◎志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の読み方
志賀直哉の短編「清兵衛と瓢箪」は、中学時代もしくは高校時代に、国語の教科書で楽しく読んだ記憶がある。しかし、この作品の「意味」については、これまで考えたことがなかった。
数日前、たまたま片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)を手に取ったところ、「清兵衛と瓢箪」という作品について解説している箇所があった。
以下は、同書153~155ページからの引用である。
人情主義への後退
戦うものの不安と恐れ
はげしいたたかいの意気ごみを示した志賀直哉は、同時にたたかいの勝利をも空想する人でもあった。「清兵衛と瓢箪」(大正二年)という作品がある。清兵衛という十二歳の少年が瓢箪いじりに夢中になっていたのに、父と学校の先生がそれを禁じてしまったので、清兵術もやむなくそれをあきらめて絵を書くようになったが、父はそれをも止めようとしはじめた。ところが、清兵衛が教室でみがいているのを怒ってとりあげた先生が捨てるように小使〈コズカイ〉にやってしまった瓢箪は、もともとただの十銭で清兵衛が町の小店から買ったものであったのに、小使から先生の月給四カ月分に相当する値段(五十円)で買い取った骨董屋の手で、六百円というさらに高い値段で地方の豪家〈ゴウカ〉に売られていた、ということが書いてある。
作者自身が書いているところによれば、これは作者の小説を書くことに反対していた父にする反抗から生れた作品だった。だから「瓢箪いじり」は「小説を書く」とか「文学に携わる」とかいう意味を持つことになり、作品全体としては個性的な道をふさごうとするものに対するたたかいの文学であったことになる。作品では父ばかりでなく先生(即ち学校)までが清兵衛をおさえているのだから、梗塞【こうそく】の壁は二重の厚さにされているわけだ。それに圧【お】されて、清兵衛は「青くなって」瓢箪いじりをあきらめてしまわねばならぬのだが、それにもかかわらず、この対立は一応は清兵衛の勝利に終ったことになっている。
清兵衛のみがきあげた瓢箪は、見る人が見れば六百円にもなるほどの、高い価値を持つものだった。それの全然わからなかった父や先生が、きわめて愚劣な道化人形あつかいされているのである。先生の月給四カ月分に当る五十円を、手に入れてほくそえんだ小使さえ、その小ざかしさをあざ笑われているのである。わずか十銭の瓢箪の中にそれほどの価値を見つけて、それをみごとにみがき出した清兵衛の才能が、それだけ高く評価されているのである。だから彼は小さいくせに自信にみちている。瓢箪いじりの頭から嫌いであった先生とちがって、父は元来瓢箪に趣味を持つ男だった。ただその美しさを十分に見わける力がなく、「大きい」といって感心したり、すばらしく「長い」といって驚嘆したりする以上の鑑賞力を持たなかった。そういう父と同好のお客が清兵衡の瓢箪をひやかした時、清兵衛はすまして「かういふがええんじゃ」と答えている。その自信にみちたようすに、いかにも強く人間(自分)の力を信じた白樺派の人物らしいすがたがあった。
が、それほどの自信にみち、それほどの輝かしい勝利を描いたこの作の世界を、もう一度しさい〔仔細〕に観察すると、その底にほのかな不安の漂っているのが感じられる。「青くなって」瓢箪いじりをあきらめた清兵衛は、絵をかくことに新しい生きがいを感じはじめたが、彼の父はまたそのことにも「叱言【こごと】を言ひ出して来た」という。そうして絵からもしめ出されてしまった、その後で、また演劇からも、さらに次には音楽からも、というようにだんだんに追い出され、追いつめられて行ったら、結局清兵衛は手も足も出しようのない梗塞の中で空【むな】しくため息でもついているよりほか仕方がなくなるのではないか。「彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言ひ出して来た」という一句を最後に添えたことが、こうして一方では清兵衛の輝かしい勝利をかいた作品の奥に、ほのかな不安と一筋の恐れとをただよわせることになっているのである。
これを読んだ私は、ハタと膝を打った。「清兵衛と瓢箪」は、そういう作品だったのか、と思った。できれば、当時、教室の中で、この作品の意味するところに気づきたかったと思った。自分では気づけなかったとしても、担当の教師から、解説してもらいたかったと思った。【この話、続く】
志賀直哉の短編「清兵衛と瓢箪」は、中学時代もしくは高校時代に、国語の教科書で楽しく読んだ記憶がある。しかし、この作品の「意味」については、これまで考えたことがなかった。
数日前、たまたま片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)を手に取ったところ、「清兵衛と瓢箪」という作品について解説している箇所があった。
以下は、同書153~155ページからの引用である。
人情主義への後退
戦うものの不安と恐れ
はげしいたたかいの意気ごみを示した志賀直哉は、同時にたたかいの勝利をも空想する人でもあった。「清兵衛と瓢箪」(大正二年)という作品がある。清兵衛という十二歳の少年が瓢箪いじりに夢中になっていたのに、父と学校の先生がそれを禁じてしまったので、清兵術もやむなくそれをあきらめて絵を書くようになったが、父はそれをも止めようとしはじめた。ところが、清兵衛が教室でみがいているのを怒ってとりあげた先生が捨てるように小使〈コズカイ〉にやってしまった瓢箪は、もともとただの十銭で清兵衛が町の小店から買ったものであったのに、小使から先生の月給四カ月分に相当する値段(五十円)で買い取った骨董屋の手で、六百円というさらに高い値段で地方の豪家〈ゴウカ〉に売られていた、ということが書いてある。
作者自身が書いているところによれば、これは作者の小説を書くことに反対していた父にする反抗から生れた作品だった。だから「瓢箪いじり」は「小説を書く」とか「文学に携わる」とかいう意味を持つことになり、作品全体としては個性的な道をふさごうとするものに対するたたかいの文学であったことになる。作品では父ばかりでなく先生(即ち学校)までが清兵衛をおさえているのだから、梗塞【こうそく】の壁は二重の厚さにされているわけだ。それに圧【お】されて、清兵衛は「青くなって」瓢箪いじりをあきらめてしまわねばならぬのだが、それにもかかわらず、この対立は一応は清兵衛の勝利に終ったことになっている。
清兵衛のみがきあげた瓢箪は、見る人が見れば六百円にもなるほどの、高い価値を持つものだった。それの全然わからなかった父や先生が、きわめて愚劣な道化人形あつかいされているのである。先生の月給四カ月分に当る五十円を、手に入れてほくそえんだ小使さえ、その小ざかしさをあざ笑われているのである。わずか十銭の瓢箪の中にそれほどの価値を見つけて、それをみごとにみがき出した清兵衛の才能が、それだけ高く評価されているのである。だから彼は小さいくせに自信にみちている。瓢箪いじりの頭から嫌いであった先生とちがって、父は元来瓢箪に趣味を持つ男だった。ただその美しさを十分に見わける力がなく、「大きい」といって感心したり、すばらしく「長い」といって驚嘆したりする以上の鑑賞力を持たなかった。そういう父と同好のお客が清兵衡の瓢箪をひやかした時、清兵衛はすまして「かういふがええんじゃ」と答えている。その自信にみちたようすに、いかにも強く人間(自分)の力を信じた白樺派の人物らしいすがたがあった。
が、それほどの自信にみち、それほどの輝かしい勝利を描いたこの作の世界を、もう一度しさい〔仔細〕に観察すると、その底にほのかな不安の漂っているのが感じられる。「青くなって」瓢箪いじりをあきらめた清兵衛は、絵をかくことに新しい生きがいを感じはじめたが、彼の父はまたそのことにも「叱言【こごと】を言ひ出して来た」という。そうして絵からもしめ出されてしまった、その後で、また演劇からも、さらに次には音楽からも、というようにだんだんに追い出され、追いつめられて行ったら、結局清兵衛は手も足も出しようのない梗塞の中で空【むな】しくため息でもついているよりほか仕方がなくなるのではないか。「彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言ひ出して来た」という一句を最後に添えたことが、こうして一方では清兵衛の輝かしい勝利をかいた作品の奥に、ほのかな不安と一筋の恐れとをただよわせることになっているのである。
これを読んだ私は、ハタと膝を打った。「清兵衛と瓢箪」は、そういう作品だったのか、と思った。できれば、当時、教室の中で、この作品の意味するところに気づきたかったと思った。自分では気づけなかったとしても、担当の教師から、解説してもらいたかったと思った。【この話、続く】
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