◎狂言の発声法について(六代目野村万蔵「万蔵芸談」より)
古川久の『狂言の研究』(福村書店、一九四八)の巻末に、「万蔵芸談」という付録がある。著者の古川が、和泉流狂言師六代目野村万蔵(一八九八~一九七八)から聞き取った芸談をまとめたものである。付録の扉には、次のようにある。
先に生活社刊行日本叢書の一部として、『狂言芸談 野村万蔵聞書』を発表したが、同書は頁数に制約があつて、相当分量を割愛しなければならなかつた。今ここに口述者の許可を得、礎稿に目を通していただいて、それを発表する機会に恵まれた。野村氏の声価については既に定評があるので、ここでは吹聴することを避け、ただ同家の系図を掲げるに止める。なお日本叢書の場合と同じく、文責は総て〈スベテ〉筆録者に在ることを、お断りして置く。
ここに『狂言芸談 野村万蔵聞書』とあるのは、生活社の日本叢書97として、一九四六年(昭和二一)に刊行されたもの。B6判で本文わずか三一ページ、書籍というよりは冊子に近い。ちなみに、『狂言の研究』の「万蔵芸談」は、四二ページ分ある。
さて、この「万蔵芸談」に、狂言における「発声」と「姿勢」のことが語られていて興味深い。
狂言はただ大竹の如くにて直ぐ〈スグ〉に清くて節〈フシ〉少けれ、といふ歌を教へられて居りますが、狂言演奏上最も大切なものは、詞と姿勢とであります。
詞は開口をはつきりと、腹から声を出して、明瞭に発音することで、私どもの伝書に左のやうな心得が記されて居ります。
ここで、「詞」の読みが気になる。〈シ〉とも〈コトバ〉とも読めるが、おそらく後者であろう。
このあと、「私どもの伝書」にある「心得」が紹介される。カタカナ文でやや読みにくいが、原文をそのまま引用する。
アイウエオ 唯音 カキクケコ 牙
サシスセソ 舌歯 タチツテト 舌
ナニヌネノ 舌 ハヒフヘホ 唇軽
マミムメモ 唇重 ヤイユエヨ 喉
ラリルレロ 舌 ワヰウヱヲ 喉
ア 歯ト唇ヲ開ク
イ 歯ヲ噛ミ唇ヲ開ク
ウ 歯ヲ噛ミ唇ヲ結ブ
エ 舌ヲ浮カシ口中ニ開ク
オ 口ヲ窄ム〈ツボム〉
アカサタナハマヤラワ
口ヲ大キク開キ顎ヲ出サヌヤウニ和ラカ〈ヤワラカ〉ニ口ヲ開クコト。
イキシチニヒミイリヰ
歯ヲ合セ専ラ〈モッパラ〉舌ニ力ヲ入レルコト。
ウクスツヌフムユルウ
唇ヲ柔ラカ〈ヤワラカ〉ニシ唇ヲ反ラシタリ皺ヲ寄セヌコト。
エケセテネヘメエレエ
舌ノ根ト喉元〈ノドモト〉ニ力ヲ入レ口中ヲ平〈タイラ〉ニ保チ舌ヲ躍動サセヌコト。
オコソトノホモヨロヲ
舌を窄メ頬ヲ脹ラス〈ハラス〉ヤウニシテ息ヲ太ク使フコト。
シチツス
此〈コノ〉四音ハ充分舌ニ力ヲ入レテ発音セネバ不明瞭ニナル。
ベビブ
此三音ハ耳障リ〈ミミザワリ〉ニナリ易キモノナレバ奇麗ニ発音スルコト。
いずれも、「詞」(言葉)についての注意、すなわち「発声・発音」についての注意である。それにしても、「伝書」の説明が、きわめて合理的であることに驚く。文章表現あるいは使われている語句などから見て、この「伝書」が整えられたのは、近代以降ではないかという印象を抱く。
なお、引用文中に「顎」という漢字があるが、これは原文では、偏がニクヅキ、ツクリが「顎」の右側という難字(齶の異体字か)になっている。読みが〈アゴ〉であることは間違いないようなので、「顎」としておいた。
野村万蔵は、続いて、「姿勢」についても語っているが、これについては次回。【この話、続く】
今日の名言 2012・7・26
◎声の悪い者は形に恵まれると申します
六代目野村万蔵の言葉。「万蔵芸談」より(『狂言の研究』198ページ)。「これは恵まれるといふよりも、悪声を補はうとする努力の賜物と思ひますし、又観客も声の悪さと比較して、形を見るからでありませう」。名人と言われる人の名言には、この種の逆説が多いような気がする。
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