混乱の終結までにはまだ時間がかかりそうですが、ここまできたので辛抱、辛抱。
わたし個人だけの問題にはとどまらないので、がんばる、がんばる。
昨日数か月ぶりに銀行の窓口に行って、またなんだか難しいことになっているなあと
感じました。
働いている間は、平日そういう時間がなかったので、ほんとに久しぶりでした。
以前は、行く窓口によって自分で番号札を取って待っていればよかったのが、
まず係りの人に用件を伝えて、その人が番号札を取り、書類の記入も手伝う仕組みになっていました。
私にはちょっとうるさい感じがしてしまったのが正直なところでしたが、いろいろと問題も起こっているので仕方ないんでしょうね。
口座解約の際にも本人確認の資料を求められたので、窓口で対応してくださった方に、「私も大昔銀行で働いていましたが、世の中が複雑になってきて、銀行の仕事も複雑になり大変ですね」、と声をかけてみました。
銀行員「そうなんですよ。どんどん厳しくなってきています。以前は家族が代理で口座解約できましたが、今は本人でないと解約できないようになりました。」
私「そうなると認知症や精神障害によって自分で手続きできない人も出てくるから、成年後見制度のことなどもわかっていないと、銀行の仕事もできないということですね。」
銀行員「よくご存知ですね。」
なんだか世の中の仕組みがどんどん複雑になってきている一方なので、働いていくことが、生きていくことが難しくなってきたなあとあらためて感じました。
これからどう生きていけばいいのか、答えは簡単には見つけられそうにありません。
まずは終わらないと考えられないかな・・・。少しずつ考えていかないといけないのですが、
今は考えられるスペースがありません。
卒業論文の参考資料からまた拾ってみました。
「OLは、「男性」に対する対句として「女性」と呼ばれるのと同じくらい、あるいはもしかしたらそれ以上に、「女の子」と呼ばれる。個々の部や課の中ではもちろん名前で呼ばれるけれども、部外や他社の人にとっては単なる「女の子」である。だから、男性はよく「うちの女の子に取りにいかせるよ」とか、「女の子がミスしちゃってね」とか言う。
(略)
OLを「女の子」としてくくるのは、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと考えることができる。
OLを男性社員と比べ半人前とする考えは、多くの日本の職場における種々の実践的行為のうちに繰り返し見出すことができる。その中には社内の規則として公認されているものもあるが、大部分は、暗黙のルールとして存在しているようだ。一例をあげると、社内結婚のときに女性側が退職をする慣習がある。退職が規則で義務づけられているわけではないが、慣習として、男性は仕事を続け女性は退職することになっている企業が少なくない。
(略)
さらに男性と女性の差を意識させられるのは、自己管理権・自己決定権の領域においてである。(略)男性社員は、自分の判断で勤務時間中に部外者と会うことができるが、OLはできない。もちろん、OLの自己管理・自己決定権の欠如は、何も時間だけとは限らない。女子社員に制服を課しているところでは、女性は服装についての自己管理・自己決定権が奪われていると言うことができる。その上、いっしょくたに「女の子」として扱われているOLは、個人の仕事ふりもなかなか尊重されずにいるらしい。たとえば、OLが書いたレポートが、統括する男性の名前で発表されたりする。OLが会議に出席し、自らのレポートを説明する機会があたえられることは珍しい。ましてOLの名前が仕事の最終責任者として公式の記録に残ることはめったにない。組織の中でのOLは、本当の意味での名前を持たない存在なのである。(略)OLの仕事はどこまでいっても「世に出る」ことはないのである。
インタビューをした多くの女性が、OLであることで一番屈辱的なことの一つにこの「名無しの存在」があると話してくれた。男性社員は個人として扱われている。おのおのの男性は個別に評価され、その働きに応じて加点されたり減点されたりする。一方OLは、「女の子」としていっしょくたに扱われ、個人としてあまり尊重されていない。だから、ある女性が仕事でミスを犯したことが、「いやあ、うちの女の子がミスしちゃってね」と表現されてりする。いったいどの女性がミスを犯したのか、具体的に知りたがる男性はそう多くない。同様に、どの女性がどんな素晴らしい仕事をしたかについても、一般的に関心がうすい。
実際、個々のOLの仕事ぶりを真剣に評価しようとする企業は少ないようだ。(略)OLにとって業績評価がいかに有名無実なものであるかは、インタビューをした多くの女性が繰り返した「よほどのことがない限り」あるいは「よほどのことをしない限り」(業績評価の上がり方はみんな同じ)という表現からもうかがい知ることができる。
(略)
アメリカの企業で働く女性秘書は、通常、厳密な業績評価を免れることはないし、また工場で働く女性労働者もしかりである。なぜOLのみが、「よほどのことがない限り」安穏としてられるのか、考察の余地がありそうだ。そもそも、一般的に言ってアメリカと日本の企業では、なんのために社員の業績評価を行うのかが異なる。アメリカの企業において業績評価は、毎年上司とのあいだで行われる年棒交渉のための重要な資料である。しかも、ふつう、この年棒交渉の対象者は、役職者などの一部の社員に限られない。秘書の年棒も、その仕事ぶりがどのように評価されたかによって毎年交渉の上で決定される。(略) 日本企業の場合、より一般的な業績評価の使徒は、年棒交渉のための資料ではなく、社員選抜のためのデータであると考えられる。(略)日本の企業でも男性社員の仕事ぶりは注意深く見守られ厳しく査定される。しかし、そしてこの点が今のところ重要な日米の相違となっているのだが、日本企業の査定の結果は、多くのアメリカの企業のように毎年の年棒にそのつど反映されるというよりは、より長い時間をかけ「選抜」という形を通して現れるということである。そうであるとすれば、なぜOLが男性社員のように真剣に評価されないのかの理由も想像がつく。OLは一般に勤続年数が短いと考えられているし、そもそも多くの日本の企業は、OLを「選抜」して登用するつもりがないのであるから、その観点からすれば、OLの業績評価は無意味ということになる。」
(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1988年発行、15-21頁より抜粋して引用しています。)
わたし個人だけの問題にはとどまらないので、がんばる、がんばる。
昨日数か月ぶりに銀行の窓口に行って、またなんだか難しいことになっているなあと
感じました。
働いている間は、平日そういう時間がなかったので、ほんとに久しぶりでした。
以前は、行く窓口によって自分で番号札を取って待っていればよかったのが、
まず係りの人に用件を伝えて、その人が番号札を取り、書類の記入も手伝う仕組みになっていました。
私にはちょっとうるさい感じがしてしまったのが正直なところでしたが、いろいろと問題も起こっているので仕方ないんでしょうね。
口座解約の際にも本人確認の資料を求められたので、窓口で対応してくださった方に、「私も大昔銀行で働いていましたが、世の中が複雑になってきて、銀行の仕事も複雑になり大変ですね」、と声をかけてみました。
銀行員「そうなんですよ。どんどん厳しくなってきています。以前は家族が代理で口座解約できましたが、今は本人でないと解約できないようになりました。」
私「そうなると認知症や精神障害によって自分で手続きできない人も出てくるから、成年後見制度のことなどもわかっていないと、銀行の仕事もできないということですね。」
銀行員「よくご存知ですね。」
なんだか世の中の仕組みがどんどん複雑になってきている一方なので、働いていくことが、生きていくことが難しくなってきたなあとあらためて感じました。
これからどう生きていけばいいのか、答えは簡単には見つけられそうにありません。
まずは終わらないと考えられないかな・・・。少しずつ考えていかないといけないのですが、
今は考えられるスペースがありません。
卒業論文の参考資料からまた拾ってみました。
「OLは、「男性」に対する対句として「女性」と呼ばれるのと同じくらい、あるいはもしかしたらそれ以上に、「女の子」と呼ばれる。個々の部や課の中ではもちろん名前で呼ばれるけれども、部外や他社の人にとっては単なる「女の子」である。だから、男性はよく「うちの女の子に取りにいかせるよ」とか、「女の子がミスしちゃってね」とか言う。
(略)
OLを「女の子」としてくくるのは、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと考えることができる。
OLを男性社員と比べ半人前とする考えは、多くの日本の職場における種々の実践的行為のうちに繰り返し見出すことができる。その中には社内の規則として公認されているものもあるが、大部分は、暗黙のルールとして存在しているようだ。一例をあげると、社内結婚のときに女性側が退職をする慣習がある。退職が規則で義務づけられているわけではないが、慣習として、男性は仕事を続け女性は退職することになっている企業が少なくない。
(略)
さらに男性と女性の差を意識させられるのは、自己管理権・自己決定権の領域においてである。(略)男性社員は、自分の判断で勤務時間中に部外者と会うことができるが、OLはできない。もちろん、OLの自己管理・自己決定権の欠如は、何も時間だけとは限らない。女子社員に制服を課しているところでは、女性は服装についての自己管理・自己決定権が奪われていると言うことができる。その上、いっしょくたに「女の子」として扱われているOLは、個人の仕事ふりもなかなか尊重されずにいるらしい。たとえば、OLが書いたレポートが、統括する男性の名前で発表されたりする。OLが会議に出席し、自らのレポートを説明する機会があたえられることは珍しい。ましてOLの名前が仕事の最終責任者として公式の記録に残ることはめったにない。組織の中でのOLは、本当の意味での名前を持たない存在なのである。(略)OLの仕事はどこまでいっても「世に出る」ことはないのである。
インタビューをした多くの女性が、OLであることで一番屈辱的なことの一つにこの「名無しの存在」があると話してくれた。男性社員は個人として扱われている。おのおのの男性は個別に評価され、その働きに応じて加点されたり減点されたりする。一方OLは、「女の子」としていっしょくたに扱われ、個人としてあまり尊重されていない。だから、ある女性が仕事でミスを犯したことが、「いやあ、うちの女の子がミスしちゃってね」と表現されてりする。いったいどの女性がミスを犯したのか、具体的に知りたがる男性はそう多くない。同様に、どの女性がどんな素晴らしい仕事をしたかについても、一般的に関心がうすい。
実際、個々のOLの仕事ぶりを真剣に評価しようとする企業は少ないようだ。(略)OLにとって業績評価がいかに有名無実なものであるかは、インタビューをした多くの女性が繰り返した「よほどのことがない限り」あるいは「よほどのことをしない限り」(業績評価の上がり方はみんな同じ)という表現からもうかがい知ることができる。
(略)
アメリカの企業で働く女性秘書は、通常、厳密な業績評価を免れることはないし、また工場で働く女性労働者もしかりである。なぜOLのみが、「よほどのことがない限り」安穏としてられるのか、考察の余地がありそうだ。そもそも、一般的に言ってアメリカと日本の企業では、なんのために社員の業績評価を行うのかが異なる。アメリカの企業において業績評価は、毎年上司とのあいだで行われる年棒交渉のための重要な資料である。しかも、ふつう、この年棒交渉の対象者は、役職者などの一部の社員に限られない。秘書の年棒も、その仕事ぶりがどのように評価されたかによって毎年交渉の上で決定される。(略) 日本企業の場合、より一般的な業績評価の使徒は、年棒交渉のための資料ではなく、社員選抜のためのデータであると考えられる。(略)日本の企業でも男性社員の仕事ぶりは注意深く見守られ厳しく査定される。しかし、そしてこの点が今のところ重要な日米の相違となっているのだが、日本企業の査定の結果は、多くのアメリカの企業のように毎年の年棒にそのつど反映されるというよりは、より長い時間をかけ「選抜」という形を通して現れるということである。そうであるとすれば、なぜOLが男性社員のように真剣に評価されないのかの理由も想像がつく。OLは一般に勤続年数が短いと考えられているし、そもそも多くの日本の企業は、OLを「選抜」して登用するつもりがないのであるから、その観点からすれば、OLの業績評価は無意味ということになる。」
(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1988年発行、15-21頁より抜粋して引用しています。)