礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

われわれは今こそ総懺悔し……(東久邇首相宮)

2019-08-26 03:47:17 | コラムと名言

◎われわれは今こそ総懺悔し……(東久邇首相宮)

 朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)から、「帝国議会における東久邇首相宮殿下の御演説」の部を紹介している。本日は、その二回目。
 この演説は、一九四五年(昭和二〇)九月五日に、衆議院および貴族院でおこなわれたもので、インターネット上のデータベース「世界と日本」(代表:田中明彦)にも収録されている。ただし、このデータベースにあるものと、『終戦記録』にあるものとでは、文章や表記が、微妙に異なっている。ここでは、『終戦記録』にある形で紹介する。

 敗戦の因て来る〈ヨッテキタル〉ところは、もとより一にして止まらず、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日われわれが徒らに〈イタズラニ〉過去に遡つて、誰を責め、何を咎むることもないのであるが、前線も銃後も、軍も官も民も、国民尽く〈コトゴトク〉静かに反省するところがなければならぬ、われわれは今こそ総懺悔し、神前に一切の邪心を洗ひ浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして戦〈タタカイ〉の日にも増して、挙国一家、乏しきを分ち苦しきを労り、温き心で相援け、相携へて、各々その本分に最善を竭し〈ツクシ〉、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきである。征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、冱寒〈ゴカン〉を凌ぎ炎熱を冒しつぶさに辛苦を嘗めて勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れてその職務に尽瘁し、銃後国民は協心戮力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国はその総力を挙げて戦争目的の完遂に傾けて来た、もとよりその方法において過〈アヤマチ〉を犯し、適切を欠いたものも尠し〈スクナシ〉としない、その努力において甚く適当であつたといひ得ざりし憾〈ウラミ〉もあつた、しかしながら、あらゆる困苦欠乏に耐へて来た、一億国民のこの敢闘の意力、この尽忠の精神こそは、敗れたりとはいへ永く記憶せらるべき民族の底力である。【以下、次回】

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臣子としてこれ程の感激を覚えたことはない(東久邇首相宮)

2019-08-25 00:08:54 | コラムと名言

◎臣子としてこれ程の感激を覚えたことはない(東久邇首相宮)

 共同通信社編『近衛日記』の紹介を中断し、朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、同書の「帝国議会における東久邇首相宮殿下の御演説」の部を紹介する。一九四五年(昭和二〇)九月五日に、衆議院および貴族院でおこなわれた演説である。非常に長いので、何回かに分けて紹介する。
 なお、この演説は、インターネット上のデータベース「世界と日本」(代表:田中明彦)にも収録されている。ただし、表現、表記は、かなり異なっている。ここでは、『終戦記録』にある形で紹介する。

 稔彦〈ナルヒコ〉曩に〈サキニ〉組閣の大命を拝し、国家非常の秋〈トキ〉に際し重責を負ふことになつたが、真に〈マコトニ〉恐懼〈キョウク〉感激に堪へない。
 ここに第八十八回帝国議会に臨み、諸君に相見え〈アイマミエ〉、今次終戦に至る経緯の概要を申し述べ、現下困難なる時局に処する政府の所信を披瀝することは、私の最も厳粛なる責務であると考へる。畏くも〈カシコクモ〉 天皇陛下に於かせられては開院式に親臨あらせられ特に優渥〈ユウアク〉なる勅語を賜はつたことは、洵に〈マコトニ〉恐懼感激に堪へぬ。私は諸君と共に有難き御聖旨を奉体し、帝国の直面する現下の難局を克服し、総力を将来の建設に傾け以て聖慮を安んじ奉りたいと思ふ。
 諸君、さきに畏くも大詔を拝し、帝国は米英ソ支四国の共同宣言を受諾し、大東亜戦争はこゝに非常の措置を以て、其の局を結ぶこととなつた。征戦四年、顧みて万感交々〈コモゴモ〉至るを禁じ得ない、しかしながら、既に大詔は下つたのである。われわれ臣子としては、飽くまでも承詔必謹〈ショウショウヒッキン〉、大詔の御精神、御諭〈オサトシ〉を体し、大御心〈オオミゴコロ〉に副ひ〈ソイ〉奉り聊か〈イササカ〉なりともこれより外れることなく、挙国一家、整斉〈セイセイ〉たる秩序の下に、新たなる事態に処して、大道〈ダイドウ〉を誤ることなき努力に生きなければならぬと信じる。
 この度〈タビ〉の終戦は、一に〈イツニ〉有難き御仁慈〈ゴジンジ〉の大御心に出でたるものであつて、至尊御親ら〈オンミズカラ〉祖宗の神霊の前に謝し給い、万民を困苦より救ひ万世の為に太平を開かせ給うたのである。臣子として宏大無辺の大御心の有難さにこれ程の感激を覚えたことはないのであつて、我々は唯々〈タダタダ〉感涙に咽ぶ〈ムセブ〉と共に、かくも深く宸襟〈シンキン〉を悩まし奉つたことに対し、深く御詫び申上ぐるのみである。恭しく〈ウヤウヤシク〉惟みる〈オモイミル〉に、世界の平和と東亜の安定を念ひ〈オモイ〉万邦共栄を冀ふ〈コイネガウ〉は肇国〈チョウコク〉以来帝国が以て不変の国是とするところ、もとより常に大御心の存する所である。世界の国家民族が相互に尊敬と理解を念として相和し〈アイワシ〉相携へてその文化を交流し、経済の交通を敦く〈アツク〉し、万邦共栄、相互に〈アイタガイニ〉相親しみ人類の康福を増進し益々文化を高め、以て世界の平和と進運に貢献することこそ歴代の天皇が深く念〈オモイ〉とせられた所である。洵に畏き極みであるが 天皇陛下におかせられては大東亜戦争勃発前、わが国が和戦を決すべき重大なる御前会議が開かれた際、世界の大国たるわが国と米英とが戦端を開くが如きこととならば、世界人類の蒙る〈コウムル〉べき破壊と混乱は測るべからざるものがあり、世界人類の不幸是に過ぐることなきことを痛く御軫念〈ゴシンネン〉あらせられ、御親ら明治天皇の
  よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ
 との御製を高らかに御詠み遊ばされ、如何にしてもわが国と米英両国との間に蟠まる〈ワダカワル〉誤解を一掃し、戦争の危機を克服して世界人類の平和を維持せられることを冀はれ、政府に対し百方手段を尽して交渉を円満に纏めるやうにとのご鞭撻を賜はり参列の諸員一同宏大無辺の大御心に粛然として襟を正したと云ふことを漏れ承つてをる。この大御心は開戦と雖も終始変らせらるゝことなく、世界平和の確立に対し常に海の如く広く深き聖慮を傾けさせられたのである。この度新たなる事態の出現により不幸わが国は非常の措置を以て大東亜戦争の局を結ぶこととなつたのであるが、これまた全く世界の平和の上に深く大御心を留めさせ給ふ御仁慈の思召〈オボシメシ〉に出でたるものに外ならぬ。
 至尊の聖明を以て、なほ今日の非局を招来しかくも深く、宸襟を悩まし奉つたことは、臣子として洵に申訳のなき極みであると共に、民草〈タミクサ〉の上をこれ程までに御軫念あらせらるゝ有難き御仁慈の大御心に対し、われわれ国民は御仁慈の程を深く胆に銘じて自粛自省しなければならないのである。【以下、次回】

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連合軍部隊の第一次進駐行動は概ね左の如く予定せらる

2019-08-24 00:41:36 | コラムと名言

◎連合軍部隊の第一次進駐行動は概ね左の如く予定せらる

 朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)に拠って、今から七十五年前の文書を紹介している。これまで、紹介した文書は、次の通り。

一九四五年(昭和二〇)八月二一日 マニラ会談についての「大本営及帝国政府発表」
一九四五年(昭和二〇)九月二日  いわゆる「降伏文書調印に関する詔書」
一九四五年(昭和二〇)九月二日  降伏文書

 このあと、「帝国議会における東久邇首相宮殿下の御演説」(一九四五年九月五日)を紹介する予定だが、本日は、八月二二日の文書を一件、補足する。これは、『終戦記録』の「連合軍の日本統治方針」の部に載っていたものである。この文書は、「進駐」という言葉が使われた文書としては、おそらく最初期のものであろう。

    連 合 軍 第 一 次 本 土 進 駐
     大本営及帝国政府発表(昭和二十年八月二十二日五時)
一、連合軍の第一次本土進駐部隊は八月二十六日より逐次東京湾周辺地域の一部に到着する予定なり
二、右進駐に当り紛争を避くる為左の通り実施することに定めらる
(イ)概ね千葉県鴨川東側、千葉市、多摩川河口、府中、八王子、大月、伊豆半島南端を連ぬるの線内池域に在る我が武装軍隊は成るべく速に該当地域外に撤去せしめらる
(ロ)右地域内には我方の一般警察の外武装警察、憲兵及び海軍保安隊を配備し治安維持を強化す
(ハ)右地域内の官庁、公共団体等の機能は平常通にして住民も亦従前通りの平静なる日常生活を継続すべきものとす、但し混乱予防等の為臨機統制を要する事項に就ては其の都度一般に公示す
 尚連合軍と我方との接触は別に設置せらるゝ機関を経て行はる
三、連合軍部隊の第一次進駐行動は概ね左の如く予定せらる
 八月二十五日より本士上空に飛行を開始す、八月二十六日朝以降厚木飛行場へ空輸先遣部隊到着より同日連合国艦隊相模湾に、其の一部軽快部隊東京湾に入港す、八月二十八日以後逐次空輸及び海上輸送を以て厚木及び横須賀附近より兵力を進駐す

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1945年9月2日午前9時4分日本国東京湾上に於て署名す

2019-08-23 00:32:52 | コラムと名言

◎1945年9月2日午前9時4分日本国東京湾上に於て署名す

 共同通信社編『近衛日記』の紹介を中断し、朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、同書の「帝国議会に対する終戦経緯報告書」の部から、(別紙第八)「詔書」を紹介する。一般に、「降伏文書」と呼ばれているものである。表記は、『終戦記録』に従っている。

   (別紙第九)降伏文書(訳文)
 下名は茲に合衆国、中華民国及グレート・ブリテン国の政府の首班が千九百四十五年七月二十六日ポツダムに於て発し後にソヴイエト社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営の命に依る、且、之に代り受諾す、右四国は以下之を連合国と称す
 下名は茲に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す
 下名は茲に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し之が毀損を防止すること及連合国最高司令官又は其の指示に基き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず
 下名は茲に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず
 下名は茲に一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行すべきことを命じ並に右職員が連合国最高司令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行ふことを命ず
 下名は茲にポツダム宣言の条項を誠実に履行すること、並に、右宣言を実施する為連合国最高司令官又は其の他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且斯る一切の措置を執ることを 天皇日本国政府及其の後継者の為に約す
 下名は茲に日本帝国政府及日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず
 天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす
 千九百四十五年九月二日午前九時四分日本国東京湾上に於て署名す
   大日本帝国 天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て  重光 葵
   日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て           梅津美治郎
 千九百四十五年九月二日午前九時八分東京湾上に於て合衆国、中華民国、連合王国及ソヴイエト社会主義共和国連邦の為に並に日本国と戦争状態に在る他の連合諸国家の利益の為に受諾す
   連合国最高司令官      ダグラス・マツカーサー
   合衆国代表者        シー・ダブリユー・ニミッツ
   中華民国代表者       徐永昌
   連合王国代表者       ブルース・フレーザー
   ソヴイエト社会主義共和国連邦代表者  クズマ・エヌ・ヂレヴイヤンコ
   オーストラリア連邦代表者  テイー・ユー・プレーミー
   カナダ代表者        エル・コスグレーヴ
   フランス国代表者      ジヤツク・ル・クレルク
   オランダ国代表者      シエルフ・ヘルフリツヒ
   ニユー・ジーランド代表者  エス・エム・イシツト

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「降伏文書調印に関する詔書」(1945・9・2)

2019-08-22 02:54:41 | コラムと名言

◎「降伏文書調印に関する詔書」(1945・9・2)

 共同通信社編『近衛日記』の紹介を中断し、朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、同書の「帝国議会に対する終戦経緯報告書」の部から、(別紙第八)「詔書」を紹介する。一般に、「降伏文書調印に関する詔書」と呼ばれているものである。

(別紙第八)
       詔  書

朕ハ昭和二十年七月二十六日米、英、支各国政府の首班カポツダムニ於テ発シ後ニ蘇連邦カ参加シタル宣言ノ掲クル諸条項ヲ受諾シ帝国政府及大本営ニ対シ連合国最高司令官カ提示シタル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且連合国最高司令官ノ指示ニ基キ陸海軍ニ対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ命シタリ朕ハ朕カ臣民ニ対シ敵対行為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書ノ一切ノ条項並ニ帝国政府及大本営ノ発スル一般命令ヲ誠実ニ履行セムコトヲ命ス

 御 名 御 璽
  昭和二十年九月二日
    内 閣 総 理 大 臣 
    各 国 務 大 臣

 今日、インターネットで、「降伏文書調印に関する詔書」を検索すると、詔書の実物を、影印によって見ることができる。それを参考にして、同詔書を実物に近い形で再現してみよう。改行は、実物のまま。「―――」は、改ページを示す。なお、当時の首相は、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)である。

朕ハ昭和二十年七月二十六日米英支各
国政府の首班カポツダムニ於テ発シ後ニ
蘇連邦カ参加シタル宣言ノ掲クル諸
条項ヲ受諾シ帝国政府及大本営ニ
対シ連合国最高司令官カ提示シタ
ル降伏文書ニ朕ニ代リ署名シ且連合
国最高司令官ノ指示ニ基キ陸海
軍ニ対スル一般命令ヲ発スヘキコトヲ
命シタリ朕ハ朕カ臣民ニ対シ敵対行
為ヲ直ニ止メ武器ヲ措キ且降伏文書
   ―――
ノ一切ノ条項並ニ帝国政府及大本営ノ
発スル一般命令ヲ誠実ニ履行セム
コトヲ命ス

裕 仁  天皇御璽

   ―――
  昭和二十年九月二日
    内閣総理大臣 稔彦王
    国務大臣 公爵近衛文麿
    海軍大臣 米内光政
    外務大臣 重光 葵
    運輸大臣 小日山直登
    大蔵大臣 津島壽一
    司法大臣 岩田宙造
    農林大臣 千石興太郎
    国務大臣 緒方竹虎
   ―――
    内務大臣 山崎 厳
    商工大臣 中島知久平
    厚生大臣 松村謙三
    文部大臣 前田多門
    国務大臣 小畑敏四郎
    陸軍大臣 下村 定

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