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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

夏の終わりの曇り空の下で・・・

2014年08月27日 16時07分35秒 | 祈り
「私たちは、人間として生きるべきだ。私たちは労働する。日常生活は、労働の生活であるし、また余暇を活用する生活でもある。余暇という言い方が消極的ならば、自由時間の創造的活用、という表現をとりたい。仕事が奪われてしまったならば、私たちの存在証拠が失われてしまうだろう。労働によって人間が間化されることを望む人はいないはずだ。労働を通じて、私たちはおのれを社会的世界に関係づけるのであり、 また労働を通じて人間同士の人間的な触れ合いが、私たちにもたらされなければならない。余暇についていえば、いかにそうした余暇を創造的に活用し、自己発見を可能ならしめるかということが問われるはずである。

 どのようにして毎日を過ごすか、金銭をどのように考えるか、労働をどのようにとらえるか、生活時間あるいは時間資源 をどのように活用するかということは、いずれも生活態度にかかわることである。こうした生活態度は、人生観や世界観とも密接な関係を有している。私たちは人生を、また自然や他者たちの中における私たちの位置を、どのように考えているのだろうか。

 生活の目標、生活の方向づけ、生活の設計などに根拠を与えてくれるような信念、生活理念を、生活哲学(いわば人生や生活についての考え方や見方)と呼びたいと思う。そうした生活哲学は、特定の形式で一般化されて私たちに与えられているものではない。世代から世代へと継承されてきた社会的知識、いわば暮らしの知恵は、たしかに日常生活を営む私たちにとって思考や行為の指針・基準となるものだといえる。生活哲学の独自性は、そうした人々によって共有されているものの見方、知識、問題解決についての 標準的手順という点に見出される。同時に、一日一日を生きる私たち自身の生活についてのそれぞれの見解、あるいは個別的な経験的な生活態度にも見出される。


(山岸健著『日常生活の社会学』NHKブックス、74-76頁より引用しています。)


卒業論文を書いた際の参考文献からまた拾ってみました。
わけわからないまま、社会から追放されて接点を失って気が付いたら何か月も経っていました。
まだ精算が終わらないので、やっぱり今は身動きをとることができないんだと思います。
現実をちゃんと受け入れられていないし、わたし自身の気持ちの整理がつくまでにもまだ時間がかかりそうです。
中途半端にずっと組織に属してきたので、帰属集団をもっていない状態が不安で仕方ない私がいます。
でも新しく踏み出していくだけの準備はできておらず、勇気を持てないでいる私がいます。
きついですが辛抱の日は続きます。私という丸ごとの正直ベースで生きていきたいですが苦しいですね。

職場だけではない、いくつものつながりを持ってきたことが今の私を孤立化から救ってくれています。
そういうことを考えて、あちこちに顔をだしてきたわけではないのですが、そうしてきたことが結果的に
救いとなりました。
今の社会を生きていくのに、接点をいくつも持っていることは大切なことだと感じています。
ここ一週間ほど学生に戻って大学で社会学の講義を受けていました。
そんなことをあらためて考えさせられる内容で、このタイミングでの受講は本当によかったと思います。

前に進んで行くためにまた過去の情けない自分に出会い直します。

「1995年7月23日(日)

まだ視界が十分でないせいか、ちょっと、どっかずれているような、ぼうっとした感じである。
さすがにいっぱい眠ったせいか、さほど眠れなくて、すごく眠い。結局、今日もぼうっと過ごしてしまった。

テーブルクロスとランドリーBOXをデパートで買う。
少しずつ、自分の暮らしが作られていくようで、少し嬉しい。
夕暮れの散歩をしたら、油絵の具のキャンパスのような夕焼け空に、遠く富士山?だろうか。
なんだか嬉しかった。

今また、大きな精神的危機の波。
明るく、さり気なく、気負わず乗り切りたい。
前だけみよう。
昨日もノートに書いた、誰にも言えないこの思い。
Yクンは考え方がかなり違うみたいなので、そんなに暗いことばかりきかせては悪いし、わたしだけの想いがある。
自分の中で、どう抱き続けていけばいいのか、すっかりもてあまし気味である。
ともすれば、マイナス方向にばかり考えが進んでいって、どんどん閉鎖的になっていく自分がわかる。
かたくなになって、人がこわくなって、だれにも会いたくない、ひとりでいいやと思ったり、ほんとは人が好きなくせに、淋しがり屋なくせに。
己は弱くて小さい者であると認めること。
神ってのが、ほんとにどこかにいるなら、すがりつきたいと思うこの頃である。
家族は? きょうだいは? 胸につきささる質問である。
Mちゃんがわたしを頼ろうとしてくれたのに、答えてあげなかったことは、今も胸をしめつける。
知らない人と知り合うのがこわいなと思ったり、
でもパートナーはほしいなと思ったり、
ともあれ、明日からまた仕事に復帰だ。」


「1995年7月27日(木)

ここは黒姫高原。ログハウスペンションGOOの中、
沢の音が聞こえてくる。
いつもとちがう時間を過ごしに来た。
小高い丘の上に立つ童話館、黒姫山の眺望。
レンタサイクルしながら輝く野尻湖を楽しみ、
汗をいっぱい流して、心地よい風に吹かれた休日、
ひとときの安らぎ、ひぐらしの鳴き声をずっときいていたような気がする。
かな、かな、かな・・・とー。
夜の風はさすがにひんやりとしている。
満天の星空、木のにおいのする部屋。
なにもない時・・・。
明日のことは、明日考えよう。」


こうして振り返ってみると、苦しい中で自分をなんとか立て直していこうと必死でしたね。
一人の暮らしでほんとによくやっていたと思います。
黒姫高原のペンションの木のにおいがするお部屋と星空をなんとなく今も思い出します。

この時から20年が過ぎて、ようやく人に自分の立場を言えるようになりました。
自分の経験を機会があれば人に伝えていくことは大切だと今は感じています。



曇り空のプリンス・エドワード島、季節は春(6月)です。