礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日本人ハ東洋開明ノ義兵」発言の解釈

2013-04-25 20:43:20 | 日記

◎「日本人ハ東洋開明ノ義兵」発言の解釈

 今月一九日に、シュタインの次の言葉を引用した上で、この言葉の真意を把握するためには、シュタインが、どういう脈絡でこの発言をしているかを確認する必要がある。と述べた。

 東方亜細亜〈あじあ〉ノ為ニ旗ヲ挙ケテ〈あげて〉宇内〈うだい〉ノ大勢ニ応セントスル者ハ、日本人ヲ措キテ誰レカアラン、日本人ハ東洋開明ノ義兵ナリ、諸君夫レ〈それ〉勉メヨヤ、此ノ功ニシテ一タヒ〈ひとたび〉成ラハ、東半球ハ日本ノ麾下〈きか〉ニ属シ、朝鮮支那以下ノ諸国モ、日本ヲ以テ新様文化ノ本源トセン、

 また、引用した一節の前に、「夫レ然リ、早ク此ノ点ニ着眼シ、」という一五文字があることも指摘しておいた。
 そのあと、だいぶ間があいてしまったが、「此ノ点」が何であるかわかるよう、その前のところを含めて、もう一度、引用してみたい。

 加之〈しかのみならず〉国々其文物ヲ異ニシナカラ、相交通シ、相応通シテ以テ互ニ其生活ヲ盛〈さかん〉ニスルハ、人世〔世の中〕ニ対スルノ徳義ナルコトヲ知ラサル可カラス〈べからず〉、今ヤ胸襟ヲ広ウシテ、人世ノ成立ヲ察スルトキハ、国各々文物ヲ異ニシナカラ、甲乙相補フハ大勢〈たいせい〉ノ趣ク所ニシテ、早ク此ノ大勢ニ応スル者ハ昌エ〈さかえ〉、之ニ後ルヽ者ハ必ス亡ヒサルヲ得サルカ如シ、
 一国ノ上ヨリ之ヲ言ヘハ其伝来ノ文物ノミヲ尊テ〈たっとんで〉、他ヲ知ラン事ヲ欲セサル者ヲ保守ト云ヒ、眼界ヲ広ウシ、進退ヲ人世ノ全局ニ計ラントスル者ヲ改進ト云フ、即チ我カ短ヲ改メテ、彼レノ長ニ進マントスレハナリ、
 夫レ然リ、早ク此ノ点ニ着眼シ、東方亜細亜〈あじあ〉ノ為ニ旗ヲ挙ケテ〈あげて〉宇内〈うだい〉ノ大勢ニ応セントスル者ハ、日本人ヲ措キテ誰レカアラン、日本人ハ東洋開明ノ義兵ナリ、諸君夫レ〈それ〉勉メヨヤ、此ノ功ニシテ一タヒ〈ひとたび〉成ラハ、東半球ハ日本ノ麾下〈きか〉ニ属シ、朝鮮支那以下ノ諸国モ、日本ヲ以テ新様文化ノ本源トセン、

 もっと前から引用すれば、さらにわかりやすいのだが、シュタインの真意は、ほぼこれで察することができよう。
――日本人は、朝鮮・中国にくらべれば、世界の大勢に応じようとするところがある。世界の国々と交通し、自分の短所を改め、他の長所を採り入れようとするところがある。早くから、この点に着眼し、アジアのために、世界の大勢に応じようとする者は、日本人以外になかった。その意味で、日本人は東洋を発展させるための義兵である。諸君、奮励せよ。諸君の功が成れば、東半球は、日本になびき、朝鮮・中国ほかの諸国も、日本を新しい文化の本拠地と考えることだろう。――
 要するに、シュタインは、こういうことを言っているのである。【この話、続く】

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丸山作楽と神代直人

2013-04-24 07:21:29 | 日記

◎丸山作楽と神代直人

 二一日からの続きである。かつて、丸山作楽〈マルヤマ・サクラ〉について調べていたとき、この人物については、信頼できる伝記がほとんど存在しないことに気づいた。全く伝記がないわけではないが、ひとつは、一八九九年(明治三二)刊、もうひとつは一九四四年(昭和一九)刊で、いずれも古い。古いから、信頼できないというわけではないが、両書とも、基礎的な事実についての記述や史料の紹介が十分でない。特に、丸山作楽が関与した二卿事件(明治初年の政府転覆事件)についての記述が曖昧である。
 ところが近年、そうした丸山作楽研究の停滞を打ち破る可能性のある若手研究者があらわれた。それは、長崎史談会の盛山隆行〈モリヤマ・タカユキ〉氏である。氏は、二〇〇一年、および二〇〇四年に発行された雑誌『崎陽』の創刊号・創刊二号に、「丸山作楽の研究」という論文を寄せている。おそらくこれは、戦後になって初めてあらわれた、丸山作楽についての本格的な研究と言えるだろう。およばずながら私も、『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)で、丸山作楽について論じたが、このときは、盛山隆行氏の論文の存在に気づかなかった。今、このことを遺憾とする。
 さて本日は、『崎陽』創刊号に載った盛山の「丸山作楽の研究(1)」における数行の記述に注目してみたい。同論文の三四ページには、次のような記述がある。

 同(文久三年=一八六八)六月中には〔丸山作楽は〕島原を去りまたも長州山口へ入り藩主、毛利元徳に九州の世情について報告し、久坂元瑞〈クサカ・ゲンズイ〉、神代直人〈コウジロ・ナオト〉などの長州藩士や吉村徳太郎、池内蔵太などの土佐藩士と共に周防三田尻より京都に向かった。

 ここに神代直人の名前が出てくる。神代直人は、後に大村益次郎暗殺事件に加わることになる人物である。海江田信義は、この神代直人と親しく、神代が処刑される際に、その処刑を妨害したことで知られる(今月二〇日のコラム「海江田信義と丸山作楽」参照)。
 海江田信義と神代直人との間には接点があり、また、丸山作楽と神代直人との間にも接点がある。江田信義と丸山作楽は、のちにそろってオーストリアに憲法調査に出かけることになる。この二人の最初の接点はよくわからないが、ことによると、神代直人が両者を引きあわせたなどということがあったのかもしれない。

*「unknown」様、6月15日のコラム「大正震災かるたに学ぶ」に対するコメント、ありがとう存じました。ご指摘の箇所は訂正しました。

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海江田議官ほど愛慕を感じた日本人はいない(シュタイン)

2013-04-21 15:11:37 | 日記

◎海江田議官ほど愛慕を感じた日本人はいない(シュタイン)

 昨日の続きである。
 理由はよくわからないが、海江田信義も丸山作楽も、シュタインという人物に、すっかり惚れこんでしまった。特に、海江田などは、かつて水戸で、藤田東湖〈フジタ・トウコ〉・戸田忠太夫〈トダ・チュウダユウ〉という師につき、それ以来、師と呼べる人物に出会えなかったが、三〇数年ぶりに外国で良師に出会えたと言って、泣かんばかりに感激したのである。かつての「攘夷派」とは思えない変貌ぶりである。
 一方、シュタインのほうも、海江田や丸山が気にいったらしく、特に海江田のことは、「これまで、いろいろな日本人に出会ったが、海江田議官に対するほど、愛慕の情を発したことはない」と述べた。また、丸山に対しては、彼が、神道などの日本の文化に詳しいのを見てとるや、さかんに質問を投げかけ、逆に丸山のほうが、シュタインに向かって「講義」をするような場面もあった。
 こういう良好な関係の中で、シュタインは、海江田や丸山が喜びそうなことを語り、また、海江田や丸山のほうも、シュタインから、意識的に、あるいは無意識的に、聞いてうれしいような言葉を、引き出したということがあったのではないだろうか。
*この話は、さらに続きますが、明日・明後日は、都合により、お休みします(4月21日)。

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海江田信義と丸山作楽

2013-04-20 18:32:27 | 日記

◎海江田信義と丸山作楽

 昨日の続きである。
 オーストリアでローレンツ・フォン・シュタインの講義を聴いた海江田信義と丸山作楽が、どういう人物だったかについて述べる。
 海江田信義〈カイエダ・ノブヨシ〉は薩摩藩の出身で、幕末に起きた生麦事件(一八六二)に立ち合い、瀕死状態にあったイギリス商人リチャードソンに、とどめを刺したとされている。桜田門外の変(一八六〇)に加わった有村次左衛門は、その実弟にあたる。海江田自身も、攘夷派、反欧化主義者として知られ、欧化主義者の大村益次郎とは、犬猿の仲であった。大村益次郎を暗殺した神代直人〈コウジロ・ナオト〉と親しく、海江田が大村暗殺の黒幕だという噂が立ったこともある。この噂の真偽は明らかではないが、神代の死刑がまさに執行されようとしたとき、弾正台の監視役としてその場にいた海江田が、職権によってこれを妨害した話は有名である。一八三二~一九〇六。
 丸山作楽〈マルヤマ・サクラ〉は、平田銕胤〈ヒラタ・カネタネ〉門下の国学者・勤皇家であり、銕胤の後継者と目されていたともいう。すなわち復古派を代表する思想家であり、運動家であった。丸山は明治初年、復古派による政府転覆陰謀に関与し、一八七二年(明治五)に「終身禁獄」に処されている(一八八〇年、恩赦で出獄)。一八四〇~一八九九。
 この二人に共通するのは、当時の極右過激派で、政府内外に、それなりに影響力を持つ人物だということである。
 なお、丸山作楽については、拙著『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)で、一章を割いて論じたので、一読いただければ幸いである。本日はここまで。【この話、続く】

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シュタインの「日本人ハ東洋開明ノ義兵」発言

2013-04-19 18:20:01 | 日記

◎シュタインの「日本人ハ東洋開明ノ義兵」発言

 明治時代に出た『須多因氏講義筆記』(牧野善兵衛、初版一八八九年七月)は、オーストリアの国家学者ローレンツ・フォン・シュタインが、海江田信義や丸山作楽に対しておこなった講義を記録したものである。
 その五一三ページに、次のような一節がある。

 東方亜細亜〈あじあ〉ノ為ニ旗ヲ挙ケテ〈あげて〉宇内〈うだい〉ノ大勢ニ応セントスル者ハ、日本人ヲ措キテ誰レカアラン、日本人ハ東洋開明ノ義兵ナリ、諸君夫レ〈それ〉勉メヨヤ、此ノ功ニシテ一タヒ〈ひとたび〉成ラハ、東半球ハ日本ノ麾下〈きか〉ニ属シ、朝鮮支那以下ノ諸国モ、日本ヲ以テ新様文化ノ本源トセン、

 この言葉は、よく知られており、またよく引用される。例えば、瀧井一博氏の『ドイツ国家学と明治国制』(ミネルヴァ書房、一九九九)の二三八ページにも、上記部分の引用がある。
 瀧井一博氏は、シュタインのこの言葉を引用したあと、「シュタインの言説のなかには、日本の近代化の卓越性のみならず、その危うさもはらまれていたのである」とコメントしている。瀧井氏のいう「その危うさ」とは、このシュタインの言説が、その後、日本の国家主義者によって、意図的に引用されたことを指しているようである。
 もちろん、この指摘は重要なのだが、その前に確認しておくべきことがふたつほどある。
 それは第一に、シュタインの講義を聴いていた海江田信義や丸山作楽が、どういう思想性の持ち主だったかということである。シュタインは、聴く相手によって主張を変える、つまり、聴き手が喜びそうなことを言う傾向があったという。だからこそ、海江田や丸山やどういう人物だったかを、確認していく必要があるのである。
 第二に、シュタインは、どういう脈絡で、この発言をしているかを確認する必要がある。引用した一節の前には、実は、「夫レ然リ、早ク此ノ点ニ着眼シ、」という一五文字がある。ここが実は重要なのである。すなわち、シュタインが、何を以て「此ノ点」としているかを理解しておかないと、シュタインの真意を捉え損なう恐れがあるのである。【この話、続く】

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