◎河辺虎四郎に対し全権御委任状を御下附相成りたり
共同通信社の『近衛日記』を紹介しているところである。この日記は、今から七十五年前のものだが、その後、今から七十四年前(一九四五年=昭和二〇年)の「今ごろ」の資料を見つけたので、本日は、これを紹介する。
資料は、「マニラ会談(参考)」と題する記事で、朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)に載っていたものである。
マ ニ ラ 会 談 (参 考)
帝国政府は戦争終結後における連合国に対する最初の折衝を行ふため、河辺虎四郎陸軍中将を全権委員とする代表団を八月一九日マニラに派遣した、右代表団の使命は連合軍の第一次進駐等に関する所要の打合せを行ふにあり、代表団はその使命を達成した後、二十日朝帰京、同日午後一時右に関し大本営並に帝国政府名を以て左の如く発表されたり。
大本営及帝国政府発表(二十一日十三時) 連合国最高司令官の通報に基き連合軍の第一次進駐等に関し所要の打合を為さしむるため今般陸軍中将河辺虎四郎に対し全権御委任状を御下附相成りたり
同全権委員及随員は八月一九日馬尼刺〈マニラ〉に向け出発し同地に於て所要の会談を遂げ同二十一日朝東京に帰着せり
このマニラ会談の全権委員および随員は、一九四五年(昭和二〇)八月一九日朝、いわゆる「緑十字機」二機に搭乗して木更津基地を発ち、沖縄県伊江島まで飛行。そこで、米軍機に乗り換えて、同日のうちにマニラへ。二〇日午後、マニラでの交渉を終えた一行は、米軍機で伊江島まで戻り、そこで「緑十字機」二機に乗り換えようとするが、二機のうち一機が故障。やむを得ず、一機で飛び立ったのが同日夕方。この一機が、燃料切れという信じられない事故を起こし、同日深夜、静岡県の鮫島海岸に不時着した話は有名である。一行は、二一日早朝、浜松飛行場から陸軍の爆撃機に搭乗し、調布飛行場に到着している。
なお、二〇一六年八月二〇日のコラム「緑十字機、鮫島海岸に不時着(1945・8・20)」、二〇一六年一二月一九日のコラム「緑十字機事件と厚木基地事件」などを参照いただければ、幸いである。