礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

あの日の記憶が失われてしまう前に

2024-03-21 03:15:19 | コラムと名言

◎あの日の記憶が失われてしまう前に

 本日は、日本評論社法律編集部編『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社、2021年7月)の「はしがき」と「目次」を紹介する。
 これらに目を通していただければ、この本が、いかに貴重な本であるか、いかにユニークな本であるかが、おのずから明らかになることと思う。

   はしがき

 《昭和二十年八月十五日、正午。雑音まじりのラジオから流れてきた、あの独特の浴用をもった「玉音」を人々はどのような感慨をもって聞いたのだろうか。そしていま、あの日をどのような思いで振り返っているのだろうか。〔改行〕あれから三十年以上の年月が流れた。あまりにかまびすしい議論の日々が過ぎて、最近では語られることの少なくなった八月十五日が今年も近づいてくる。〔中略〕さまざまな法学者のさまざまな夏がここに記されている。わたしたちが、いま一度「あの日」の意味を考えてみるよすがとなれば幸いである。》

 本書は、『法学セミナー』誌上における特別企画「私の八月十五日」を再録したものである。この企画が掲載されたのは、敗戦からちょうど三十年を経た、一九七五年八月号(二四二号)のことであった。 冒頭に掲げた一節は、好評につき同じ企画の第二弾が行われるということで、一年後の一九七六年八月号(二五七号)に当時の編集部が寄せた文章から抜粋したものである。一読して格調の高い名文であるが、ここに引用したのはそのためだけではない。というのもこの一節には、戦後三十周年という節目に際してこのような特集が企画された理由の一端が語られているからである。それはすなわち、この当時、「あの日」への関心が薄れ始めていたということにほかならない。
 このことは、二〇二一年に生きる我々からするとやや意外であるようにも感じられる。「八月ジャーナリズム」の隆盛は、毎年やって来る八月十五日に「あの日」を意識しないことを、ほとんど不可能にしているからだ。けれども、敗戦から七六年が経遇した現在、「あの日」をめぐって毎年のように繰り広げられる「あまりにかまびすしい議論」は、すでに「あの日」の記憶から遠く隔たつてしまってはいないだろうか。そうであるとすれば、「あの日」の記憶が永遠に失われてしまう前に、「あの日」の記憶を記録した四五年前の企面を改めて世に問うことにも意味があるように思われる。
 本書に登場している人々は、多彩な経歴を有しているとはいえ、そのほとんどが法律家であり、しかも女性は一人もいない。その意味において、本書が「偏った」記憶の記録であることは否めないが、幸いなことに、三名の優れた歴史家にナビゲーターとしてご協力を仰ぐことができた。彼らの道案内に従うことで、この国の法律学にとってあの戦争がどのような意味を持っていたのかについて、読者諸賢には明晰な見取図が得られるであろう。その見取図を片手に、皆さんが日々の生活を営んでいるそれぞれのフィールドで「あの日」の意味を考えて頂ければ、解説者の一人としてこれに勝る喜びはない。
 最後になるが、本書の企画から刊行までの道のりを文字通りリードして下さった日本評論社の小野邦明氏に、この場を借りて厚く御礼を申し上げる。
        解説者を代表して 二〇二一年五月三日 西村裕一

 私の八月十五日  目次

 はしがき…………1
私の八月十五日 第一集
 三〇年目の八月一五日――戦争体験と法律家…………長谷川正安 2
 三十年前の八月十五日と私…………小野清一郎 13
 敗戦を喜ぶ…………横田喜三郎 19
 裁判官として…………熊谷 弘 25
 一弁護士が遭遇した民族の大時刻…………小林俊三 31
 下呂の陸軍病院にて…………沼田稲次郎 37
 ウェーバーとの出会い…………世良晃志郎 43
 敗戦の日の前後…………兒島武雄 49
 みどり児を抱えて…………浦辺 衛 55
 見届けた悪魔の正体…………正木ひろし 61
 京城の八月十五日…………鵜飼信成 68
 重圧感からの解放…………田畑茂二郎 74
 赤軍に投降して…………磯野誠一 80
 欧露の収容所にて…………福島正夫 86
 見込みのない愚かな戦争…………河村又介 92
私の八月十五日 第二集
 二〇年後への待望…………植松正 100
 〝自由のもたらす恵沢〟…………宮沢俊義 106
 安堵と不安の長い一日…………峯村光郎 113
 神州から人間の国へ…………浅井清信 119
 まさしく再生の出発点…………鈴木安蔵 125
 敗戦直後の司法修習…………村松俊夫 131
 崩壊した大学の再建…………田畑 忍 137
 生涯の重要な分岐点…………安井 郁 143
 待望と焦燥の三週間…………岡倉古志郎 150
 八月十五日のあと…………杉村章三郎 156
 終戦詔書を評して…………中村 哲 162
 科学する心をなくしていた頃…………加藤新平 68
 八月十五日の日記から…………林 修三 175
 私の八月十五日…………舟橋諄一 181
 私にとつて敗戦は虚脱からの解放であつたが、
 独立回復後の日本の法学界はふたたび私を虚脱状態に陥れた
                      …………沼 正也 187
解 説
 「統制」と「調査」
   ――内地の司法官・「外地」の法学者にとっての「八月十五日」
                   …………出口雄一 196
 台北・京城・天皇制…………西村裕一 213
 憲法学史の「語られ方」と法学方法論…………坂井大輔 230
 「世界政府論」と「中立論」のあいだ
   ――戦後国際法学のなかの日本政治外交史…………前田亮介 247

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幻の本となった『民法典との訣別』

2024-03-20 00:14:36 | コラムと名言

◎幻の本となった『民法典との訣別』

 本日も、『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社、2021年7月)の紹介。本日は、同書の「私の八月十五日 第二集」から、舟橋諄一の「私の八月十五日」という文章を紹介したい。初出は、『法学セミナー』257号(1976年8月)。なお、今回、紹介するのは、その後半部分のみ。

私の八月十五日   舟橋諄一

【前半の約二ページ分を割愛】
 八月十五日を過ぎてから、米軍が大学〔九州帝大〕のすぐ裏に進駐してきた。秋も深くなってきたある夜のことである。夜半の二時ごろ研究室を出て、下宿に帰ろうとした。すると、向うから酒気を帯びた米兵が一人やってきた。話しかけてきたので拙い英語で応待しているうち、何か気に障【さわ】ることがあったらしく、その男が突然殴りかかってきた。不意を突かれたせいもあったし、それに、何とはなしに、自分も日本国民の一人として非人道的な戦争の責任を負わなければならないというような気がし、ただ頭をかかえてうずくまったまま、殴るにまかせた。翌日になって食べ物を踏む〔ママ〕時に痛みを感じた。病院で診てもらったら、あごの付け根の骨が折れて全治一か月かかるということであった。大学当局は、最も民主的な教授の一人が殴られたことは日本の民主化のためによくない、というような理屈をつけて、米軍に坑議をしてくれたらしい。そのせいかどうかは知らないが、間もなく米軍は、大学の裏から撤退した。誰よりも喜んだのは、近所に住む若い娘さんとその親たちであった。毎晩のように米兵から激しく戸を叩かれて困っていたからである。
 ところが、もう一つその続きがある。右の事件からだいぶのちの、ある夕方、私は博多駅で乗車券を買おうとした。窓口に一人の米兵がいて、何か係員に聞いている。しばらく待ったが、いっこうに終りそうにない。そばに寄ってみると、まるで必要のない愚問を次から次へと出して、係員を困らせている。私は係員に頼んで隣りの別の窓口から乗車券を売ってもらうことにした。すると、何を思ってか、その米兵は、体をずらせてきて、その窓口をも塞ごうとする。元の窓口が空いたのでそちらに行こうとすると、また邪魔をする。こんなことを繰り返しているうち、すきを見て、私は、係員から乗車券を受取ってしまった。すると、米兵は、いきなり私の頭を殴ってきた。とっさに身を沈めたので、帽子だけが飛んだ。米兵と、にらみ合いになった。この前の事件が口惜しかったので、今度こそはやってやろうと、肚【はら】を決めた。しかし、相手は強そうだ、男の急所を蹴上げるよりほかはなかろう、と思った。駅のことだから、たちまち周りに人垣が出来、米兵は逃げ出した。見えを張って少しばかり追いかけてみたが、暗闇のなかに姿が消えてしまったので、今度はほんとうに怖くなって、追うのをやめた。――以上、つまらない武勇伝(?)ではあるが、占領当時の様子を偲ぶよすがにはなるであろう。軍人というものは、どこの国のものでも、似たようなものである。
    *    *    *
 あの八月十五日をもつて、戦争は終った。私は、ここで、その戦争中に生まれ、そして戦争とともに消え去った小著『民法典との訣別』について、一言触れておきたい。この本の構成について述べれば、第一部は、ナチス法学者シュレーゲルベルゲル博土がハイデルベルグ大学で行なつた講演を内容とする、『民法典との訣別』と題する小冊子の邦訳であり、当時流行した「民法よ、さようなら」論の原典ともいうべきものである。第二部(「民法典との訣別」論について)は、ナチス法学者の右の論述を批判し、よって、民法ないし民法原理の本質とその変遷の理論を明らかにしようとしたものである。いいかえると、ナチス法の神がかり的表現にかかわらず、その説くところの実質は、自由主義経済から独占ないし統制経済への移行に伴う、民法の機能変化を、指すにすぎないことを、論証しようと試みたのである。また、第三部(附録、レンホフ教授の私法変遷論)は、ウィーン大学のレンホフ教授の「私法の変遷」なる論文に盛られた豊富な資料を利用して、経済の独占段階における私法の変遷の実態を明らかにしようとしたものである。――以上がこの本の構成であるが、実をいうと、初めの考えでは、本書を「私法の変遷」と題して、右の第二部と第三部を中心に置き、第一部は附録として附け加えるつもりでいた。しかし、このような構成では、用紙と印刷と出版が大幅に統制され、検閲のきびしい戦時下で公刊することは不可能であつたので、やむなくナチス法学者の論文を表看板にせざるをえなかったのある。しかし、譲歩はそれだけにとどまり、その内容について、いささかも当時の時勢に迎合しなかったことは、いまだに誇りに思っている。ただ、残念なのは、終戦の年の正月前後にやっと本が出来上ったため、輸送の途中空襲でやられたりして行方不明になるものが多く、ほとんど配給のルートに乗らずに消えてしまったことである。当時私の手に入ったのは、当時九大の総長であった百武源吾〈ヒャクタケ・ゲンゴ〉海軍大将の秘書をしていた私の教え子が、総長のお伴をして上京したさい、飛行機に載せて持ち帰ってくれた、わずか二十冊だけであった。
いま、幻の本となった小著を偲びながら、あのような八月十五日の再び来ないことを、心から祈っている。
 〔ふなばし・じゅんいち 九大名誉教授・弁護士。一九〇〇~一九九六年〕

 文中、「百武源吾」は、明治・大正・昭和期の海軍軍人(1882~1976)。1937年、海軍大将。1938年から1942年まで、軍事参議官。日米開戦前、軍事参議官として、ただひとり、対米協調を主張したことで知られる。1942年、予備役に編入。その後、九州帝国大学総長を務める(1945年3月~11月)。二・二六事件のあとに侍従長を務めた海軍大将の百武三郎(1872~1963)は、源吾の実兄。
「小著『民法典との訣別』」とあるのは、舟橋諄一訳著『民法典との訣別』(大坪惇信堂、1944年12月)を指す。
 順序が前後したが、明日は『法学者・法律家たちの八月十五日』の「はしがき」と「目次」を紹介する。明後日は、舟橋諄一の『民法典との訣別』について、若干の若干の補足をおこなう。

*このブログの人気記事 2024・3・20(9位になぜか西部邁、10位になぜか鞍馬天狗)

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松岡洋右氏を巣鴨に何度か訪問した(小林俊三)

2024-03-19 00:19:50 | コラムと名言

◎松岡洋右氏を巣鴨に何度か訪問した(小林俊三)

『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社、2021年7月)の紹介を続ける。
 本日は、同書の「私の八月十五日 第一集」から、小林俊三の「一弁護士が遭遇した民族の大時刻」という文章を紹介したい。初出は、『法学セミナー』242号(1975年8月)。なお、今回、紹介するのは、その後半部分のみ。

一弁護士が遭遇した民族の大時刻   小林俊三

【前半の約三ページ分を割愛】
 終戦の詔勅を聞き終った私は、結局来るべきものが来たという現実感と、有史以来はじめての敗戦という屈辱感とが徐々に混同して湧き上って来た。かかる運命に進む軌道は、私のようにそれまで純粋の弁護士として民間から官権を眺めて来た者には、必然ともいえる結論であった。一つは明治憲法の体質の進路であり、他は第一次大戦においてアメリカの戦力が短期間に爆発的に増大するおそるべき力を知ったということである。明治憲法の体質は、薩長が天皇を背景として永久政権を画したとしか思えないものである。すべて大権、統帥権に帰一する機構は、明治天皇のような英邁な君主がいてはじめて妥当するのであって、そうでないと天皇の名において関係臣下の恣【わがまま】な行動に進むのは当然であった。そして薩長といえども人材に限りがあるから、それは味方する官僚閥に傾いて行くのを免れない。さらに官僚閥はいかに権力の上に動いても、直接武力を持っている軍部軍閥に実力の移るのは見易い理〈コトワリ〉である。したがって昭和初頭以来軍部暴走にまで発展したのは、当然の進路だったのである。前記のアメリカ戦力と第一次大戦との関係は、私は中学の上級生として具さ〈ツブサ〉に瞠目して見ていた。このことをわが政治や軍部の上層者が知らなかったなどとはいいたくない。少なくも甘く見ていたという愚かさはどうしようもあるまい。
 進駐軍の管理下に入ったわが国は、法曹全般にとって一大変革が来るであろうことは、予期されたことであった。特に憲法の変革が必至であることは予想されたことであって、わが国朝野の間に、公私の分ちなく混乱のままその草案を議しつつあった。この大問題とは別に、実務法曹たる私にとって、わが国の訴訟手続が根本的に変らなければ、訴訟の真実は発揮できまいと考えさせられたのは東京裁判(極東国際軍事裁判所法廷)における体験であった。昭和二一年〔1946〕一月戦犯に指定された松岡洋右〈ヨウスケ〉氏は巣鴨拘置所に収容されていた。昭和二一年三月頃同氏の援護団体の代表から右松岡氏の弁護人たることを要請され、私はこれを受諾した。それから清瀬一郎氏宅における研究会に出席したり、松岡氏を巣鴨に何度か訪問し、起訴状に対する反駁意見を委しく聴取した。これらの内容は省略するが、東京裁判は昭和二一年五月三日を第一回として、原則として週三回開廷された。ところが松岡氏は宿痢〔ママ〕の肺患が重くなり、結局弁護人(この時までに米側弁護人としてウォレン氏が就任した)両名の申請により、松岡氏を病院に移すことの許可を得た。しかし結局松岡氏は二度目に移った東大病院で六月二七日静かに世を去った。この間両弁護人は被告人を代表し各公判に全部出席した。ここで私の得た強い印象は次の諸点である。㈠ 米側弁護人は戦犯被告に対する弁護の使命惑に徹し真剣であったこと。㈡証拠調特に証人尋問等は執拗と思われるほど熱心活潑であったこと。㈢口頭弁論主義に徹底し書面の提出だけでは採用されなかったこと、などである。
 前記㈠㈡は米側弁護人が曾【かつ】ての敵国戦犯のため本当の味方となり、容赦なき攻撃防禦を敢てし、法の支配の深さをひしひしと感じたことである。しかし私の特に強調したいのは㈢の問題である。今やわが国の口頭弁論主義は、単なる教科書上の空論に陥ってしまった。大審院時代から書面だけに依存する慣習は、期日の徒【いたず】らな遷延を来した。
 これらの関係は、新憲法とともに改まる裁判所法により、訴訟手続に画期的活性を生ずることを期待した。しかし現在また「書面のとおり」という妥協的風習に陥り、徒らに書面の多量を競う傾向に戻ってしまった。(了)
 〔こばやし・しゅんぞう 弁護士 元最高裁判所判事。一八八八~一九八二年〕

 文中、「ウォレン氏」とあるのは、小林俊三とともに松岡洋右の弁護人を務めたフランクリン・ウォーレン(Franklin E. N. Warren)のことである。
 また、「宿痢」とあるのは原文のまま。おそらく、「宿痾」(しゅくあ)の誤植であろう。

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出征して行った学生諸君にすまない(河村又介)

2024-03-18 03:09:19 | コラムと名言

◎出征して行った学生諸君にすまない(河村又介)

 数日前、地元の図書館から、日本評論社法律編集部編『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社、2021年7月)という本を借りてきた。
 まだ、拾い読みしている段階だが、なかなか面白い。法学者・法律家たちが語った「八月十五日」を集めるという試みが有意義だし、個々の体験談にも貴重なものが多い。
 本日は、同書の「私の八月十五日 第一集」に収められていた河村又介の「見込みのない愚かな戦争」という文章を紹介してみたい。初出は、『法学セミナー』242号(1975年8月)。なお、今回、紹介するのは、その後半部分のみ。

見込みのない愚かな戦争   河村又介

【前半の三ページ分を割愛】
   *
 私は日清両国の間に暗雲漂っていた頃に生まれた。そして「日清談判破裂して」の軍歌や剣舞の中に育った。勇敢なる水兵やラッパ卒の話、三国干渉、臥薪嘗胆【がしんしょうたん】などに悲憤慷慨させられた。北清〈ホクシン〉事変といっても今の若い人たちはその言葉も知らないくらいだろうが、この事変には私の郷里の連隊が出陣した。
 その連隊の一人の中尉が負傷して陸軍の病院から私共の村に帰っていた。あるとき私は父に命ぜられてその中尉のもとに手紙を届けたことがあった。その中尉は頭を撃たれて視神経をひどくやられたとかで失明に近いと聞いていたが、私が訪れたときちょうど家の外でまき割りをしていた。私が帰宅して父にそのことを話すと、父はいたく感激して、「あの人こそお国に身命を捧げつくしてもうこの上なんにもしなくてよい人だ、それでもなおまき割りをしていられたか!」と感銘の言葉をもらした。このくらいのこと、どこにでもザラにある話で珍しくもなんともないのだが、いわゆる美談でも伝聞でもなく、父がごく自然にあらわした感激の表情は、七十年後の今でも私の印象に残っている。
 日露戦争の頃は、私はすでに高等科(今の小学校五年)に進んでいた。最新のニュースは翌日配達される大阪の新聞、たまにはその号外よりほかなかった。私はそれを待ちかねて毎日のように配達店までとりに行った――それには連載される講談の続きを読みたいこともあったのだが。旅順陥落のときには、私の綴り方がよく出来すぎているというので、先生たちは私の自作であることを信じてくれなかった。
 五月末、父と私は麦のとり入れのために野良にでていた。すると遥か遠くから雷のような音が断続的に聞こえた、後にそれは日本海大海戦の砲声であったことがわかった。また麦畠の傍を通る汽車の中から熱狂した男が、のり出すようにして叫びながら紙片を投げてくれた、日本海大勝利の号外であったが、まだ海戦の半ばに刷ったもので、敵艦八雙撃沈とだけで全滅の結末までは書いてなかった。
 思えばこの日は世界歴史転回の日であった。仮りにこの海戦の大勝利がなかったとしたならば、日本は、アジアは、どうなっていたであろうか? ヨーロッパは十九世紀の通りの世界支配を続けていたであろう。アジア諸国は依然として世界歴史の舞台の上に上っては来なかったかもしれない。日本もその一国としての地位を認められるに止まったかもしれない。それだのにこの頃は大学生でも、五月二十七日に今日は如何なる日かと訊いてみても思い出すものは少ない。彼等はトラファルガーやネルソンの名は知っていても、ツシマやトーゴーの世界史的意義を知らないのだ。願わくは八月十五日と共に、五月二十七日の意義をも認識してほしい。
   *
 以上のような体験や環境は私の潜在意識となって、知らず知らずの間に私をナショナリズムの方向に駆り立てているらしい。私はもの心ついて以来、一貫して民主主義の立場を貫いているつもりである。自ら社会主義に同調しているつもりでもある。しかし如何なる場合にもナショナリズムを棄てることはできなかった。
 私は最初から大東亜戦争に反対であった。それは勝つ見込みのない愚かな戦争だと思ったからである。したがって、真珠湾やマレー沖やシンガポールなど緒戦の勝利に目が眩んで、一時は思い返そうとしたこともあった。しかし結局すべて空【むな】しい夢と化した。
 私は世界史の転換という私の言葉に激励されて出征して行った学生諸君にすまないと思う。私の姪の夫はその妻が孕【みごも】っているときに戦死した。姉の一人息子も戦死した。私の長男は東大の理学部を出たが、その卒業式の日が海軍技術将校として海兵団に入団する日であった。そして海軍附属の炭坑に配属されて数日目に病気にかかり、結局死亡した。三人とも若き中尉であった。私の遠縁の男は三人の息子に次ぎ次ぎに戦史された、最初の二人までは毅然としていたこの男、さすがの薩摩武士も三人目の戦死には遂に黙して口を利かなくなった。それらの英霊に対しては、ただただ冥福を祈るのみ。
 〔かわむら・またすけ 元最高裁判事 国学院大教授。一八九四~一九七九年〕

 筆者の河村又介は山口県出身。少年時代、その出身地において、日本海海戦の砲声を聞いたという。1932年(昭和7)から、九州帝国大学法文学部教授。「世界史の転換」という言葉によって出征する学生を激励したのは、九州帝大教授時代のことだったようだ。

*このブログの人気記事 2024・3・18(8位の八王子の奇人は久しぶり、10位に極めて珍しいものが)

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陸軍及び国家の将来は寒心に堪へざるものあり(宇垣一成)

2024-03-17 01:48:18 | コラムと名言

◎陸軍及び国家の将来は寒心に堪へざるものあり(宇垣一成)

 栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)から、第二部「大戦前史と天皇」の第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 宇垣は万策つき、一月二十九日、午前十一時五十分、大命を拝してから百八時間五十分、天皇に拝謁して、大命拝辞の上奏文を落涙しながら上呈した。上奏文の一節には「更に臣が組閣の大命拝辞の結果如何に思ひを致しますに陸軍及び国家の将来は実に寒心に堪へざるものありと存じました。殊に組閣の大命が陛下の陸軍に依りて阻止せらるることは痛恨の極〈キワミ〉であります」と記されていた(文芸春秋昭二九「昭和メモ」「宇垣日記」)。
 湯浅〔倉平〕内府時代、もう少し後のことのように思うが、かつて張作霖〈チョウ・サクリン〉顧問として、張爆殺以来陸軍の行き過ぎを憂いてきた陸軍出身の町野武馬〈タケマ〉は、一日〈イチジツ〉湯浅を訪ねて、陸軍を制庄するため天皇の御言葉を賜わるよう密談におよんだ。ところが湯浅はそれは逆効果をきたす心配があるとして容れなかったが、激しく陸軍を非難し、内大臣の言として陸軍に伝えても差支えないと真剣になって語った。町野老は後に湯浅を激賞して「自分はこのとき初めて生きた英雄を見た」と語っている。宇垣流産内閣のときの宇垣・湯浅の天皇大権執奏問答に似よった話であるので、町野・湯浅問答をここに挿んでおいた。
 宇垣内閣遂に成らず、そこで今度は大命が、林(銑十郎)大将に降下した。林は満州事変勃発のとき朝鮮軍司令官として、命令をまたず満州に軍をすすめたことから、越境将軍といわれていた。二月二日、林内閣は成立した。外相は佐藤尚武〈ナオタケ〉、陸相は中村孝太郎間もなく杉山元〈ゲン〉、海相は米内光政〈ヨナイ・ミツマサ〉、蔵相は結城豊太郎〈ユウキ・トヨタロウ〉であった。二月八日政綱を発表「祭政一致」を建前とした。佐藤外相の議会演説は平和主義であるといって、問題になった。しかし、同外相は中国との国交調整および英国との外交を軌道にのせようと努力した。四月には「対支実行策」竝〈ナラビニ〉「北支指導方策」を決定し、それを実行にうつそうとして、陸・海・外の係官を派遣して、関東軍その他の出先機関と懇談をとげさせた。
 ところが政府は、重要法案や予算案が議会を通過すると、突如会期の末日に議会を解散した。林内閣は予算の喰い逃げだといわれた。内閣の議会解散は、一国一党式な全体主義政党を創立するためであったといわれているが、総選挙の結果は、依然として民政党と政友会が多数を占めた。そこで民・政両党は林内閣の総辞職を要求し、結局五月三十一日、林内閣は倒れた。

 二・二六事件は、陸軍の一部が、その武力を用いて政治に介入しようとした叛乱事件だった。叛乱は鎮圧されたではその後、軍部が政治に介入する動きは終息したのか。否である。二・二六事件のあと、軍部が政治に介入する動きは、終息するどころか、かえって強まった。そのことを端的に象徴する事件が、「宇垣内閣の流産」だった。
 栗原健『昭和史覚書』第二部の第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」は、簡潔な文章と適切な史料の引用とによって、二・二六事件によって生じた政治状況を描き出している。
 明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・3・17(9位の松任谷氏は久しぶり)

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