たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』より(2)

2014年08月23日 20時34分10秒 | 美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』
「2013年1月15日(火)

人が生きていく営みーそれは、先に逝った命、今生きている命、これから生まれてくる命をひっくるめて命なんだと思う。」


6月30日付で紹介させていただいた頁と流れが前後してしまいますが、紹介させていただきます。

「1986年の1月29日に開かれた、東京地区の集会でのこと。
「社長室の前で灯油を被って死にたい」と、子供を二人亡くした女の人が、泣き笑いのような、投げ出したような表情で語った。

 集会の席でそういう発言をすることは少しも不自然ではなく、むしろ、そういう声をうけとめあうために集まっている、とも言えた。誰かが励ましの言葉をかける。普段の生活では周りに遠慮して言えないようなことを正直に言える貴重な場所だった。その同じ集会で、刑事告訴の話も持ち出された。

 そして、翌月の2月15日、大阪市立勤労会館で、遺族の集まりを持った。242名が参加し、椅子が足りなくなるほどだった。東京で少人数が集まり、顔をつき合わせて話しているのとは、勝手が違う。とにかく身を寄せ合おう、と会を結成した時の雰囲気とも違う。

 どの人も、あの事故以来、何ごとにも疑い深くなって、身を固くしている感じだった。そんな人が大勢集まって、一つのことを話し合おうとしている。集会の後半では日航幹部が出席し、遺族の質問に応じることになっていた。

 集会で話し合う内容は、遺族へのアンケートの結果に添ったものだった。

 アンケートを発送したのが、1月19日。「連絡会でやっていきたいことはなんですか」という質問をした。結果は、「刑事責任の追及」が一番多かった。父を亡くした26歳の女性は、「亡くなった人たちの声をこの世の人たちに届けられるのは私たちしかいない」と書いていた。

 午後1時に始まった集会は、最初から独特の緊張した雰囲気に覆われた。はたして、話し合いがスムースに進み、今後の会の活動指針が固まるのか、私は不安だった。

 しかし、それは取り越し苦労におわった。事前に作成した告訴状の原案を配布する。たくさんの真剣なまなざしがあった。うれしかった。

 その後の日航の社長らとの話し合いでは、遺族側の振り絞るような訴えに、彼らは、「社会の常識、通年というものに基づきまして」、「お気持ちは分かっておりますので、考えさせていただきます」、「誠心誠意・・・」といった決まり文句に終始した。この言葉を聞きながら、出席した多くの遺族が、「この事故は人災であったのだ」という思いを強くしていった。そして、ますます、事故の悲惨さ、死んだ人たちが味わった苦しみ、それを招いたことの重大さにふさわしい形で責任をとってもらいたい、と思ったのではないか。刑事告訴をするという提案は、そんな遺族の気持ちと一致したのだと思う。




 全国にちらばった遺族は、たまたま家族が同じ飛行機に乗り合わせた、同じように愛する人を失ったというだけの縁である。顔も知らなかったし、もちろん、者の考え方も様々のはずだ。その遺族たちが、何か一つのことをしようとしているのである。何かできる。そんな気がした。

 会には、遺族に寄り添う弁護士たちがいた。まさに、手弁当での支援をしてくれた。なかでも、海渡雄一弁護士と梓澤和幸弁護士は、遺族と同一の目線で話をし、8・12連絡会の集会に毎回来てくれた。詳細は後述するが、事故原因を究明する目的で作られた8・12連絡会の原因究明部会も引っ張ってくれた。

 遺族にとって、支援してくれる弁護士たちは、多くの「なぜ」を共に考え、解決していくために有難い存在だった。不安な遺族を元気にしてくれた。事故にあうまでは、弁護士という特別な存在と考えていた。だが、彼らは、多くの支援をしてくれ、いつもこころよく相談にのってくれた。会を無償で支援するこの弁護士たちがいなかったら、何事も前には進まなかっただろう。

 今、様々な事故で、被害者に寄り添う若い弁護士に出会う。民事訴訟に至らない段階で支援をしてくれる弁護士は、経済的にも負担が大変だと思う。私たちのように刑事訴訟となると、さらに長い時間お世話になる。彼らは、本当の意味での遺族支援をしている。

 2月15日の大阪集会の日から4月12日の第一回刑事告訴の日まで、事務局は、弁護士を交え、その準備に追われることになる。告訴状は、連絡会の顧問弁護士4人と遺族が夜を徹して作成にあたった。

 事務局ではこんな話をしていた。
「あれだけの人が死んでいる事故でしょう。普通、交通事故でも刑事事件でしょう。あれが刑事事件じゃないってことのほうが不自然」と、父を亡くした若い女性。「この問題が刑事事件にならないはずがない、絶対やりましょう」と、娘一家を亡くした初老の男性。「刑事事件になれば、多少でも真相がはっきりして、再発防止につながるんじゃないか」と言った人は多かった。また、父を亡くした大学生は、「刑事事件にするという認識、概念が、僕はなかったですよ」。夫を亡くし、小学生の子供がいる女性は、「刑事事件と民事事件の違いをはじめて知りました」と話す。

 私たちは、新聞やテレビで聞きかじった言葉の意味を弁護士に説明してもらったり、すでに告訴をしていた羽田沖事故の遺族会の例を聞いたりするうちに、誰でもが使える方法が準備されていることを知った。もう二度と同じ事を起こさないため、誰かが、苦しい、悲しい思いをしないためにも、使える方法を使い切ることが、私たちに与えられた責任のような気がした。

 この告訴について、後に海渡弁護士は、「群警が捜査をやっていたが、このまま放っておいたら起訴までいくかなという不安はあった。だから、遺族がバックアップ、つまり告訴をしないと前に進まないんじゃないか、と思い、勧めた」と話す。梓澤弁護士は、「事故原因を究明するためには、一番いい方法だとおもいましたね」と言う一方で、「乗員組合などが一貫して、刑事責任の追及に反対していることが気になっていた」という。

 米国などでは、事故原因の追及を優先するために、航空機事故の関係者に限っては刑事責任が免責される。決して責任を問わないから、本当のことを言いなさいというわけである。当時、私たちはまだそういったことを知らなかった。また、日本では制度も違う。被害者と航空関係者、事故の再発防止という願いは同じでも、そこに至るまでの道が互いを邪魔することもある。

 しかし、このとき告訴・告発をしたことは間違っていなかったと思う。この件について、会では折にふれて論議した。最終的に、「刑を与えるのが目的ではない。捜査機関、事故調にたいするプレッシャーになる、黙って見ているのではなく、これだけの遺族が見張っているという、意見表明としての告訴である」と、この告訴を位置づけた。

 刑事告訴をするにあたり、遺族は、告訴に賛同する周囲の人々に、告発人という形で参加をよびかけた。よびかけ文にはこうあった。

「わたしたちは、真実が明らかにされ、正当な裁きのもとに世界の空が安全になることを望みます。520の御霊が安らかなるために」

 告発人として署名をいただくことは、遺族にとってつらい作業でもあった。しかし、全国各地で、遺族は、告発人の署名集めに奔走した。激励の言葉をいただく一方で、「権力に盾つくと後で損をする」と言ってペンをとってくれない方もいて、少し悲しかった。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年6月25日新潮社発行、49-52頁より引用しています。)



心を大きく揺さぶられた一文を紹介させていただきます。


「そして、私は、悲しみは乗り越えるのではないと思っている。亡き人を思う苦しみが、かき消せない炎のようにあるからこそ、亡き人と共に生きていけるのだと思う。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年6月25日新潮社発行、238頁より引用しています。)