礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

河辺虎四郎に対し全権御委任状を御下附相成りたり

2019-08-21 01:35:20 | コラムと名言

◎河辺虎四郎に対し全権御委任状を御下附相成りたり

 共同通信社の『近衛日記』を紹介しているところである。この日記は、今から七十五年前のものだが、その後、今から七十四年前(一九四五年=昭和二〇年)の「今ごろ」の資料を見つけたので、本日は、これを紹介する。
 資料は、「マニラ会談(参考)」と題する記事で、朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)に載っていたものである。

   マ ニ ラ 会 談 (参 考)
 帝国政府は戦争終結後における連合国に対する最初の折衝を行ふため、河辺虎四郎陸軍中将を全権委員とする代表団を八月一九日マニラに派遣した、右代表団の使命は連合軍の第一次進駐等に関する所要の打合せを行ふにあり、代表団はその使命を達成した後、二十日朝帰京、同日午後一時右に関し大本営並に帝国政府名を以て左の如く発表されたり。

大本営及帝国政府発表(二十一日十三時) 連合国最高司令官の通報に基き連合軍の第一次進駐等に関し所要の打合を為さしむるため今般陸軍中将河辺虎四郎に対し全権御委任状を御下附相成りたり
同全権委員及随員は八月一九日馬尼刺〈マニラ〉に向け出発し同地に於て所要の会談を遂げ同二十一日朝東京に帰着せり

 このマニラ会談の全権委員および随員は、一九四五年(昭和二〇)八月一九日朝、いわゆる「緑十字機」二機に搭乗して木更津基地を発ち、沖縄県伊江島まで飛行。そこで、米軍機に乗り換えて、同日のうちにマニラへ。二〇日午後、マニラでの交渉を終えた一行は、米軍機で伊江島まで戻り、そこで「緑十字機」二機に乗り換えようとするが、二機のうち一機が故障。やむを得ず、一機で飛び立ったのが同日夕方。この一機が、燃料切れという信じられない事故を起こし、同日深夜、静岡県の鮫島海岸に不時着した話は有名である。一行は、二一日早朝、浜松飛行場から陸軍の爆撃機に搭乗し、調布飛行場に到着している。
 なお、二〇一六年八月二〇日のコラム「緑十字機、鮫島海岸に不時着(1945・8・20)」、二〇一六年一二月一九日のコラム「緑十字機事件と厚木基地事件」などを参照いただければ、幸いである。

*このブログの人気記事 2019・8・21

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お上より東條に御下問があって欲しい(酒井鎬次)

2019-08-20 04:01:23 | コラムと名言

◎お上より東條に御下問があって欲しい(酒井鎬次)

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)から、「近衛日記」を紹介している。本日は、その六回目。一九四四年(昭和一九)六月二八日の日記の後半部分を紹介する。前回、紹介した部分のあと、改行せず、次のように続く。

よって予は「此の方針を実行して陸軍は納まるや」と問う。ここにおいて中将は、
中将 今日は皆口に出して言えないだけで、肚【はら】は誰も同じだ。それで、此の事を何とかして天聴【てんちよう】に達し、お上より東條に御下問があって欲しい。
予  然らば如何なる御下問を欲するか。
中将 忠勇なる陸海軍第一戦【ママ】部隊の奮闘と中央統帥部の画策とにかかわらず、太平洋上における敵の進攻はその速度と威力とを逐次増大し、今やサイパンに上陸するに至った。今後の作戦の見透しを如何に考うるか。
二、政府の周到なる軍需増産計画と国民のこれに関する奮励とにかかわらず、軍需殊に飛行機及び海上艦船の増産ならびに石油の補給は果して作戦の要望に副【そ】うているか。今後の軍需増産及び石油補給の見透し如何。
三、敵は我本土に近く基地を獲得し、既に我本土を空襲した。臣民の懸命の努力には信倚【しんい】するも、来るべき空襲により、我軍需産業及び戦争遂行に必要なる国民生活の維持に就ては今後の見透し如何。
四、要するに軍官民一致の忠誠奮闘とその必勝の信念とには信倚【しんい】するも、以上の諸項を総合し、将来の戦局推移に関して陸海軍幕僚長の所信如何。
 というに帰する。それで、右の意味の御下問があった場合、総長〔東條英機参謀総長〕のとるであろうと考えられる態度が三あると思う。即ち、
第一、直ちに辞表捧呈。
第二、人各〈オノオノ〉見る所を異にす、臣等恐懼にたえず。謹んで聖断を仰ぐ、という態度。
第三、勝利を信ずる者は勝つ。臣等一致協力死力を尽し、必勝の信念を堅持して邁進【まいしん】せん。
 という態度であると想像する。
 (付記、その後右を細川護貞氏をして高松宮〔宣仁親王〕殿下の上聞に達せしめしに、殿下は「東條は第三の奉答をなすだろう。 陛下が具体的に数字を挙げ、どんどん追窮せられなければ、結局東條は逃げて仕舞うだろう。けれども 陛下が数字を挙げて御下問になるということは実際むずかしい」というお話なりし由)

*このブログの人気記事 2019・8・20

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新方針は急速に戦争を終末に導くにあり(酒井鎬次)

2019-08-19 11:05:40 | コラムと名言

◎新方針は急速に戦争を終末に導くにあり(酒井鎬次)

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)から、「近衛日記」を紹介している。本日は、その五回目で、一九四四年(昭和一九)六月二八日の日記を紹介する。この日の日記は長いので、二回に分けて紹介する。

二十八日午後八時

 極秘裡に参謀本部の酒井〔鎬次〕中将来訪(中将は、戦争指導課長松谷〔誠〕大佐と打合せの上、大佐は松平〔康昌〕内大臣秘書官長を訪問し、自身は、荻外荘【てきがいそう】を訪問したる由〈ヨシ〉述ぶ)
 酒井中将は「これは東條総長へは極秘に願う。総長に知れれば直ちに報復せられるであろう」と述べたる後、
第一、今や戦争指導方針の大転換を要する秋【とき】となれり。
第二、これが実現は内外の情勢に鑑み、現当局者にては見込つかず。
第三、新方針は急速に戦争を終末に導くにあり。これがために一方我〈ワガ〉抗戦力を厳存するとともに他方一大決断をもつて平和条件を低下すること必要なり。
 なりとて、その理由として第一、ガダルカナル作戦以来の戦局の不利は我戦力、殊に海空軍戦力の不足に基因する。此の比が〔彼我〕戦力の相対関係において今後益々一方的に悪条件を我に加重し、我不利の態勢はいよいよ急速に現出するであろう。すなわち時日の遷延はいよいよ益々我に不利であって、遂には我本土の占領、 国民大衆の絶大なる死傷、物的施設の根底的破壊となり、戦後長年月にわたり我再起を困難ならしめ、時として我国体の堅持をも危からしめるであろう。
第二、そもそも、かかる事態を招来したるは、
   第一に、昭和十七年〔一九四二〕前半期において寛大なる条件をもって速戦的に 終末とするか。
  第二に、あるいは爾後【じご】一時作戦を扣制【こうせい】し、新占領地の建設により我国力を増強して次期作戦のために戦力を向上すべきであったのに、 二つとも指導上、遂にこれを実現することが出来なかったことに基因する。
第三、今や速戦速決【ママ】の機を失ひ、建設もまた敵の我交通、成産【ママ】の破壊により見込なく、決戦期に入ったにかかわらず、我は長期抗戦を喪失した。
第四、ドイツはなお相当の抗戦力を持っている。即ち、敵は東西両戦略圏に戦力を分散しなければならない現状だから、此の機を利用して和平に入ることは幾分でも我に有利であり、もしドイツ没落の後に和平をなすということでは益々我に不利である。
第五、故に一大決断をもって平和条件を提起し、速やかに和平に入る新方針をとるべき秋である。然るに現当局にこれを望むことは内外の情勢上、至難である。すなわち、次期当局は、此の新方針実現可能のものでなければならないとともに、他面万一を顧慮し、我現戦力を出来得る限り厳存せしむるよう努力することが必要である。
 と縷々【るる】陳述し「これは参謀本部の中心的意見である」と付加せり。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・8・19(2位に珍しいものが入っています)

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速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)

2019-08-18 06:16:30 | コラムと名言

◎速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)から、「近衛日記」を紹介している。本日は、その四回目で、一九四四年(昭和一九)六月二五日と二六日の日記を紹介する。

二十五日
  鈴木貞一中将来訪

 鈴木中将いわく
 今回の事態は海軍の大責任だ。ソ満国境の要塞は陸軍が六年で難攻不落のものにした。然るにサイパンは、海軍が三十年近く持っていて、コンクリートの要塞さえない有様だ。それであんなに脆【もろ】くいって仕舞った。

二十六日
  細川護貞氏来訪

 細川氏いわく
 高松宮〔宣仁親王〕殿下は、連合艦隊は無力化した。此の上は速やかに和平を講ずる以外に途〈ミチ〉はない、近衛に早くそういうよう尽力しろと言ってくれ、ということでした。

*このブログの人気記事 2019・8・18

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後継内閣は宮様以外に人なき事(木戸幸一)

2019-08-17 07:21:02 | コラムと名言

◎後継内閣は宮様以外に人なき事(木戸幸一)

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)から、「近衛日記」を紹介している。本日は、その三回目で、一九四四年(昭和一九)六月二四日の日記を紹介する。

二十四日
  木戸〔幸一〕内府来訪(文隆結納の件に就、媒酌人として夫人同伴)

 以下木戸内府の話
 我連合艦隊は、今度こそ決戦をやらなければならぬというので、非常の期待をもって艦隊の大部分が行った。三〇〇海程【かいり】敵に接近し、母艦から飛行機を飛ばしてサイパン周囲の敵機動部隊を襲撃した。ところが飛行機はほとんど皆やられ、艦隊は三〇〇浬【かいり】の地点から退却するのやむなきに至った。そして、その途中、潜水艦に空母三隻やられた。爾余【じよ】の損害は大したことはなかったが、然し、これで海軍の航空隊の精鋭をことごとく失った訳だ。随【したが】って、もはや連合艦隊は再び起たれぬという事態に陥った、と聞いている、と暗然たり。ここにおいて予は東久邇宮殿下のお話をなしたるに、内府はさらに、
  赤松〔貞雄〕(首相秘書官)が松平(内大臣秘書官長)の処へ昨日か一昨日かに来て「首相は適当の人があったらやめたい肚【はら】だ」と言ったから、松平〔康昌〕は「やめるやめないより、四役の荷を軽くしたらどうだ」と言ってやったそうだ。ところが、その翌日(註、案ずるに内府の荻外荘へ来訪せる前日、即ち二十三日なるべし)東條が自分の処に来て、常とは違い常とは違い酷【ひど】くしょげて何も言わず一時間余いたが、結局不得要領〈フトクヨウリョウ〉のままで帰った。
 と語る。かくて戦局の見透しとしてむずかしき事、最悪の場合及び東條辞職の場合等につき種々意見を交換したるが、内府の考え方は次の如し。
一、国家の方針が直ちに戦争を中止することに決定したる場合は、後継内閣は宮様以外に人なき事。ただし戦争を直ちに中止せず、なお打つ手ありや否や研究を要する事。
一、いよいよ戦争中止と決定せる場合は、陸海官民の責任の塗り合を防止するため陛下が全部御自身の御責任なることを明らかになさせらるる必要ある事。
一、かくすれば東條も黙過し得ず、適当の所置をとるべき事。

*このブログの人気記事 2019・8・17

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