礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ニーベルンゲン物語に見る「独逸人の復讐」

2018-04-20 02:15:31 | コラムと名言

◎ニーベルンゲン物語に見る「独逸人の復讐」

 今月の一一日および一二日、青木昌吉著『独逸文学と其国民思想』(春陽堂、一九二四)から、その内容の一部を紹介した。本日はその続きで、三回目の紹介になる。
 本日は、同書の第四章「独逸人の復讐」の第四節「伝説に現はれたる復讐」の全文を紹介してみたい。

  四、伝説に現はれたる復讐
 独逸人の尚武の条に述べた如く、ニーべルンゲンの歌〔das Nibelungenlied〕に現はれて居る女丈夫ブルンヒルト〔Brunhild〕は、自分の容色で天下第一の英雄ジーグフリート〔Siegfried〕の心を動かすことが出来なかつたので、大に自負心を傷けられ、其上自分の気の進まないグンテル風情〈フゼイ〉の奥方に成るやうに余儀なくされたのは、全たくジーグフリートに騙されたお蔭であると云ふ事実を悟つたので、ジーグフリートを怨むこと甚だしく、ジーグフリートを殺して重さなる怨〈ウラミ〉を晴らさうと思立ち、獰猛慓悍〈ドウモウヒョウカン〉なる豪傑ハーゲン〔Hagen〕の力を藉りて、本望を遂げやうと決心したが、如何に獰猛なるハーゲンでも、尋常一般の依頼では、一代の英雄ジーグフリートに向つて手出〈テダシ〉をしまいと思つたので、「ジーグフリートを殺して本望を達して呉れない内は、一滴の水、一片の食も口に入れない』と云つて、堅く飲食を断ち、敵討が遷延すれば遷延する程、自分の生命は次第に短縮することゝして復讐の無理催促をしたのである。而して勇猛精悍なるハーゲンは自己の武勇のジーグフリートに遠く及ばないことを自覚して、平常から窃かに嫉妬を懐いて居る箭先〈ヤサキ〉であるので奧方の余儀ない依頼を好機として到頭〈トウトウ〉ジーグフリートを欺討〈ダマシウチ〉に懸けて殺して了つた。ジーグフリートが殺された後、其奥方クリムヒルド〔Kriemhild〕の性格は俄かに豹変して、其迄の優しい婦人は一変して残忍無情の婦人と成り、良人〔夫〕の敵〈カタキ〉を討つためなら如何なる犠牲をも払ひ、如何なる手段をも憚らないやうに成り、先づ第一に良人の忘れ形見なる生れた許り〈バカリ〉の男の児を手離してジグムンド〔Siegmund〕王の許〈モト〉へ送つて、亡父の仇〈アダ〉を討つて其欝憤を晴らすことが出来るまでは、再び互に顔を合はせまいと云ひ添えた。第二には良人の横死を悲しむ涙は、何時までも乾かないのであるが、良人の敵を取つて遣るからと云ふ条件の下には、喜んでフンネン王〔フン族の王〕の求婚に応じた。第三には、クリムヒルドの目差す所の当の敵は、ハーゲン一人であつて、他のブルグンド人に累を及ぼす考へは毛頭なかつたのであるが、ブルグンド人が友情を重んじて、ハーゲン一人を渡すことを肯じない〈ガエンジナイ〉のを見て、ブルグンド人は一人残らす、自分の肉親の兄弟まで鏖殺〈ミナゴロシ〉にする決心の臍〈ホゾ〉を固めた。第四には、再婚の良人エツツエル〔Etzel〕に向つて約束を履行して復讐をして呉れと再三督促すれど、エツツエル王は賓客の礼を重んじて、容易にブルグンド人に向て手向〈テムカイ〉をしないのを見て、ハーゲンをして賓客の礼を破らしめやうと云ふ計略で、自分とエツツエル王との間に生れた一人息子をハーゲンの許へ送ると、ハーゲンは計略に陥つて其息子を殺して、賓客の礼を破つたのでエツツエル王は今は何等の惲る所なく、戦闘に加つて剛勇を振ふことに成る。最後にクリムヒルトが家来に吩附て〈イイツケテ〉、幾万のブルグンド人の内で、僅か二人だけ生残つて居るグンテルとハーゲンとを生捕〈イケドリ〉にして、『ニーベルンゲンの宝物は何処に隠してあるか』とハーゲンに尋ねると『吾君が一人でも生きて居る間は、何人〈ナンピト〉にも此秘密を明かさないと竪く誓つたから云ふ訳には行かぬ』とハーゲンが答へたので、クリムヒルトは家来に命じて、現在の兄グンテルの首を刎ねさせて、再び以前の問を繰返へしたが、ハーゲンの黙つて答へないのを見て、ハーゲンが腰に帶びてる、良人の紀念なる銘剣を引抜いて、手親ら〈テミズカラ〉ハーゲンの首を刎ねて、復讐の本懐を達するのである。

『ニーべルンゲンの歌』は、かなり昔、そのダイジェスト版のようなものを読んだ記憶がある。タイトルは、『ニーベルンゲン物語』だったと思う。ストーリーは、ほとんど覚えていないが、青木昌吉の文章を読んでみると、たしかに、このような話だったような気がする。それにしても、この物語のモチーフが「復讐」であったとは気づかなかった。なお、この物語には、「独逸人の復讐」という面のみならず、「独逸人の徹底」という面も見出すことができよう(四月一二日のコラム参照)。

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橋戸信のいう野球三大精神の第一は「犠牲的精神」

2018-04-19 00:50:15 | コラムと名言

◎橋戸信のいう野球三大精神の第一は「犠牲的精神」 

 昨日の続きである。昨日は、功刀俊雄氏の論文〝小学校体育科における「知識」領域の指導:教材「星野君の二塁打」の検討〟の(一)から、「おわりに」を紹介した。本日は、同論文の(二)から、「おわりに」の全文と、これに対応する注を紹介する。

おわりに
「星野君の二塁打」は、〔吉田〕甲子太郎にとって、戦後日本の出発にあたって子どもたちに民主主義とスポーツマンシップを教え諭そうとするものであった。作中でこれを最もよく体現しているのは定本版で言えば別府監督であり、彼は甲子太郎の分身であった。しかしながら、「星野君の二塁打」が 「日本的スポーツ観」を示していると解釈する人々にとって、別府監督は、選手たち、子どもたちに対して自己の命令への絶対服従を強いる「監督絶対主義【*12】」者なのであって決して民主主義的な人物ではない。「星野君の二塁打」の作者と読者の間のこうした対極的ともいえるギャップは如何にして生じたのであろうか。この疑問に全面的に答えることは容易なことではない。ここでは引き続き「星野君の二塁打」を検討していく際の課題と関わって次のことを指摘しておきたい。
 前稿〔功刀論文(一)〕の「おわりに」において、アメリカのニューヨーク・ジャイアンツのマグロー監督の逸話を紹介し、「星野君の二塁打」の監督のモデルはマグローであり、「約束破り」に対する制裁もアメリ力起源であった可能性も否定できないと述べた。その後、この逸話が1929年に我が国で紹介されていることを確認することができた【*13】。従って上記の可能性は高まったと言えよう。しかしここでこの話を再度持ち出したのは「星野君の二塁打」へのアメリカの影響を強調したいからではない。そうではなくて、前稿においても本稿〔功刀論文(二)〕においてもこれまでは戦後日本の作品ということを前提にして「星野君の二塁打」を検討してきたのであるが、本稿において甲子太郎の民主主義とスポーツマンシップの捉え方に接した今これからは、この作品に流れている戦前・戦中からの連続面も検討すべきと思われるからである。上記の1929年にマグロー逸話を紹介した橋戸頑鐵〈ハシド・ガンテツ〉は「野球精神」と題した同じ講演の中で「犠牲的精神」、「協力一致の精神」、「監督の命令には絶対に服従的精神」をその「三大精神」としている【*14】。これは甲子太郎のスポーツマンシップ理解と全く一致している。問題は、これと一部重複するところの甲子太郎の民主主義観である。戦後甲子太郎のいう民主主義とは何であり、そしてそれはいかにして形成されたのであろうか。今後はこのことを戦前・戦中との連続面を意識しつつ「男らしさ」とも関連付けながら究明してみたいと思っている。ただしその方法は未だ模索中なのであるが。
〔注〕
*12 中瀬古哲〈ナカセコ・テツ〉「「子どもの権利条約」と体育授業の課題(2)――「星野君の二塁打」を扱った体育理論の授業実践を手がかりとして――」『教育学研究紀要』(中国四国教育学会)第40巻、第2部、1994年、384頁。
*13 橋戸頑鐵「野球精神」出口林次郎編『スポーツ精神』(奨健文庫 第五篇)奨健会、1929年、38-47頁。マグローの逸話を紹介した部分は次の通りである。「或る試合に於て某選手はバントを打つやう信号されたに拘らず、ホームランを打つたことがあります。其打者は定めし監督から賞められるであらうと思つて、ベンチに帰つた所が監督は命令に従はぬといふので二十五ドルの罰金を課したといふ事であります」(44頁)。
*13 同上書、42-44頁。

 文中、「橋戸頑鐵」とあるのは、功刀論文(一)に出てきた橋戸信〈ハシド・シン〉の別名である。つまり、両者は同一人物である。
 さて、以上、何回にもわたって、功刀俊雄氏の論文を紹介してきたのは、この論文の内容が非常に興味深く、かつ、それが提起しようとしている問題が、きわめて重要なものであると考えたからである。
 この功刀論文(二〇〇七、二〇〇八)は、インターネット上で、容易に閲覧できる。したがって、このブログとしては、こういう優れた論文があることを紹介し、参照をおすすめするだけでもよかったのかもしれない。しかし、私としては、どうしても、この論文の内容を紹介したくなったし、また紹介しなければならないとも思ったのである。
 私は、出版にたずさわる者ではないが、もし、自分が出版社の編集者だったとすれば、この論文を書いた功刀俊雄氏に連絡を取り、この論文の内容を一般の読者に向けて、一冊の本にまとめませんか、と持ちかけるであろう。仮タイトルは、『二塁打を打った星野君が出場停止になった理由』。
「星野君の二塁打」という教材をめぐる問題については、個人的に、いろいろと述べたいこともあるが、これについては機会を改める。ただ、この教材を使って「道徳」の授業をされるであろう先生方に対して、一言、申し上げたい。この教材の背景には、さまざまな「歴史」があり、是非、そうした「歴史」を踏まえた上で、授業を展開していただきたい、と。最後に、もう一度、功刀論文についてのデータを掲げる。明日は、話題を変える。

○功刀俊雄〈クヌギ・トシオ〉 小学校体育科における「知識」領域の指導:教材「星野君の二塁打」の検当(一) 教育システム研究(奈良女子大学教育システム開発センター)第3号 2007年4月 
○功刀俊雄 小学校体育科における「知識」領域の指導:教材「星野君の二塁打」の検当(二) 教育システム研究(奈良女子大学教育システム開発センター)第4号 2008年4月

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本塁打を打ったサミー・ストラングに25ドルの罰金

2018-04-18 01:43:23 | コラムと名言

◎本塁打を打ったサミー・ストラングに25ドルの罰金 

 この間、しばらく、吉田甲子太郎の作品、ないし、功刀俊雄氏の論文についての話題が続いているが、もうしばらく、おつきあいをいただきたい。
 近年、教科「道徳」の教材として注目されるに到った吉田甲子太郎の作品「星野君の二塁打」(初出、一九四七年八月)には、「抜け駆けの功名」という要素が含まれている。ところが、この作品の原型となったと思われる「一マイル競走」(初出、一九四六年六月)、ないし「ネコの巣」(『兄弟いとこものがたり』の第三話、初出、一九四七年三月)の送りバントの話のいずれにも、「抜け駆けの功名」という要素が見られない。おそらく吉田甲子太郎は、どこかで、「抜け駆けの功名」のエピソードを仕入れ、これによって「ネコの巣」における「送りバント」の話を改変したのだろう。
 だとすれば、吉田甲子太郎は、どこで、その「抜け駆けの功名」のエピソードを仕入れたのか。ここでまた、功刀俊雄氏の論文(二〇〇七、二〇〇八)を引用させていただきたい。功刀氏の論文〝小学校体育科における「知識」領域の指導:教材「星野君の二塁打」の検討〟には、(一)と(二)とがあるが、当該のエピソードについての問題は、(一)の「おわりに」、および(二)の「おわりに」の中で言及されている。本日は、そのうち、(一)の「おわりに」の全文と、これに対応する注を紹介する。

おわりに
 本稿では、「星野君の二塁打」が執筆される直前の〔吉田〕甲子太郎の作品中にスポーツにおける犠牲の精神を取り上げたものがあることに着目し、これらの作品、「兄弟いとこものがたり」及び「一マイル競走」と「星野君の二塁打」を比較しながら、「星野君の二塁打」の執筆にアメリカの児童文学作品の影響があったことを明らかにした。しかしながら、この結論はあくまでも推測であって、これをより確かなものとするためには、「一マイル競走」の原作(カークの作品)の発見と、それと甲子太郎の「一マイル競走」との比較という作業が必要であることは言うまでもないことである。この点に関しては、「一マイル競走」を再録した『空に浮かぶ騎士』の「まえがき」で〔吉田〕甲子太郎が、本書に収めたものには「戦後にアメリカの民間教育情報部から提供されたというような新しい作品もあります【*20】」と述べていることに注目すべきであろう。というのは、もし「一マイル競走」がこうした作品の一つであるならば、この作品の訳出と紹介は占領下の教育政策の一環ということになる可能性が大きいからである。
 さらに、「星野君の二塁打」へのアメリカの影響という点では次のことにも言及しておくべきであろう。ヒット・エンド・ランやスクイズ、カット・オフ・プレイなどの新戦法をあみだし後に「近代野球の開拓者【*21】」と称せられたニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー〔John McGraw〕監督が1905年のある試合で自分が出した犠牲バントの指示を無視してホームランを放ち試合を勝利に導いたサミー・ストラング〔Sammy Strang〕に対して25ドルの罰金を科した、という逸話がある【*22】。この逸話は遅くとも1920年代半ばには我が国でも知られていたようである【*23】。甲子太郎がもしこの逸話を知っていたならば、「星野君の二塁打」の監督のモデルはマグローであったという可能性も否定できないし、「約束破り」に対する制裁もアメリカ起源であったのかもしれないのである。
「一マイル競走」と占領政策、あるいはマグローと甲子太郎の接点、これらの解明は現在の筆者〔功刀俊雄〕には具体的な展望のない今後の課題である。続編〔功刀論文(二)〕では、「星野君の二塁打」のテキストの変遷を追跡しながら、この作品に関する甲子太郎自身の解説を読むことにする。「星野君の二塁打」が最初に公表されたのは、日本国憲法と教育基本法の施行(前者が1947年5月、後者は1947年3月)の直後のことであった。甲子太郎は、こうした戦後の出発にあたって、次代を担う日本の子どもたちに何を伝えようとしたのであろうか。
〔注〕
*21 ジョセフ・ダーソー〔Joseph Durso〕著(宮川毅訳)『近代野球の開拓者 ジョン・マグロー伝』ベースボール・マガジン社、1974年。
*22 この逸話はマグロー自身が下記の自伝で語ったものである。犠牲バントの指示が出される場面は、ノーアウト、ランナー一・二塁であったとされているが、イニングは分からない。John J. McGraw, My Thirty Years in Baseball, New York: Boni and Liveright. 1923, pp. 11- 12.
*23 本稿で利用したマグローの自伝(同上書)は北海道大学附属図書館の蔵書であるが、これには1924年〔大正一三〕1月26日の受け入れ日が記載されている。このマグローの自伝を出典として明示しているものに橋戸信〈ハシド・シン〉『緑蔭球話』(宝文館、1928年)がある。ただしこれには例の逸話は載せられていない。ちなみに、マグローに多くの紙数を当てている鈴木惣太郎『米国の野球』(三彩社、1929年)もこの逸話に触れていないが、これには、「スツラング〔Strang〕が専門のピンチヒツターの元祖であり、マグローが其の最初の発案者である」とあり、それは1905年のことであったとされている(176頁)。マグロー自伝の逸話でもストラングはピンチヒッターであった。なお、筆者がこの逸話に最初に接したのは沢田謙〈サワダ・ケン〉『世界の野球王 ベーブ・ルース』(偕成社、1954年)で、該当の箇所(105-107頁)には「本塁打をうつて罰金」の小見出しが付けられている。沢田には1949年の『野球王 ベーブ・ルース』(偕成社)もあるが、これは筆者未見である。

*このブログの人気記事 2018・4・18

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勝ったのは、ヤスオ君のバントのおかげだよ

2018-04-17 06:08:38 | コラムと名言

◎勝ったのは、ヤスオ君のバントのおかげだよ

 一昨日までの話題の続きである。吉田甲子太郎に、「一マイル競走」という作品(初出、一九四六年六月)、そして、「星野君の二塁打」という作品(初出、一九四七年八月)があることは、すでに紹介した。
 実は、同じころ吉田は、雑誌『少年クラブ』に、『兄弟いとこものがたり』という連載小説を発表していた(一九四七年一月~一二月)。そして、その第三話「ネコの巣」(一九四七年三月)に、「星野君の二塁打」の原型とも言うべき、野球の試合の場面が登場する。情報源は、あいもかわらず、功刀俊雄氏の論文(二〇〇七、二〇〇八)である。
 以下、功刀論文〔2007〕から引用する。

2.「兄弟いとこものがたり」におけるヤスオの犠牲バント
 最初に取り上げるのは〔吉田〕甲子太郎の長編小説の代表作「兄弟いとこものがたり」である。まずはこの作品から野球の試合の場面を引用してみよう。
《いとこ・チ一ムとクラス・チームとは3対3で六回戦をおわった。第七回、ラスト・イニングである。
 いとこ・チームの先攻だ。ヒロシが安打で一塁へでた。つぎの打者はヤスオだ。主将のコロクが、ヤスオをわきへ引っぱっていった。
「ヤスオ君、バントでヒロシ君を二塁へ送ってくれ。どうしても、ここで一点とらなきゃ勝てないんだから。」
 だが、ヤスオは不平そうな顔をした。
「ぼく、打ちたいんだ。打てるよ、あんな球。」
「試合は、きみひとりでしているんじゃないぜ。九人でしているんだ。きみが打ちたくても自分の思うとおりにはいかないよ。ダブル・プレイをくったらおしまいじゃないか。」
 いくら、ひとりむすこでわがままなヤスオでも、野球の試合では主将の命令にそむくことができないくらいのことは知っていた。で、これが最後だから、二塁打か三塁打をと思っていたのも、あきらめた。そして、一塁がわに、ゆるいゴロをバントしてヒロシを二塁に送りこんだ。
 あとの一番打者が、第一球をねらい打ちしたのが三塁打になりヒロシはホーム・イン、つづいて安打が一本出て、また一点獲得。さいわい、敵を三点のままでくいとめることができたので、いとこ・チームはけっきょく二点の差で勝利をおさめたのだった。
「勝ったのは、ヤスオ君のバントのおかげだよ。」
 そういわれると、さっき、バントしろとコロクにいいつけられたときの不平などわすれて、ヤスオもいい気持ちだった。》
「兄弟いとこものがたり」の主人公は国民学校5年生のヤマネ・ヒロシと彼の兄弟、いとこたちである。この作品はそれぞれにタイトルが付けられた12話からなり、引用は第3話「ネコの巣」からの一場面である。引用文中に登場するヤスオはヒロシの同い年のいとこ、コロクもヒロシやヤスオのいとこで1年上の6年生である。ヤスオは、自分の学校のクラスで、自分にはいとこが大勢いるのでいとこ・チ一ムをつくりクラスのチームと野球の試合をしようと約束をする。試合当日、ヤスオはヒロシに子猫を見せようとするが、子猫が行方不明で見つからない。試合時間が迫って、ヒロシがみんなとの約束を破ることになるよと忠告してもヤスオは子猫を探し続けるのであった。ヒロシのきつい口調の忠告でやっと試合会場の学校に行く。試合開始時間にはなんとか間に合ったが、皆に心配させてしまった。その後の野球の試合場面の描写が先の引用文である。【以下、略】

 ヤスオは「バント」を命じられて、それに従い、星野君は「犠牲バント」のサインを無視して、二塁打を打った。前者は、『兄弟いとこものがたり』の第三話「ネコの巣」(一九四七年三月)に出てくる話であり、後者は「星野君の二塁打」(初出、一九四七年八月)に出てくる話である。作者は、ともに吉田甲子太郎。時系列からいって、「ネコの巣」で使った挿話を、「星野君の二塁打」という作品に発展させたといってよいだろう。
 ただし、「ネコの巣」には、「抜け駆けの功名」という要素がなかった。「ネコの巣」の挿話の場面設定を替え、それに、「抜け駆けの功名」という要素を加えたものが、「星野君の二塁打」という作品だと言ってよいだろう。ちなみに、同じく吉田甲子太郎の作品である「一マイル競走」(初出、一九四六年六月)にも、「抜け駆けの功名」という要素は見られなかった。
 どうして吉田甲子太郎は、「星野君の二塁打」に「抜け駆けの功名」という要素を加えたのだろうか。この間、紹介している功刀俊雄氏の論文は、実に周到な論文であって、この点についても、説得力のある考察をおこなっている。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2018・4・17

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『週刊文春』の記事〝「捏造の宰相」安倍晋三〟

2018-04-16 03:43:39 | コラムと名言

◎『週刊文春』の記事〝「捏造の宰相」安倍晋三〟

 先週一二日(木)、『週刊文春』の四月一九日号を買った。新聞広告で、〝「捏造の宰相」安倍晋三〟という見出しを見たからである。保守系と目される『週刊文春』も、この三月あたりからは、ついに安倍首相を批判するスタンスに回ったようだ。おそらく同誌は、何らかの情報を得て、安倍首相の退陣は必至という情況判断に到っているのであろう。
 その日の午後、たまたま、渋谷駅東口のバスターミナル前を歩いていたところ、ひとりの中年男性が、マイクもなしに、声を張りあげて演説していた。その手には、スローガンを手書きしたB4判大の板目紙があった。立ちどまって演説の内容を聴いたわけではないが、板目紙には、憲法改正、反日マスメディア糾弾といった文字が見えた。おそらく、この中年男性にとっては、最近の『週刊文春』も、反日マスメディアに区分されているはずである。
 さて、『週刊文春』の当該記事だが、そのリードは、次のようになっている。

自衛隊のイラク日報、そして加計「首相案件」文書の存在が明るみに出た。森友文書改ざんで露呈した安倍政権のウソは、今や霞が関全体を覆っている。一年以上も国会で隠蔽、捏造された事実を基に質疑が行われてきた現実。あまりに重い安倍晋三首相の責任を問う。――

 このリードを読んで、「明るみに出た」という表現に違和感を覚えた。「安倍政権のウソ」は、自然に「明るみに出た」わけではない。右派のいう「反日マスメディア」が明るみに出したのである。少なくとも、これは、優れた情報収集能力を誇る『週刊文春』が使うべき表現ではない。「一年以上も国会で隠蔽、捏造された事実を基に質疑が行われてきた現実」という言葉にも恐れ入った。「国会で隠蔽、捏造された事実を基に質疑が行われてきた現実」が、一年以上も放置されてきたのは、『週刊文春』を含むマスメディアに、政権批判の姿勢が乏しく、かつ、取材の気迫および能力が欠けていたからではないのか。
 記事そのものは、なかなか良くまとまっている。ただし、記事に署名がないのは、どういうわけか。こういう重要な記事には、署名があってしかるべきだ。
 取材の対象となった人物がアイマイなことも、この記事の価値を下げている。「官邸関係者」、「通産省関係者」、「社会部記者」、「県関係者」、「政治部デスク」、「陸上幕僚長経験者の一人」、「首相周辺」、「別の官邸関係者」、「防衛省担当記者」等々。その上に、記事自体が無署名。ということは、結局、記事の内容には、誰も責任を負いません、と言っているようなものだ。
 参考までに、この記事の最後の部分を引用しておく。

 前出の政治部デスクが指摘する。
「首相は森友問題は理財局に責任を押し付け、乗り切ったと見ています。三日夜に森山裕国対委員長らと会食した際、今井氏〔今井尚哉首相秘書官〕も『証人喚問でも参考人招致でもどこでも話してやります』と言い放っていたほど。イラク日報問題でも陸自に責任を押し付け、事態収拾を図る考えでした。その矢先に飛び出たのが、今回の〝首相案件〟文書。森友・加計・日報問題に共通するのは、首相や夫人やお友達のために、行政府が無理を通し、そのためにウソ、隠蔽、改ざんを重ね、国民を欺いてきたということ。この一年、安倍は捏造された事実を基に国会答弁し、政権を運営してきたのです」
 もはや「捏造の宰相」と言うよりほかない。

 この「政治部デスク」の発言は、その前にも引用されている。どこかの新聞社の政治部デスクなのであろうが、その新聞社名を明記してもらいたかった。読者にとっては、その新聞社が、この一年間、「安倍政権のウソ」を問題にしてきた新聞社だったのか、それとも、問題にしてこなかった新聞社だったのかは重要な問題である。
 それにしても、記事の最後に、取材対象者の発言を引用して、まとめに替えるというのは、いかにも安直である。とは言え、最後の最後で、記者本人が(あるいは、アンカーライターが)、〝もはや「捏造の宰相」と言うよりほかない〟と締めていることの意味は大きい。いや、それ以上に大きいのは、ほかならぬ『週刊文春』が、現首相を「捏造の宰相」と呼んだという事実である。

*このブログの人気記事 2018・4・16(8・10位に珍しいものが入っています)

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