「采」が「佐叡【サエ】」とあり、弘法大師の書いた物の中に「佩」の字音が「波江【ハエ】」となつて居ります。又「昊」の音を「カ乎【ヲ】」、「襖子」を「阿乎之【アヲシ】」、「芭蕉」を「波世乎波【ハセヲバ】」、「簫」を「世乎乃不江【セヲノフエ】」と書いてあります。是は結局支那の音から言へば純粋の母音であるべきですが、矢張り前の母音との接触を避ける為にその前に子音yやwを入れれたのだらうと思ひます。かやうにして初めてそれが安定した音節になつたのだらうと考へます。それでは漢字音の場合に、イとウとは、アイとかアウとかエウのやうに、母音音節のまゝであるのはどうかと言ひますと、それはイ、ウに極めて発音の似た音節で、その前に子音を持つて居る音節がなかつたからでありませう。勿論イに対してヤ行のイがありウに対してワ行のウがありますが、これらは、古くからア行のイ、ウと区別せられて居なかつたのであります。それ故、かやうな音を利用すると云ふ訳に行かなかつたから、それでさうなつたと思ひます。〈164~167ページ〉【以下、次回】

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