たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ミュージカル『マリー・アントワネット』(2)

2018年12月20日 22時26分01秒 | ミュージカル・舞台・映画
 ミュージカル『マリー・アントワネット』、劇場ロビーにはキャストのサイン入り写真が展示されていました。こうしてみるとたしかにイケメンは古川雄大さんだけなのでなかなか女性客を取り込むのはきびしいのかな・・・?!

 『1789バスティーユの恋人たち』は革命派と王党派、どちらにもそれぞれ気持ちを寄せながら観劇しましたが、この作品ではマリー・アントワネット寄りでした。まだ幼くて無知なマリー・アントワネットが市民を味方につけて王権を倒そうと目論むオルレアン公たちにはめられていき最後は断頭台へといたるプロセスをみているようで痛々しくてたまりませんでした。王権を倒そうと市民が熱く燃え上がる場面にほとんど気持ちが寄りませんでした。どこに共感するかによって見方が変わる作品なんだろうと思います。

 ルイ16世の佐藤隆紀さん、エリザでは観劇のご縁がなく初見でした。さすがの歌声。鍛冶屋に生まれればよかったと歌う場面が何度かありましたが、心の底から想いが沸き上がってくるようで本当にこの方が市民で鍛冶屋なら結婚生活は平凡ながらも幸せなものになっただろうにと思わないではいられませんでした。愛情表現の下手なルイ16世が子どもをいつくしむ場面も胸あつでした。フェルセンの手ほどきにより国外へ逃れようとする途中、フェルセンに、ここで別れよう、あとはのんびり家族だけで行くよと告げて、フェルセンを返してしまう場面、ここでフェルセンを返しさえしなければ史実は変わっていたかもしれないと思うとわなわなしてしまいました。ヴァレンヌで、一度は無事通過できそうだったのに、写真がまだなかった時代、人相書のルイ16世にそっくりだと呼び止められると自らルイ16世だと名乗ってしまう場面も然り。現実をわかっていなさすぎるとわなわなしてしまいました。

 王位を狙うオルレアン公の吉原光夫さん、レミゼのバルジャンの印象が強いので、いやらしさ満点の、アントワネットにとっては敵役に心の底から憤りをおぼえました。さすがの声量といいお声でした。同じくアントワネットを陥れようとする革命派の詩人ジャック・エベールの坂本健児さんもいやらしさたっぷり、歌のうまさは今まで拝見しているとおりでさすがでした。この方にも心の底から憤りをおぼえました。アントワネットを陥れようとした理由は今一つわかりませんでした。国王を倒したかったということなのかな。アントワネットが処刑されたあと、二人が共謀していたとマルグリットが告発したことによりロベスピエールにしょっぴかれていくのがなんとか救いになっているのかな。でもそのロベスピエールものちに恐怖政治によって処刑されることになるんですよね、とか考えていると終わらなくなるのでやめておきます。首飾り事件の首謀者ラ・モット夫人を演じたのは真紀子さん。エリザで死刑囚の母を演じてきている方。アントワネットと親しいとロアン大司教を騙し、アントワネットに似せたマルグリットと引き合わせるあたり、いやらしさ存分でした。黒幕の役所がよく似合っていました。アントワネットがロアン大司教を逮捕させ、裁判で彼が無実となって国王夫妻が市民の信頼を失っていく流れも舵取りを間違えなければ、と痛々しいかぎりでした。緊迫感が続く舞台の中で、唯一客席を和ませてくれた仕立て屋のレオナール駒田一さんとローズ・ベルタン彩吹真央さんのコンビ。革命が起こり貴族たちがパリから逃げ出したと知るとそそくさと逃げ出すしたたかさ、レミゼのテナルディエ夫妻をみている感覚でした。

 ルイ16世が処刑されると一夜にして髪が真っ白になったアントワネットにフェルセンが会いに来ると、わたしをみないで!と叫ぶ場面、裁判にかけられたアントワネットが、ルイ・シャルルに性的暴行を加えていたとあらぬ事実をでっちあげられたのに対して毅然とした態度で法廷を出ていく場面、粗末な荷車で処刑場に運ばれたアントワネットが荷車からずりおちる場面、二幕の終盤にかけてはさらに痛々しく胸がふさがれ、みていられないような心持ちになりました。なかなかにおもい舞台。この作品が問いかけているものはなにか。時間をかけて考えていきたいと思います。

「貴族の反抗は、聖職者・貴族の免税特権の廃止などの絶対王政の近代化の試みに対して彼らの特権を守ることに過ぎなかったが、それはブルジョアジーを始めとする国民の支持を受けた。何故なら、国民は彼等の抵抗を表現する機関をもたなかったからである。国民的支持を受けた貴族の反抗に直面して絶対王政は屈服する他なく1789年5月、174年ぶりにヴェルサイユで全国三部会が開会された。しかし三部会ではその構成と表決方法をめぐって、第一・ 第二身分と第三身分とが対立し、第三身分は、6月17日、彼らの集会を「国民議会」と呼ぶことを決定し、憲法制定までは解散しないことを宣言した(テニスコートの誓い
)。間もなく聖職者の大部分と貴族の一部とが国民議会に合流した。国王ルイ16世は軍隊を動員して国民議会を解散させようとしたが、パリの民衆は7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃して、危機に瀕していた国民議会を救った。彼等の蜂起は議会の救援というよりむしろ当時流布していた「貴族の陰謀」と軍隊の動員に対する自衛行為というべきであるが、結果的には国民議会を救ったのである。専制政治の象徴であるバスティーユ牢獄の占領は、地方に革命をひろめるきっかけとなった。当時農村では「大恐怖」と呼ばれる心理的不安が発生していたが、バスティーユ牢獄占領後、各地で農民一揆が頻発した。

 農民の蜂起は、貴族やブルジョアジーに恐怖心を起させた。自由主義的貴族が中心となって国民議会は農村の動乱を鎮めるために、8月4日に封建制の廃止を宣言し、次いで26日に、人間の権利の平等、自由、所有権、および圧政に対する抵抗は天賦の人権であること、人民主権などを内容とする「人権宣言」を公布した。「人権宣言」の決議の翌日(8月27日
)、議会は憲法草案の作成に着手したが、二院制の可否と国王の拒否権をめぐって分裂した。ルイ16世は議会の分裂に乗じて、8月の諸法令を承認せず、一度撤退させた軍隊を再びヴェルサイユに呼びよせた。その結果国民議会は再び危機に面した。

 議会の危機を救ったのは、またしてもパリの民衆であった。当時食糧品の買い占めのために、パリの民衆は「飢饉なしの飢え」と呼ばれた食糧不足に悩んでいたが、10月5日、婦人を中心とする6,000人の群集がパンを求めてヴェルサイユヘ行進し、その圧力に屈した国王は8月の諸法令を認め、ヴェルサイユからパリのチュイルリー官殿に移った。このような経過を経て、国民議会は 1791年9月に憲法を可決した。1791年憲法は人民主権の原則を掲げ、立法権は立法議会と呼ばれる一院制の議会に属すると規定しているが、選挙権に関しては、納税額を基準に市民を能動市民(満25歳以上の男子で、最低三日間の労賃に等しい額を支払うもの)と受動市民とに分け、前者のみに選挙権を与え、能動市民100人に1人の割合で選挙人を選出する間接選挙制が採用されている。従って、当時のフランスの総人口約2,600万人のうち、僅か約5万人が選挙人の資格を得たにすぎず、財産上の差別が旧制度の身分的差別に代ったといえよう。次に行政権は国王に属すると規定されているが、国王には議会の可決した法案に対する停止的拒否権しか認められていない点で、行政権の弱体化が意図されている。


 1791年4月、ルイ16世は復活祭を行うためにサンクルーヘ旅行しようとしたところ群衆に出発を妨げられた。この事件によって自分が囚人にすぎないことを自覚した国王は、6月にパリを脱走したが、パリの東200キロのヴァレンヌで捕えられ、パリに連れもどされた。」

(通信教育教材「西洋史概説」より)