たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

日本を代表する江戸の子育ては、子どもを世界一大切にしていたといわれている(2)

2023年04月15日 00時11分14秒 | グリーフケア
日本を代表する江戸の子育ては、子どもを世界一大切にしていたといわれている(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ca4600d8136cda8d2d90e7c072ea1092

(乳幼児精神保健学会誌 Vol.4 2011より)

「子育ては時代とともに何故、どのように変わってきたのか(1)江戸時代のこと

3.米国の動物学者で人類学者E.S.モースがみた日本の子育て風景-

 欧米人の見聞録の代表としてモースの記録を見てみる。彼は1877年(明治10年)に日本近海の貝殻の標本採取のため来日し、直ぐに移動中の汽車の中から大森貝塚を見つけ、その後東京大学教授も勤めている。日本民族の生活・風俗に大変な関心を抱き、西欧文化の影響を受け始める直前の日本の姿を人類学者の鋭い眼力と科学者の正確さ、芸術家の創造力とを駆使して忠実に描いている。それは777枚のスケッチの挿絵をいれて「日本その日その日」という著書になっている。

 江戸の子育てについては次のように記している。「祭には、大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ。提灯や紙人形で飾った車を、子どもたちが太鼓をたたきながら引っ張って歩くと、大人もその列につき従う。それを真似て、小さな子は小さな車を引いてまわる。日本は確かに子どもの天国である。

 そして、小さな子どもを独り家に置いて行くようなことは決してない。赤ん坊は温かそうな育児籠に入れられ、目の届く場所に置かれ、大人は子どもの様子をみながら仕事をしていた。世界中に日本ほど、子どもが親切に扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない」と。

 町の中は子どもたちを囲んで地域全体で子育てする暖かみある光景が目に浮かぶ。

(Edward S. Morse・石川欣一訳『日本その日その日』(全3巻)平凡社)

4.育児書と浮世絵にみる子育て-

 江戸時代には幕府の民衆強化の政策と印刷技術の進歩によって多数の育児書や浮世絵が世にだされ、識字率の高さのために民衆の間に広く普及していった。

 浮世絵には子どもと母親が実に多く登場してくる。その母親は子どもに対してとにかく優しく、母の愛情を一心にうけた子の表情は実に明るく、生き生きとしている。西欧人が書き残した日本の家庭と地域における子どもと大人の関係がそのままである。

(くもん子ども研究所編『浮世絵に見る江戸の子どもたち』小学館)
(小林忠監修『母子絵百景』河出書房新社)

5.日本の子育ての光と影-

 江戸時代にあった三つの階層(士・農・工商)のうち全人口の8割強を占めていた農民は幕府の政策によって武士の生活を支えるためにかなり厳しい年貢がとりたてられ、現実は一番下の階層に置かれ、多数の子どもを養育するのは困難であっただろう。そのため農家では、捨て子、堕胎、間引き(親や産婆が生後まもない子どもの命を絶つ)の習俗があった。しかし子殺しは必ずしも貧困理由だけではなく、その背景に丙午(ひのえうま)を代表とするさまざまな迷信や俗説や、親の身勝手などもあった。そこには「7歳までは神のうち」という観念から預かりものを神にお返しするという考えと、「親孝行」(子どもは再生可能だが、親は唯一の存在だから)によって正当化されていたといわれている。
 
 ちなみに「7歳までは神のうち」の解釈には、7歳までに多くは感染症で7割の子どもが亡くなっていたので、親の心の痛みを和らげる意味があった。子どもは神のごときけがれない善良な素質をもって生れてくる(性善説)、大人の思うままには育てられないという戒めなども言われている。

(中江和恵『江戸の子育て』文藝春秋社)
(中江和恵『日本人の子育て再発見』フレーベル社)

6.欧米の野蛮といわれる体罰は、しつけとして日常的にムチを使う-

 キリスト教旧約聖書には「ムチといましめは知恵を与える。自分の意のままにしてよいとされる子どもは、後に母をはずかしめることになる」「主(父)はその愛する者をいましめ、またすべての子をムチ打った。父にいましめられない子がいるだろうか。すべての人の受ける懲らしめが、もしお前に対して加えられないならば、お前は私生児であって、実の子ではないのだ」と書かれていて、西欧ではキリスト教の普及とともに幼児期からしつけのためムチによる体罰がほぼ各家庭に広がっていった。

 日本では安土桃山時代にフランスの思想家モンテニューの書「随想録」によると、「学校はさながら子どもたちを入れる牢獄か監獄のような所で、いたずらも何もしていないのにムチで子どもを叩き、授業中に聞こえてくるのは子どもたちの悲鳴と先生の怒鳴り声だけだった。教師はムチを手にして生徒たちに向う。当時のヨーロッパでは学校に行くことはムチに打たれにいくようなものだった」と記されている。

7.「三つ子の魂、百まで」のことわざは江戸時代から-

 江戸では、乳幼児を大切に育てることが肝要で、日本の教育学の祖「貝原益軒」は「和俗童子訓」の中で「子どもが善人になるか、悪人になるかの分かれ目は幼時にあり、幼児のほんの少しの動作も受け止めて、善に導くことが大切だ」と説き、親の溺愛は批判した。

 その後も江戸の教育論者たちは「三つ子の魂、百まで」「氏より育ち」などのことわざを引用しながら、盛んに幼時の子育ての大切さを説いている。

当時の年齢は数え年(誕生時1歳とするのは日本人は胎児から独立した人格で子どもを大切な存在と考えていたことになる)で呼ばれていたので、満年齢でいえば、三つ子、すなわち3歳は今の2歳に相当する。

 江戸時代の心学者の多くは溺愛は批判したが厳しすぎるのもよくない、教えることの大切さを強調していたので、当時の親たちは身心ともに子どもに捧げ、溺愛していたが、溺愛で子どもを潰してしまうことは防がれていたと思われる。

(中江克己『江戸の躾と子育て』祥伝社)
(貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』岩波書店)


8.江戸時代の地域共同体の子育て-

 生後100日までに「宮参り(氏神にお参りして赤子を氏子にしてもらう儀式)」し、これを機会に村の一員になる。その後、次々と通過儀礼をおこない、7歳までは祝いながら大切に育てる。7歳の祝いを済ますと地域の集団「子供組」に加入。「子供組」は遊び仲間であったり、色々な年中行事の特定の役割をはたしたり、最年長児の指揮で厳しい上下関係や掟を指導教育される。

 15歳になると、保証人に付き添われて集会場へ、掟を聞かされて正式に「若者組」へ加入。地域の祭礼、消防警備災害救助、性教育婚礼関係などに深く関わり、大人へと成長していく。組織の内部事情は口外禁止で、大人の口だしもない。

 現在と比較するとずいぶんと早く自立に向っていく筋書きができていた。

 (上笙一郎『日本子育て物語;育児の社会史』筑摩書房)

9.江戸時代の子育てネットワーク-

 江戸には独特の子育てネットワークができていた。当時の平均寿命は、30歳に満たず、7歳未満で多くの子どもが亡くなっていた。したがって、成人するまでに何度も生命の危機にさらされていた(多くは感染症、とくに麻疹、天然痘で死亡)。そこで節目ごとの通過儀礼が大切にされ、子どもの成長を家族・親類・地域の人達で喜び合って、子育てネットワークを深めていった。そのかなめが仮親であった。

「仮親」関係は誕生前から始まり生涯続く。通過儀礼には家族・親類・地域の人で供飲共食し、血縁・地縁の絆を深め、子どもの健やかな成長を祈った。妊娠5カ月に産婆が岩田帯を締め「帯親」に、出産すると赤子を取り上げた「取り上げ親」、出産直後に赤子を抱く「抱き親」、生後3日から7日目までに名付けをした人が「名付け親」、4から5歳まで子守を雇うと「守親」などがあった。結局一人の子どもに沢山の「親」が関わる組織ができていた。

(小泉吉永『江戸の子育て読本』小学館)」

                                      ⇒続く






 

 



 






日本を代表する江戸の子育ては、子どもを世界一大切にしていたといわれている(1)

2023年04月12日 01時04分41秒 | グリーフケア
(乳幼児精神保健学会誌 Vol.4 2011より)

「子育ては時代とともに何故、どのように変わってきたのか(1)江戸時代のこと


1.江戸時代の社会の様子

 徳川将軍家によって日本が統治されていた時代が江戸時代で、1603年から1868年までの265年間を指し、それまで長く続いた混乱社会を終らせ、戦争のない安定期が続いた時代である。

 外国との交流は長崎出島での中国・オランダと、津島藩を介する朝鮮とのみで、その他の国との交流を禁止する鎖国政策をとった。しがたって、島国で鎖国をしたことで異民族の侵略を受けず、国内では宗教が神仏共存したために大きな争いはなく世界に類をみない平和が長く続いた。

 社会構造は、城下町の他は基本的には農村であった。文化は西欧大陸からの影響をほとんど受けず、四季の変化に富んだ自然豊かな気候・風土とゆっくりと流れる時間の中で穏やかな農民町人民族文化を発展熟成させてきた。多様な学問が開花し、世界に誇る数々の文化・芸術・風俗が生まれていった。

 ちなみに米国が独立したのは1776年で、江戸時代になってからおよそ170年目にあたる。明治の始まりから差し引くと100年に満たない新しい国である。従って、本文での文化比較は明治が近くなるに従って西欧から欧米に変わっていく。


2.欧米人がみた日本の子育て-

 16世紀頃から来日した宣教師や、幕末から明治初期に来日した多くの欧米人が江戸から地方の子育てについてほぼ同じようなことを書き残している。欧米人からみえた日本の子育ては、子どもが優しく親切に扱われ、自由とわがままが許されており、「しつけ」の罰はわれわれの国欧米のようおな野蛮な体罰はなく言葉で戒め穏やかであると絶賛している。

 その見聞録を残した人だけでも、年代順に、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・フロイス(1585年)、フランスのイエズス会宣教師ジャン・クラッセ(1689年)、スェーデンの植物学者カール・ペーテル・ツンベルグ(1775年)、長崎オランダ商館員フィッセル(1833年)、イギリス初代駐日公使オールコック(1860年頃の幕末)、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(1880年)、イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(1890年)、イギリス人G・ピーター(1895年)など実に多く、立場も多様である。」

                                        ⇒続く


赤ちゃんに乾杯!~命をはぐくむ地域づくり~より

2023年03月26日 12時20分23秒 | グリーフケア
(FOUR WINDS乳幼児精神保健学会誌Vol;23 2010より)

「生きるという事は、実は世の中で言われている綺麗事やあるべき姿ではないと思います。

 例えば、日本人の私達が一番考えなければいけない問題は『我慢』という事でしょう。「欲しがりません勝つまでは!」「贅沢!」と言った戦時中、戦後の時代に、私は反対したい。私は一人の人間として、その時代の風潮に反発して「贅沢と言うなら一番大事な命をどうして平気で戦争に使い捨てたのか」と言いたいのです。人々が一番欲しいのは、自分の命を自分らしく温かく、良いものとして抱える事なのに、なぜ我慢が足りないと言ったのでしょうか。我慢が足りないと言ったのは自分達が生き延びるためでしたが、時代的な勢いの中で命を粗末にしたと思います。命を無駄使いするなという事です。我慢という偽名で使い捨てにされた事に対して、心はお互いのバリアを越えて伝え合って人間は生き延びたと、去年本当に実感しました。」

 「私達の命は、全て針穴のような受精卵から始まります。この受精卵はどんどん分化して沢山増えていくとやがて細長い紐になっていきます。そして、下が胎盤にしっかり根付いて、上がくるくるっとまわると脳みそになる仕組みです。皆同じ、小さな受精卵から始まって、特に神経の塊である脳は10カ月の間に33㎝位のおおきなみかん、伊予柑ぐらいの大きさになって生まれてきます。人生の一番最初に急激な脳の発達が起きて、その中で命は24時間しっかりと羊水に包まれていきています。どのような動きをしても「何よ、蹴飛ばすんじゃないわよ」と、決して叱られる事がありません。この胎児の脳は、髄液という水があって頭蓋骨があり、そして更に羊水があって子宮壁があります。そういう念入りに守れた中で、人間の命が世の中に出ていきます。私達はその命の営みを受け止めて、かけがえのない命として一生懸命に頑張って育てるのが育児だと思います。ですから幼い子どもから目を離してはいけないのです。羊水は、水滴一滴一滴がシームレスの一つの物になって、24事案、目を離さずに胎児を守るのです。ですから胎生期の5カ月にバーンと蹴飛ばすこと自体が、健やかに発達しているという証です。ところが今の世の中はどうでしょう?1歳の子どもがワッと2階で騒ぐだけでドンドンと下から棒で叩くお年寄りがいます。そういうお年寄りにはなりたくないと思うけれど、責めている私も「静かにしたい」という事があるかも知れません。結局若者達が自由に活動出来る場が一体どれ位あるのでしょうか。

 人間は人生の中で3回、大きな爆発的な脳の発達をしまう。1回目が胎児期、2回目が乳幼児期、3回目が思春期です。そういう意味では生まれ落ちてから大体単純化して、赤ちゃんの時は2歳プラス・マイナス2歳、つまり0~4歳は大事な時期です。それから思春期は、12歳が日本の女の子が初潮を迎える時期ですから、12歳プラス・マイナス2歳です。これらは命として、子ども達が何重にも守られなければなりません。お母さん、お父さん、家族が、地域社会がそれを出来るような枠組みを、社会として作っていかなければいけないという課題がありまっす。それが置き去りにされて、日本の経済が高度成長を遂げてきたという事実があるわけです。」


「お母さんの産後うつ病が多いと言うけれど、お父さん達も疲れ果てている。そして実はその前の段階で、やはり私達は戦時中、戦後の貧しく、それから列強に脅かされた日本で『欲しがりません勝つまでは』という相当な我慢を強いられました。この我慢の意味をもう一度問い直してみる必要があります。私は、我慢は時と場合によってはとても大事だと思います。自分自身が何かをしたいなら他の事を我慢するのは、それは当たり前で全然苦にならないし、楽しいです。子ども達の笑顔が見られる日本になるなら、私達大人が本当の大人にならなければいけないのです。」

「心はパラドックスです。つまり、見えないものが豊かな人は、見えるところが一番地味です。素晴らしいものは警戒しましょう。地味な物の中に本当は宝があるのです。”見てくれが良い物が本当か?”という事えす。私の説によると、かぐや姫は幸せではありません。裏の竹藪で、お金がざくざく出てくる世界は、私は大嫌いですから信じません。結局かぐや姫は自殺をするわけです。そして月に帰った事にするのは、村人の知恵でしょう。英語で月はMoon、「月のように」が狂気ですけれども、かぐや姫の話と何か似通っていませんか?結局私はここが勝負だと思います。「お世話になりました」と言ってシラッと振り向いて帰って行くような、この冷たさ、こういう若い世代を作ってはいけないと思います。「もうお前はいないのか、命として出会えないのか?」と言うお婆ちゃんは、何か世間体を大事にし過ぎだと思います。

 なぜ昔話かと言うと、何回も人の血や肉を通じて語り継がれたものがあります。私達は昔話は作らないけれど、個人の自分の物語はわが子には伝えていかなければいけないと思います。

 次に鶴の恩返しです。私は、この鶴の恩返しは、今の日本の特に若い女性の事を言っていると思います。敦賀人間に矢を刺された。その鶴は、人間を最も憎んで、人間と敵対して戦争でもしなければいけないのに、人間の嫁さんになろうとします。アメリカと戦った私達は、「アメリカのああいう戦略主義はいけないよ」「アジアの文化になぜ土足で踏み込んだ!」と言わなければいけないのに、あっという間にアメリカナイズでしょう。けれど、それはおつうが痛い時に、「可哀想だなー」と思って矢を抜いてくれた、その与ひょうの表情に参ってしまったのです。その瞬間の優しさというものを、全ての人間は求めています。ですから、それがもし鶴であれば鶴に恋しただろうし、熊であれば熊に恋したでしょう。与ひょうが人間であったために、おつうは人間に恋をしてしまいました。けれど与ひょうは押し掛け女房はいらなかった、邪魔だったのです。皆主観的な世界に生きていて、お互いにせめぎ合っています。よくよく与ひょうが浮かぬ顔をしていたから、おつうはしようがないから機を織ったのではないでしょうか?つまり、なけなしの自分をはたいて「私はあななたのお役に立ちます」と言ったけれど、与ひょうは全然価値の分からない人でした。この反物が市場でどんどん売られていくと、与ひょうの目はお金に眩んで「お前もっと織れ!もっと織れ!」と、やったのは与ひょうが悪いのか、おつうがいけないのでしょうか?つまり私達の男女関係の中には、「『相手が悪い』と言っているけれど、相手を誘発したのは私ではないか」おいう問題があるのではないでしょうか。結局ここです。このおつうの「私の姿を見ないでください」と言う言葉はまさに裏腹、「私が反物を織っているところを見てください」と言う事だったのです。何を見て欲しかったのでしょう?おつうは醜い姿になった経緯を見て欲しかったのです。お母さんは、虐待の母になりたくない、ヒステリーの母になりたくない。その経緯を見て欲しかったのです。ところが与ひょうは、おつうの姿を見てぎょっとしました。そのギョッとするかどうかが賭けでした。おつうは「約束を破るあなたとは生きていけません」と空に飛んで行ってしまいましたなんて、嘘ですよ!自分の羽根を全部もぎ取って、空に飛んでいけるわけないのですよ。ですから、おつうは自分の真心を相手に届いているかいないかというプロセスを経ないで、一人よがりの人生展開をしたために、大失敗をしたのです。おつうは与ひょうに矢を抜いて貰ったら、鶴の世界に帰って本来の鶴として幸せを喜んで、鶴として沢山恋をして、日本中を鶴の世界にしてくれたら、それが本当の恩返しだったのです。」

悲嘆からの再生-闇の中から生き延びる力を-

2015年06月12日 19時47分23秒 | グリーフケア
2015年2月7日の柳田国男先生の講演会のメモ書きをようやくワードに起こしてみました。

言葉が足りなかったり、聞き間違いなどもあるかもしれませんがそのまま載せます。
よろしかったら読んでください。

昨日・今日の、弱者の声が上に届いていかないニュースに全く希望を持つことができずに、
自分のしてきたことは結局無駄だったのか、何の力にもならなかったのかなど、
ひとりで思い悩んいます。
どうやって社会に戻っていけばいいのか、こんなもんだといい意味であきらめれば
希望の灯もみえてくるものなのか。でも私が知ったことは確かに社会の中で現実に起っていることで知らん顔はできない。かといって一個人が正義感をもったところで、社会を変えられるわけでもない。いつまでもそこに私自身がとらわれていれば先に進むことはできない。
かといって知らなかったことにはできない。かといってずっとそればっかりでも、
自分の生活を立て直すことはできない。
現実にはもっとひどいことがいっぱいあって、私の経験はそのカテゴリーの中では
まだマシなほうだったのかもしれません。
話が大きすぎてどこまでこだわっていくのか、わからなくなっています。
それでも妹の分まで生きるという思いを大切にしながら精一杯生きていくのが
私の役割なのかな。わかりません・・・。


************************

2015年2月7日柳田邦男先生講演会の記録
「悲嘆からの再生-闇の中から生き延びる力を-」

グリーフ・ケアのプロセスは、亡くなり方によって大きく違ってくる。
人の話をきいて、「できたらいいな」と思うことが大切。

1.①兄夫婦から学んだこと(一番上の12歳年上の兄)
南方に送られて終戦となり、22歳で帰還。肺結核。
大手術をしたが50才ぐらいまで生きられればいいと言われた。
二番目の兄と父は相次いで肺結核で亡くなる。
古書店を営みながら、地元の郷土史研究をやりたかった。
七才年下のナースと結婚。徹夜で仕事。C型肝炎を65歳で発症。
75歳で肝硬炎。80歳で肺がん。50才を過ぎたらあとはお駄賃だと腹のすわったところがあった。ユーモアを忘れなかった。

②義姉の喪失からの再生
・お世話になった人に直筆で令状を書いてほしいという夫からの遺言を実行した。80人ぐらいの人に令状を書いたことが、夫の足跡をたどることになった。グリーフ・ケア。
・自分が亡くなったあと、この世で起ったことをしっかりみて、あの世に来た時つぶさに話してほしいという夫からの遺言を実行している。鳥取のホスピスの徳永先生に会いに行く。周辺とのつながりを途絶えさせないように動いている。

③私の学び
兄は戦争で亡くなった人のことを思えば、自分は生かされているという感謝を忘れなかった。郷土史研究への使命感。
母の運命の受け入れ方が影響を与えている。

信仰を持つ人からの学び。キリスト教、仏教それぞれに-。
①原崎百子さん
『わが涙よ、わが歌となれ』35年ぶりの再刊。
牧師の奥さん。肺がんで亡くなったあと、夫が日記を本にした。
キリスト教徒だからといって、病気を受け入れられるものではない。
告知を夫からきいた後で、人生をこれから本番だと受け入れた。
在宅で自分の生を全うしようとしていた。

「たとえ明日地球が終りであっても私はリンゴの樹を植える」
この言葉を忘れなかった。支えとなった。
口述筆記で最後は夫が日記を書いた。

②東京・江戸川区の唐泉寺
ガンで亡くなった住職の奥さん:高田正圜(タカダショウエン)さん
自分もガンになった時、夫のガンとの向き合い方をみてきたことが支えとなった。「死はいきることへの通過点」

宗教をもたない人
①ハンセン病患者の俳句人生
村越化石さんが歩んだ道-『篭枕(かごまくら)』
(一昨年90歳で亡くなった)
隔離されて生きた人生。静岡県で生まれ、草津温泉の療養所で生涯を送る。
18歳で故郷を離れ、帰ることはできなかった。故郷で石碑が立てられることになり、除幕式に出席。(80歳を過ぎて)

②村越さんの人生から学んだこと。
自分の内面を表現することは、心を支える大切な行為。自己肯定感につながる。・

傾聴の力
人は物語を生きている。全体がみえてくると。

徳永進『ホスピス通りの四季』
自分の人生の物語を振り返るのを静かにただきいている。

「あとどれぐらいですか?」自然に出てくる。
「梅の花か、桜の花が咲く頃でしょうか」

自分の人生を振り返ることで運命を受け入れることができていく。

子どもの感性に学ぶ。
荒川区 絵本を読んだ感想を先生に送ってもらう。七年間で4,000通。

①12歳の女の子。おばあちゃんが亡くなった後、『わすれられないおくりもの』(イギリス、バーレイ)という絵本を読み返した。
私を本好きにしてくれたこと。将来の夢をもたせてくれたこと。おばあちゃんから二つの贈り物があることに気づいた。
絵本を介して、おばあちゃんからの贈り物を考えた。子供は前向きに生きる力を持っている。

②弟の死と小6少女(みゆちゃん)の気づき。
5歳の弟が難病で亡くなる。
『だいじょうぶだよ、ゾウさん』(柳田先生訳)
ねずみの気持ちに自分を重ねる。
自分の心の中に弟は生きている。

絵本は語りかけてくれる。
心の中を整理してくれる。

それでも人生にイエスと言う。
フランクル『夜と霧』
「人生が何を我々から期待しているのかが問題である。
「我々が人生の意味を問うのではなく、我々が問われている。」
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに期待することをやめない」

「根こそぎ喪失体験」からの再生を支えるもの。
福島・飯館村、小林麻里さんの人生。
①失われた青春 20代をうつで過ごした。
②30代で結婚。福島に移住。人生をやり直そうとした。結婚して二年半で夫がガンで亡くなる。
③立ち直ろうとした矢先に原発事故。
「あーあ、私の魂はこういう経験をしたかったんだ」と気づいた。

精神性のいのちは最後まで生き続け、残された人の中で生き続ける。
残された人の人生を膨らませ続ける。

死後生を考えた時、今という生き方を問われている。
「肉体は亡くなっても人の生きた証は、残された人の中で生き続ける」



「子どもたちの悲しみに寄り添う」

2014年11月27日 10時38分03秒 | グリーフケア
また長くなりますがよろしかったら読んでください。

2014年11月9日(日)
講演会『子どもたちの悲しみに寄り添う
~ダギー・センターモデルから学ぶ遺族支援~』
講師:ドナ・シャーマン、通訳:岩本喜久子

ダギー・センターとは?
「いのちってなに? 死ってなに?」
不治の病の床にあった9歳の少年ダギー・ターノの問いかけに応えてエリザベス・キューブラー・ロスは『ダギーへの手紙(アグネスチャン訳、佼成出版社)』を書きました。そのやりとりに接して深く心を動かされた看護師のべバリー・チャッペルによってダギー・センターは、1982年オレゴン州ポートランドに設立されました。
ダギー・センターは、大切な人を亡くした子どもたちとその家族が、それぞれのペースで悲しみに向き合い、癒されるように、ピアサポート・モデルを開発し、現在米国内だけでなく世界各地で500以上の機関がこのプログラムに基づいた活動をしています。
ドナ・シャーマンさんは、1983年からダギー・センターの活動に加わり、1991年よりCEOとしてセンター全体の運営に関わる一方で世界各地で精力的に研修を行っています。(チラシより引用しました。)

最初に主催者より挨拶有。
2011年3月にダギー・センターに行ったことがきっかけで、今回が4回目の研修。
事故死・自死・・・子供との関わりが抜け落ちていた。
子どもに選んでほしい。子どもたちが、「おじさん、また来るよね」ということはないが、一緒に遊んでくれた大学生に「お兄ちゃん、また来るよね」という。(今日も男子学生が数名きているが)、この「お兄ちゃん、また来るよね」が大切。

ここから、通訳を方の話を通して私が記録をとった範囲で、ドナ・シャーマンさんのお話をまとめてみました。足りなかったり、理解がちょっと違っていたりする点があることをご了承ください。


親の死は子どもに大きな影響を与える。
まちがったことをしてしまうと、その子のその後の人生に大きな影響を与える。レジリエンスを子どもはもっていると言われているが、全ての子どもに同じような回復力があるとは限らない。
子どものリスクの要因を正しく理解しておくことは大切。

子どもの死別の体験の研究は、確実に増えてきている。
これまでわかっている七つの要素をあげてみる。必ずしもこうではないが、死別体験をしていない子どもよりも、死別体験をした子どものリスクは、3倍から10倍の割合で高い。

①うつの症状が高い。

②身体的な問題が起こる。病気になりやすい。免疫力がグリーフは影響すると言われている。免疫力が下がって、風邪をひきやすくなったり、注意力散漫でケガをしやすくなったりする。
こんな女の子がいた。ジャングルジムから落ちてしまったと言って、足にギブスをしてダギー・センターに来たその女の子は、それまで少しも楽しそうじゃなかったのに、その日はとても楽しそうだった。それから数か月後に、その女の子とドナさんとの会話で、最初にジャングルジムから落ちたと言ったのはウソだったとわかった。実は女の子は自分でジャングルジムから落ちた。お父さんが亡くなってから、回りが自分に優しくしてくれなくなったのでケガをすれば優しくしてくれると思って、女の子は自分からケガをした。

③学校の成績が落ちる。(日本とアメリカでは仕組みが違うかもしれないが)同じ学年をもう一回繰り返さなけければならなくなる。

④不安感が強くなる。大人も体験しているが、一度交通事故・地震で怖い体験をすれば不安になるのは当然のこと。

⑤自信がなくなる。

⑥自己コントロール力の低下。自分ではどうしようもなくなるという気持ちが強くなってしまう。
⑦将来に対する希望が持ちづらくなる。自死を考えることもあることが、過去の研究から理解できる。他者との関係が持ちづらくなる。薬・アルコールへの依存が現われる。こうした子どもたちをサポートしなければリスクは高くなる。

死別だけではなく、離婚・親が刑務所に入る、といった喪失も社会にはある。喪失体験を隠そうとしてしまうグリーフ。自分を守るためだが、いい結果をもたらさない。
子どもと向き合う努力が大切。そういう仕事は大変でしょ、とよく言われるが、ダギー・センターに来た親や子どもから毎日学んでいる。

ドナさんは、1979年大学卒業後、NGOに所属し、カンボジアの難民キャンプに配属された。難民キャンプで生まれて生活している子どももいた。難民の体験を集めるのはドナさんの仕事で、同じ年齢の通訳と一緒にカンボジア人から話を聴いて集めた。その後、ベトナムの難民キャンプに移動し、同じように体験を集める仕事をした。

ダギー・センターでは、辛い体験をした人々が、自分の体験を語る。語ることによって何らかの意味を見い出す。そのお手伝いをするのが私の仕事。
死別を体験した人に、「早く忘れなさい、前に進みなさい」と社会は言うがそうではない。共に生きる。乗り越えるのではなく・・・。先ず、話を聴くことが大切。
レジリエンス=再生する力・人間の回復力。
研究結果では、その体験の意味を見い出せたとき、なぜ自分がそういう体験をしたかを見い出せたとき、人は回復していく。回復していく力を見い出せたとき、人は回復していく。

子どもたちにも、自分の力を見い出せるよう導いていくことが大切。
グリーフ・サポートをしている専門家の側が、サービスを提供しているという姿勢が多くみられる。そうではなく、私たちが死別体験をした人たちから学ぶべき。
PTG(トラウマのあとの成長的体験)。成長には痛みが伴う、という研究結果がある。

ドナさんが初めて来日したのは阪神淡路大震災の後。あしなが育英会から、ダギー・センターのような場所をつくりたいと招かれたのは最初。(神戸にはあしなが育英会によって、レインボーハウスが設立されました。)
大切な人が亡くなれば、みんなが集まるのはどこの国も同じ。

サービスの壁となることの例として、例えばオクラホマ州で爆弾によってたくさんの人々が亡くなった時、多くの団体が押し寄せるが必ずしも有益な団体とは限らない。自分たちのサービスを知られたい、募金を集めたいという団体もある。

カンボジアの難民キャンプ時代、ある団体が寄付金集めのためとして撮影に来たことがあった。NG0は国連からお金が出ているので、本来関係ないはずだが・・・。NGO同士で競争があるのは事実。あるNGOが難民キャンプのごみ箱に団体の名前を載せて自分たちの宣伝に利用するという場面があった。災害の後、寄付金を集めた団体の運営者が現場に行った後、五つ星ホテルに泊まるのはよくあること。

9.11の後、専門家が押し寄せ過ぎたので帰したということがあった。
専門家と言われる人たちが、”死”に関するクラスをとっていないのが現実。ドクターたちは、実践の中で模索しながらやっている。
死について話さない。そういう環境の中に私たちはいる。
学んでいない専門家が悪いわけではない。
遺族たちは、模索しながらやっているドクターから、こうした方がいいよ、とアドバイスされているのが現実。専門家がやってはいけないことで辞書が一冊作れるぐらい、まちがって行われていることが現実には多い。「亡くなった人の写真を片付けなさい」「亡くなった人に関わる物を片付けなさい」など。

3.11の後、長期的展望のないことが多い。たくさんの寄付金を集めた団体がいつの間にかプログラムを終了しているということがあった。一年後にはメモリアルがあった、二年後・三年後の節目にもあったが、長期的にはなかなか行われない。

コネチカット州の学校襲撃事件の後、遺族に対する嫌がらせがあったことも事実。善意で集められたテディ・ベアが送られてくる一方で、首の切られたテディ・ベアの入った箱が送られてくるなど、ということがあった。全ての人に良心があるわけではないのが現実。

子どもたちにとって、死別そのものだけではない。学校生活に影響が出るなど、色んなことにつながってくる。

今アメリカではグリーフを疾患とする流れが大きくなっているが、それはいいことではない。
DSMⅤ(アメリカ精神医学会の診断基準、第5版)が出るまで、グリーフをどう扱うか議論されてきた。DSMⅤに載せられている診断基準は、私たちには当たり前の反応として理解できるもの。
診断基準があると、抗うつ薬が処方されてしまう、ということが起こる。
WHOによれば、40秒に1人がうつによる自死で亡くなっていると報告されている。2020年には20秒に1人と言われている。
抗うつ薬が増え、うつが増えると自死は増えていく。
薬を批判しているわけではない。何か正しくやっていないことがあるのではないか。

アリゾナ州の大学の研究で、12週間グリーフを体験した子どもたちの行うプログラムを追う、という研究を6年間にわたって行った。その研究で、参加者たちは自分たちの話したいことを話せなかったという報告がある。プログラムに12週間という制限をもうけるのは問題ではないか。
誰かがわかってくれていると感じている子どもたちはポジティブ反応。誰かがわかってくれていないと感じている子どもたちはネガティヴ反応があった。①誰かがわかってくれていると子どもたちが感じること。②自分の体験を話せると子どもたちが感じること。この二つが子どもたちへのサービスの基本。

2009年にダギー・センターの建物が放火された。今も犯人は捕まっていない。家族を失った人たちと同じ体験をドナさんはした。決してこういう悲劇的なことがあってよかったということではない。前向きな気持ちになる時、否定的な気持ちも同時にあることを忘れてはならない。

これまで講義をしたり、賞をいただいたりしてきたが、出会う家族・子どもたちが先生であり、私は生徒であることをあらためて思う。話を聴かせていただく、ありがたい体験をさせてもらっているという気持ち。喜びには悲しみが伴う。












日本文化に出会って受けたもの・手ばなしたもの

2014年11月12日 22時35分56秒 | グリーフケア
11月6日のグリーフ・ケアの講座の内容を整理してみました。

来日して30年、普段は英語で授業をしているフランス人の先生が日本語で講義をされました。使われる日本語が私たちには不慣れで難しくて聴き取るのが疲れてしまいました。
内容もちょっと難しかったですが、こういう見方もあるという意味で面白い内容だったと思います。その全てを正確に記録することはできておらず。私が理解できたことにとどまります。また長くなりますが、よろしかったら読んでください。

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通訳には限界がある、絵の方がわかりやすいということで絵や写真を載せた簡単な資料を準備された。

日本におけるグリーフ・ケアには二通りある。
ひとつ目は喪失体験をした人に、あなたは今非人間的だからグリーフ・ケアが必要ですよ、と言って分ける。病院に入れば番号が付けられる。差別される。あなたは病気ですよ、あなたにはグリーフ・ケアが必要ですよ、という。
二つ目は、英雄扱い・犠牲者扱いする。

どうして今日本でグリーフ・ケアを受け入れるのか、横文字のまま一つの流行のようになっているのか。
ビジネスになるからではないか。例えばこうして大学でグリーフ・ケアとして講座を開けば人がたくさん集まる。(他の題目で開けば人はそれほど集まらないだろう。) いい悪いではなく、一つの見方としてそういう観点から自分はグリーフ・ケアを見ている。

日本は明治時代、早い段階でヨーロッパの啓蒙思想を受け入れた。
啓蒙思想は、弱い人々を踏みながら力をつけるのが特徴。啓蒙思想の価値観を持っている日本がどうしてグリーフ・ケアを受け入れるのか。弱い人々を踏みながら、裕福な人々は生きている。グリーフ・ケアがビジネスとして成り立つ。

日本をブランド化したのは旧国鉄がJRになった時。今も政府は日本のブランド化のために莫大なお金を使っている。そのために本当に大事なことが見えにくくなる。弱い人々が置き去りにされている。
資本主義を支えるためには、弱い者を踏みつけていくグリーフ・ケアが必要。
啓蒙思想に沿えば、完全なグリーフ・ケアの形があって、それを実行していくのがグリーフ・ケア。
島国に住んでいる人を本当に助けようとすれば、大変なこと。
「インターナショナル」と「国際」は少し違う。
日本は本当の意味で国際的になっていない。閉鎖的。どこかで深く根づいていない。一日も早くグローバル化を考える方がいい。
啓蒙思想は自分中心の妄想をつくらせる。現代主義の人間は、その妄想の中で生きている。
創造と妄想とは違う。お金があればよくなる-は資本主義の妄想。
どこまで日常生活で妄想を膨らませるか、想像するか。
都民の税金を使って進めた大学のグローバル化構想は、目指したところに少しもたどりつけなかったと思う。全てが妄想だった。
妄想だから全てOK。誰も責任を持たない。

グリーフ・ケア‐グリーフは悲嘆、ケアをどうやって訳すか。情(なさけ)。どういうふうに人間関係をつくるか。相手がフランス人だからいい、中国人だからいやだ、から抜け出さなければならない。本当のグローバル化はあり得ない。

芸術家は悲嘆のかたまり。だからとてもいい表現をしている。

弱い人々を踏みながら豊かな人々の生活をつくっているのが今の中国。張洹「ZHANG HUAN」はそれに対して、体全部を使って怒りを表現している。資本主義社会を批判。中国の今の資本主義は弱い人にとってきつい。展覧会の場で作品を創って終わったら壊す人。貧富の差が激しい上海に行って、貧しい人たちの住む所で全身にはちみつを塗って座り続けた。いろんな虫が寄ってきて体はぼろぼろになる。それが彼の怒りの表現だった。芸術家はそれほどのことをする。
杜維明(といめい Tu Wei-ming) も批判している。今の中国では自然は全滅する。彼の考え方は大事。今の日本も似ている。残っているのは資本主義モデルしかない。
坂口恭平は、3.11の津波と原発事故の時、政府のやり方に強い怒りを感じた人。
中西進の『日本人の忘れもの』は現代社会を批判的にみるために役に立つ。「強いモノは必ずこわされる」例えば原発。「弱い」の反対は「強い」ではない。

グリーフ・ケアを本当にやるなら、私たちの価値・社会を批判的にみる必要がある。
”情(なさけ)“を考え直さなければならない。そうすれば日本のいいものが生まれてくる。
今の日本で、自殺者、過労死の数は少なくない。そこをきちんと見なければ、グリーフ・ケアはただのビジネスに終ってしまう。

人間の脳の働きは理性的ではない。不思議なもの。まだフランスにいた頃、二十歳ぐらいの時、病院で出会った、バイクの事故で足を失った若者が読んでいたのはバイク雑誌だった。

グリーフそのものは文化がつくっている。カタカナを利用して、何かを訴えようとしている。現代社会のいい意味での批判的な概念になれば素晴らしい。今のままの日本では将来がない。”情(なさけ)“が育てば将来が生まれてくる。

耳の脳はとても大切にしている。(ここは先生の日本語を聴き取ることができず、内容を理解できていません。)
カナ-日本人は一つの小さなことばを大切にしている。
日本の歴史の中でグリーフ・ケアは現われてこない。
先生は縁があって30年前の来日直後、高野山で2月15日に行われる常楽会という儀式に参加した。尼さんの達の末席に坐った。
日本のお葬式の形は、お釈迦様が亡くなった時の儀式から生まれている。涅槃。お釈迦様は亡くなる時「私の伝えた音だけ守りなさい」と言われた。

万葉集11巻、2453 柿本人麻呂歌集
「春楊(はるやなぎ)
 葛城山(かつらぎやま)に
 たつ雲の
 立ちても坐(ゐ)ても
 妹(いも)をしそ思うふ」

万葉集の中に、素晴らしい「グリーフ」が現われている。
妹や幼い子供が亡くなった時、当時の人は詩を詠んだ。
亡くなった人は雲の形になって生きている。今も奈良に行くと美しい雲をみることができる。今生きている人と亡くなった人は、雲の形をとっている。雲全体の風景は生命のリズム。
”情(なさけ)“と耳が育つために、万葉集はとても大事。

グリーフ・ケアの目的は人を強くすることではない。
グリーフを経験している人は弱い人ではない。考えられない、いい表現をする。生命力は素晴らしい。ストレッサーはある程度必要である。3.11のような刺激を受けた時、強いものが生まれてくる。いい反応が生まれてくる。

弱い者は資本主義が喜ぶ人材。
グリーフ・ケアは、その弱い者が、弱い者を踏みながら強い者が生きてゆく資本主義社会を批判する力になり得る。グリーフは予防できる。

antifragile(中西進の造語)→弱いの反対は強いではない。

最後に高木先生がまとめ直してくださったこと。
ブランド化された資本主義社会の日本を批判する力にグリーフ・ケアがなり得る。”情(なさけ)”がグローバル化されて、違う宗教・文化・民族と出会うことによって深められて行く。弱い者はすごいエネルギーを持っている。そのエネルギーを引き出すのが、グリーフ・ケア。グリーフ・ケアは、“情(なさけ)”を育てる。

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私自身、聴き取ることができず十分に理解できていないところもありますが、以上のように整理してみました。

大震災の喪失体験を通して考える「悲嘆」(2)

2014年11月06日 16時06分43秒 | グリーフケア

記録が不完全で、お話されたそのままでなく、言葉が違っていたり足りなかったりする点がありますことご了承の上、長いですがよろしければ読んでください。

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地震から三日後に当時教えていた神戸大学のゼミ生三人が慰問に来てくれた。
ロバートさん(3.11の後アメリカのトモダチ作戦のリーダーとなった人)、むらいりょうたさん、女性のきたおさん。きたおさんがゼミ生全員の安否確認をしていて三十数名の無事が確認できていたが、後二人はわからないとのことだった。残念ながらその後二人は亡くなっていることがわかった。一人は堺市に実家のあるもり君は大学の授業が始まるまでまだ日にちがあるのでもう少しとどまるよう家族に引き止められていたが、オヤジ(先生のこと)を打ち負かすような卒業論文を書きたいと言って神戸に早めに戻ったところを地震に遭遇した。彼には婚約者がいて、婚約者にも先生のゼミのことをたびたび話していたことを知った。
先生のゼミは何時間もかかる長丁場。一冊本を読んできてそこから何を学んだかを各自3つずつ話してもらい、それに対して先生がコメントしていくという形式なので、熱心な学生しか来ない。大学院生も評判をきいて入ってくる。もり君も非常に熱心なゼミ生の一人で、議論が白熱することもしばしばだった。彼はカトリックで葬儀の時に弔辞を読んだが、優秀な若者の未来を奪ったことを恨みに思うことを読んだ。

生き残ったゼミ生は弔い合戦のようにその後ボランティア活動を行ったが年度末で区切りをつけて、新年度になってからは勉強をがんばった。

先生の家は三井のプレハブツーバイフォーム。ツーバイフォームは地震に強いことが阪神淡路大震災でわかった。たまたま地震の7-8年前にこの家を購入した。展示会に行って奥様がとても気に入ったので、一番長く家にいる彼女が気に入ったならと購入した。地震で家は24センチ動いて傾いて止まった。家はつぶれなかったが全壊認定を受けた。
最初は家に籠城するつもりだったが、この家が一番危ないですよと人に言われ、娘たちが通る道沿いの家もいつ崩れおちてきてもおかしくない状態だった。その時知り合いの広島の女性が、強引にこちらに来なさいというのではなく、まだ一度も遊びに来てもらったことないですよね、と優しく誘ってくれたので、娘二人と奥様を預かってもらうことにして、鉄道は遮断されていたので、飛行機の切符を取って三人を行かせた。様子を見に行った時、下の娘はランドセルを用意して小学校に行かせてもらっていることを知った。とてもよくしてもらった。この時の恩返しのつもりで、3.11の復興構想会議で構想を練り上げた。

阪神淡路大震災の時の政府・行政の冷たさは繰り返してはならない。
それまであったものよりも良いものを造るなら、地元のお金でやりなさいと当時の警察出身の後藤田ドクトリーが立ちはだかった。
不合理なこと。官僚制が強いことを示している。
神戸港の復旧に後藤田ドクトリーが立ちはだかった。15メートルの新しい埠頭を造って国際競争力のある神戸港を造りたかったが12メートルの埠頭しか造れなかった。神戸港はその後釜山にも負けることになる。国際競争力のある神戸港を造れなかったのは日本全体にとっての喪失。

当時個人の家を建て直すのは自分ではやれないので助けてくださいと言っても政府に冷たく突っぱねられた。家という私有財産に対して国のお金は出せないと言われた。この3年後に私有財産に対して自然災害の時は300万円国が出すという法律がつくられた。

3.11の時は手厚かった。財政は阪神淡路大震災の時よりも厳しかったが、今を生きる世代が増税を受け入れて支えたから可能になった。
3党合意で25年間の増税を国民が受け入れた。どこがやられても国民全体で支える。これがなかったらこの列島に生きていけない。被災者は先ず逃げる。その先に復興がある。

3.11の時、列に並び互いに譲り合う日本人の姿が世界に称賛されたが、例えば1906年のサンフランシスコ地震の時には略奪が横行した。秩序を保つために当時の市長が警察官に射撃命令を出した。後で市長には射撃命令を出す権限のないことがわかったが、秩序を保つために正とされた。

阪神淡路大震災の時に2万数千人もの人が当日中に救助されたが、多くは民間の手による。神戸商船大学の学生が、一人の指揮をとる優秀な学生の下で長靴をはく、マスクをするなど装備を整えて集合し、当時中に100人を救助した。発生から72時間は生存率が高いと言われているが実際に高かったのは当日で80%。二日目以降はがたっと落ちる。自衛隊が救出したのは165人。初動がおそかった。

学生時代、ケチな人間になるなと教えられた。ケチな人間になるな=自己中を超えられないような人間になるな、ということだったと思う。

3.11の時、ボランティアである消防団員が254名犠牲になっている。
人を助けようとして犠牲になった人は多い。南三陸町で避難のアナウンスを続けて自分は津波の犠牲になった女性、中国人の従業員を先に避難させて自分は津波の犠牲になってしまった男性・・・。名取市で高齢の母親を連れて逃げようとしたが母親が自分はいいから逃げなさいと言うので苦渋の決断で母親を置いて逃げだ。後でなぜ自分だけにげたのかと責め続けた男性もいる。

阪神淡路大震災の時知事命令がおそかったから自衛隊の出動がおそかったというのは神話。知事命令が出る前の9時台には装備を終えていた連隊もあった。警察のパトカーの先導なしには現場に行けないだろうとパトカー一台の手配も終えていたが、道路はふさがれてしまっていて現場に行くことができなかった。自衛隊の方から現場に行かせてくださいと要請したのが知事命令ということになった。連隊長の自己判断で出動準備をした連隊もあった。後で処罰されることを考えなかったのかという自分の問いかけに対して、連隊長は自分が責任をとるつもりだったと答えた。自衛隊にはそういう訓示がある。

阪神淡路大震災の教訓が3.11で生かされてよかったこともどこかでお話しされました。
(別の機会に五百(いお)旗頭(きべ)さんより、自衛隊は阪神淡路大震災の反省を生かして、3.11の時には組織力で救出された人の約半分の一万数千人を救ったお話を伺ったことがあります。2011年6月都心の大学でのシンポジウムにおいてでした。)

「他の家族でなくて私でよかった」
昨年亡くなられた奥さんがすい臓がん(沈黙の臓器)の告知をされた時の言葉。あどれぐらいですか? そして、いつから悪かったのか?
告知された時の奥様から医者への質問。告知されたのは5月?6月?だったが、2月にお腹に違和感があるとして診察を受けていた。その時にはがんは発見されなかったので妻としては医者への抗議も込められている質問だったと思う。自分が一昨年神戸と東京と九州を一週間の間に行き来するような状況で生死をさまようぐらい具合が悪くなってしまった。その時にすでに悪かったのかもしれないというのが医者の答えだった。

最期は家で、家族みんなで看取った。娘たちがお母さんのために命のスープを作るんだと言って、新幹線でかけつけては競い合うように世話をしてくれた。最期は点滴をして口から黒いモノが出ているような状態になった。65歳は今の時代では短いが、家族のあたたかさの中で幸せな人生だったと思う。

悲嘆と復興
「個人の心の中のグリーフ・ワークと国や県が行うハードもグリーフ・ワーク。両方でグリーフ・ケアであることを知ってほしい」、と最後に高木先生からお話があった。








大震災の喪失体験を通して考える「悲嘆」(1)

2014年11月05日 14時07分17秒 | グリーフケア
10月30日のグリーフケアの講座でお聴きした五百旗頭真(いおきべまこと)さんのお話をまとめたので載せてみようと思います。

五百旗頭さんは、前防衛大学校長、東日本大震災復興構想会議議長をつとめられました。
現在は、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長、熊本県立大学理事長をされています。

講座ではよどみなくお話をされました。
そのすべてを正確に記録することはできておらず、私がその場でメモをとったことと記憶に残っていることからまとめたものですので、お話しされたことから言葉が違っていたり、
こぼれおちたりしています。その点ご了承ください。

一回で載せるには長いので分けてみます。
よろしかったらお読みください。


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悲嘆は死別体験ばかかりではない。喪失も悲嘆。
今の日本には四つの喪失の危機がある。

①中国の台頭。これは人類史上画期的なこと。19世紀ドイツが台頭したことにより第一次世界大戦が起こった。国の規模がドイツよりもはるかに大きい。経済力の上に軍事力を持っている。国益のために軍事力を使う恐れがある。尖閣諸島をとられるだけでも日本にとっては大きな悲嘆となるだろう。もうすぐ日中首脳会談があるが、力を蓄えた中国とのつきあいは難しい。

②GDP200%の赤字。国家予算の半分は来年送りとなっている。税金で半分しかとれていない。一定の成長率と共に税金を増やしていかなければならない。高齢化で、地方の市町村の80-90が消滅していく。就学・就労の為に人口が東京に集中し過ぎている。東京が差し出すべき地方が死んでいく。提供すべき側の東京は、人口の再生産をしない。ギリシャは赤字140%で破綻した。日本は国債を発行して国の内部に借金をしているのでまだもっている。金利を上げなければ国債はもたない。それはもう目の前。団塊の世代が負担しなければならないのに、そうなっていない。

③首都直下型地震と南海トラフ。3.11の時に帰宅困難者がたくさん出て大混乱したが、一極集中で直下型地震が起こったら、政治、経済、全て止まってしまって大変なことになるだろう。

④人口減少。地方も東京も衰退していく。


五百旗頭(いおきべ)さんは阪神淡路大震災の罹災者。地震に対して敏感になっている。3.11の時は横須賀の防衛大学にいたが、最初の揺れから、さらに大きな揺れがきたのですさまじい地震だと感じた。すぐにドアを開けて避難経路を確保してくれた女性がいた。それからラジオで宮城沖が震源地であることを知った。

阪神淡路大震災は、1995年1月17日午前5時46分。いきなり下から上につぎあげてきた。家を揺らされて殺意を感じた。実際には20秒だったと後で知ったが揺れている間2分ぐらいに感じた。下から突き上げられると家も電車も一度浮かび上がり、降りてくるときに横揺れがくる。阪急電鉄の伊丹駅は3階にあった。地震を想定して造られてはいたが、一度浮かび上がることは想定していなかった。3階にあったため、電車の重さで崩れて、下にあった交番がつぶれた。警察官二人が生き埋めとなり、一人は存命だったが、一人は遺体で発見された。
その日はたまたま下の娘と2階の部屋で一緒にベッドで寝ていたので、揺れ続けている間娘が地震に連れ去られないように押さえつけていることができた。(とっさにそれしかできなかった。)

2階の自分の部屋にいた上の娘もベッドで寝ていたので助かった。家具が飛んでいたがベッドまでは降りてこなかった。
家族四人無事であることを確認した後、食料を確保できるのか、本当に助かったのかを確かめるために、お父さんが代表で1階に降りていってみることになった。暗闇の中で蝋燭をみつけたがマッチがどこにあるのかわからなかった。上京していた息子の部屋にラジオがあった。ラジオで震源が淡路島だと知って驚いた。関西に地震はこないという神話に毒されていたので、東京が震源地ならとてつもなく大きな地震で、小松左京の「日本沈没」が現実に起こったのではないかと震源地を知るまで妄想した。

一階に降りていって、玄関でスリッパをはいた時安心した。こういう時スリッパをはくと安心する。表玄関のドアは揺れで歪んでいて開けられなかったので、勝手口に行ってみることにしたが、台所は家具などが倒れて三層にふさがれてしまい、勝手口に行くことはできなかった。
2階の窓から下の娘の同級生の女の子がいる。すぐ近所の社長の豪邸がつぶれているのが見えた。大きな庭があって野菜づくりをしていたので、娘たちがたびたび遊びに行っていた家だった。娘が友だちの名前を呼び続けていたら、友だちが無事な顔を見せた。梁と梁との間で友だちは助かった。針の先ほどの偶然がこういう時生死を分ける。

視点を変えることによって人は救われる。
昨年亡くなられた奥さまはそれまで趣味で器が好きだった。台所で、散らばった器を「私の柿右衛門・・・」などひとつひとつ名前を呼びながら拾っていた。それ以降、相対化して物事を考えるようになり、器はなんでもなくなった。
大震災前は旧約聖書。大震災以後、別の人生を生きている。
今この瞬間を大事に生きるようになった。明日はないかもしれない。



悲嘆と「時間」との関係、その時間を支える「食」の役割(2)

2014年10月21日 21時32分23秒 | グリーフケア
おせち料理のパンフレットが目に入る頃となりました。早いものです。
このまま本当に冬を迎えるんだろうか、このままで冬を迎えるのはきびしいなあ、という感じで毎日は過ぎて行っています。
私の記録が不十分で、辰巳さんのお話を伝え切れていないのがもどかしいですが、
昨日に続いて、グリーフ・ケアの講座でうかがったことを断片的にですが、書こうと思います。

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宇宙の研究がもっと進んできたら、モノと人間の兄妹関係が明らかになる。
モノも人間も、同じ一つの元素からできている。
キリストは亡くなる前の晩、一つになりなさいと繰り返している。
この一つは、宇宙的なことだと最近気がついた。

すごく悲しい気持ちはわからないので、あまり言葉を使わない方がいい。

みんな自分に何らかの力をつけておかなければならない、具体的に。
援助も生活レベルで、具体的に必要。
悲嘆に困窮と困難がくっついたら大変。
この三つがそろってやってくるのが戦争。

15年間結核で何もできたかったのはすごいこと。
テレーズ・マルタン(幼きイエスの聖テレジアの意)を手放した時、『夜と霧』(フランクルの著書)しか私を励まさなかった。
10年間動きがとれなくなった時、『夜と霧』に出会った。
『夜と霧』は、悲嘆・困窮・困難の三つがそろった時に励まされる。
テレーズ・マルタンでは間に合わなくなった。
困窮も困難もなかったが、抜け出せない、一つの拘禁状態。
父は「どうしていつまでも・・・」といったことを言ったが、母は言わなかった。
自然に言えなかったと思う、産んだ人だから。
仕事場(テレビ局の収録)に一緒に連れていかれるようになった時、それだけで母には十分
喜びだった。

(出身の)聖心女子大には、マザーとシスターという階級があった。
毎日通り過ぎる洗濯場で、山のような靴下を洗っていた女性の姿を今も覚えている。
海外から来て、毎日洗濯板で、カトリックなので黄色や色んな色があるわけではなく、
全部黒い靴下をひたすら毎日洗い続けている。その辛抱強い姿に励まされた。
ひたすら繕いものをしていた女性の姿も思い出す。すごいシスターたちがいた。

起こってから考えるのはたぶん役に立たない。
その時になってからでは何事も間に合わない。
「汝、幼き時に神を見よ」
小さい時からの積み重ねで、いざという時対処できる。
13年間スープの勉強をしたから、父が必要になった時、スープを作ることができた。

先生の友達の宮崎かづゑさんが書かれた『長い道』という本がみすず書房から出ているので、
読んでみてください。
ハンセン病で、10才で長島(国立ハンセン病療養所・長島愛生園)に送られた。
長島に行けば学校に行けると聞かされていたので楽しみにしていたが、そこでは
同じ病気の子供同士でいじめがあった。
子供たちの世話をしていた人たちもみんな同じ病気でやさしくなかった。
人間が人の身になって考えるのは学習が必要。
そのつもりになって自分を方向付けていかないといけない。
人間はおそろしい。


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つたない紹介になってしまいましたが、読んでくださった方、ありがとうございます。
旅日記やミュージカルのこと、心に残る本のことなどなど、あれやこれやとこれからも
書いていきたいと思います。
よろしかったらまた訪問してください。


悲嘆と「時間」との関係、その時間を支える「食」の役割(1)

2014年10月20日 11時09分16秒 | グリーフケア
先週の木曜日にグリーフ・ケアの講座でうかがった辰巳芳子さんのお話をあらためて書いてみたいと思います。
私は今まで辰巳さんの本を読んだことも、テレビで拝見したこともなく、今回はじめてお名前を知りました。
90才になられるそうですが、お肌もつやつやで、辰巳さんのお姿を拝見してエネルギーをいただけたことそのものに意味があり、とても大切なことだったと思います。
高木先生との対談形式で行われましたが、「そうねえ」と一回一回考えて、ゆっくりと丁寧に言葉を選びならが話されているのが印象的でした。


お聴きしながらメモった記録から書かせていただきますので、実際に話されたことと言葉がちょっと違っていたり足りなかったりしますがお許しください。

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テーマは、「悲嘆と「時間」との関係、その時間を支える「食」の役割」でした。

スープは悲嘆を支える。「おいしさ」は人間の原質。
採取時代は、おいしいかおいしくないかで食べ分けていたのではないか。
行き詰まった時、「おいしい」は人間を力づける。
逆においしくないものが現れたら、行き詰まりは三倍になる。
「おいしい」は自分の命に対する手応え。これが悲嘆を支える。

先生ご自身の悲嘆の経験は、5才から14-5才まで。
5才の時に祖父が亡くなった。その時何も手につかない空虚感を味わった。
祖父は、自分が生きていることのすべてだった。
先生の魂の中心にいた人で、亡くなった後、祖父の存在に代わるものは見つけられなかった。

8歳の時訪ねた叔母の家の近くにあった、麦畑の麦の穂をわたる風の音が、自分の中を通りぬけていった音を今も覚えている。
その風が冷たければよかったが、生あたたかくて、悲嘆を掻き立てられて耐え難い風だった。
ませた子だと言われたが、人間の子はこう感じるようにできている。
人をみるとき、祖父に代わるものかどうかをみていた。
高校一年生の時、イエスの十字架に出会って、魂の中心を見つけた。
テレーズ・マルタン(フランスの、若くして亡くなった修道女)の本も支えとなった。
祖父に代わるものには、出会えないまま生きてきた。

祖父は、当たり前の生活にたどり着くまでの人生の難しさをよくわかっていた人だった。
前田藩から選ばれて、日本の近代化を進めたフランス人に18歳まで教育を受けた。
造船学校に進学すると、フランス人と共に日清戦争に使う軍艦を造った。
さらに水雷艇も造った。
日露戦争がはじまった時、フランスとロシアは仲がよかったので、フランス人と親しかった祖父は国によって行動が制限された。表現の自由がなくなる。奥さんを二回亡くし、子供も亡くした。

祖父は、命そのものに対する行き先を子供の自分に見ていたと思う。
父や母が私を見る目と全く違っていた。
その祖父が亡くなった時の空虚さを、もう味わうことはない。

子供に対して、一対一の命として向き合ってあげてほしい。
子供が何かを大切にしている時、命そのものと向き合っている。
何かをなくした時、損得はない。なくしたもの、そのものだけ。
命とは何か、人間は定義できない。自分でつくったものではないから、
言い尽くせるものではない。考えても考えても足りないところが出てくる。
でも考えていかなければならない。

食べるということは、生物としての命が保たれるだけではない。
宇宙のことがもっとわかってきたら、その中で食べると言うことが位置づけられると思う。

必要なことが起こってからでは対応できない。
積み重ねて下から身につけてきたことしか出せない。

13年間、加藤正之先生のもとで料理の勉強をし、スープと向き合う時の態度を学んだ。

15年間結核で箸より重いものを持てなかった。
治った時料理ならできた。13年間勉強したので自然にできてしまった。
これならやれると思った。学問好きだが、体力が要るので学問はあきらめた。

スープはどんな人にも最適、亡くなっていく方には特に。
食材にはいい所と悪い所の両方あるが、スープはいい所だけが導き出される。
いい所を引き出して、悪い所は引っこんでもらう。
これはモノの分析ができないとやれない。人に対してもモノに対しても、
分析ができないといい所、悪い所がわからない。
人は言葉で粉飾する。モノはありのまま。
人はモノより優位だと思っていない。
先生のモノに対して、兄弟として向き合っている。


*************

私のメモが足りていない感じですが、あと一回書きます。

長時間労働していた時にはわかりませんでしたが、なんとも落ち着かない住環境。
混乱の半端じゃない緊張感もあって、自分の部屋で食べている時は、食べていても
実感がないまま数か月を過ごしてきました。
本当に久しぶりに、簡単な野菜スープを作っていただきました。
体があったまります。
エネルギーの要ることを、食べて乗りきって行こうと思います。