たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

祈り_梅雨空の下で

2014年06月22日 16時52分31秒 | 祈り
先日、自死遺族の会に参加させていただきました。
本当にいろんな方がいらっしゃいます。事情は様々です。
お子さんに先立たれたお母様の話をきかせていただくと、どうしても私は母のことを思ってしまい、思う気持ちを話させていただきました。

私に今できることは一生懸命生きて行くこと、普通に生きて行くこと。ただそれだけです。
普通に生きて行く、簡単でだれにでもできる事のようですが、実はいちばんむずかしいことだと思います。
母や妹の分まで私が普通に生きて行く、そのためにも混乱をやり抜いていきます。
どうなるのかわからず不安ですが、きっと守っていてくれると信じます。

振り返ってみると国家試験合格の後も、さらに数年私のオーバーワーク状態は続いていました。週半ばを過ぎてくるとフラフラ状態、週末になるとへロヘロで心がささくれだってどうしようもなく苛立ち、動けなくなるぐらい疲労困憊状態。
コンタクトレンズをなくしてしまったり、何度も調整して買い直したり。
空調があまりよくなかったので極端に暑かったり寒かったりで体調がおかしかったりということもずいぶんありました。
その頃の誰にもわかってもらえない辛さ、ことばに言い表しようのない息苦しさがよみがえってくると自分自身で苦しくなります。
どうしようもなくなるとカウンセラーのY先生に電話して話をきいてもらっていました。世の中の状況が厳しかったので、自分からやめると絶対言っちゃだめよ、こうして電話してきてもいいからがんばらなきゃだめよ、と励まされ続けました。
試験に合格したからといって仕事を見つけられるだけの時間的な余裕もなく、生活がかかっているので、はりきれそうなほどにストレスを抱えてこわれそうになりながらも、ふんばり続けました。

こんな状況でしたが、土日に『赤毛のアン』を原書で読むセミナーや乳幼児精神保健学会のセミナーに行くこともありました。
休日に電車に乗って出かけること自体がきつかったですね。
でも行こうと決めたときは行きました。

さらには心のお休み時間を求めて、2008年9月に大手旅行会社のフランスの世界遺産を巡るツアーに参加、一度は封印してしまった『赤毛のアン』との再会を果たしたあとの2009年7月に初めて夏のプリンス・エドワード島への旅、2010年6月に春のプリンス・エドワード島への旅に出ました。

一生懸命に働いて働いて働いて、やっとこさプリンス・エドワード島の灯りが見えて来た時は、本当に嬉しかったです。私を優しく迎えてくれました。
はじめてプリンス・エドワード島を訪れた時のこの幸せ感を今も体がおぼえています。
旅日記があるので、もう少し先に載せて行こうと思います。


妹とのお別れから10カ月になろうとしている頃の私も本当にぎこちなくてみっともないですが、普通に暮らしていこうと必死でした。

「1995年6月11日(日)

梅雨の晴れ間の良い天気、昨日、今日とさわやかだ。
窓際に机をおいて、休日の夕暮れ時は、そこで過ごすのが最高のひとときだ。
日当たりがよくて見晴らしがきいて、ほんとに嬉しい。
ここ一カ月ほどは、毎週のように、芝居、ミュージカルをみていた。さすがに疲れて、
この2日間は休憩。
中でも『回転木馬』の台詞がひとつひとつとても心にしみてきて、よかった。
自分の中でかみしめているうちに、フィナーレになってしまったので、次回は、
もう少し、じっくり楽しめたらいいなと思う。8月も9月もいきたいな。
仕事は相変わらず、精神的になかなかキツイ。
自分の仕事のペースがおそいのか、時間がかかるものなのか不安だ。
がんばろうと思う。活字好きがやっとその分野の仕事に就いたのだし、逃したくない。
なんとかなるだろう、って気楽に考えてサ。
YクンにTELすると、つい本音が出て暗くなってしまう。いつもすまないと思う。」

旅の思い出写真_ドイツライン川の旅

2014年06月21日 22時55分28秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
2007年10月20日(日)から27日(土)まで、大手旅行会社の、ドイツロマンティック街道・スイスアルプス・パリを巡る周遊ツアーに一人参加しました。

ツアーは私の性分には合わないので食事時間など妙に緊張してしまいましが、英語圏ではないので言葉の問題があるし(英語圏でもしどろもどろですが・・・)、個人的に巡ろうとすると大変なので、それはそれでよかったかなと思います。

1月に国家試験を受験した後、有給休暇を使い果たしたために9月30日までカレンダー通りに出勤し続け、一生懸命に働きました。10月1日付でようやくまた有給休暇が発生するのを待って、試験に合格することができたので、がんばった自分へのちょっと贅沢なご褒美の旅でした。こうして年に一度は旅に出ることで、心のバランスをとろうと必死でもありました。

旅日記はないので、写真をぼちぼちと載せて行こう思います。

出発日は成田空港からフランクフルトに到着して市内のホテルに宿泊。
翌日がライン川のクルーズでした。リューデスハイムからサンクト・ゴアースハウゼンまで、
約1時間50分の船の旅でした。
写真は船の中からの一枚です。

ご一緒した女性の二人連れとお喋りしたりしながらの楽しい時間を過ごしました。
10月後半ですが、すでに風は冷たく、甲板に長くいることはできませんでした。

前日フランクフルト市内のホテルに到着した後周辺を散歩しましたが、
日本では12月ぐらいの寒さで木々の黄葉が色鮮やかでした。
ヨーロッパの冬の厳しさを感じました。


今の私にとっては、こうしてがんばった自分を思い出すことが大切なのかもしれません。
業務過多の日々を、歯を食いしばって本当に一生懸命働き続けた自分をあらためて振り返っています。

混乱はかなりのエネルギーを消耗しますが、妹がきっと守ってくれている、
「姉ちゃんがんばれよ」と背中を押してくれていると信じてふんばり続けたいと思います。



妙な緊張感のなかで過ごす平日が過ぎ、ようやく週末になって、また少しほっとしている私がいます。
働いていない状態は罪悪感を感じてしまって、まだまだ慣れることができないですね。




なかなか・・・

2014年06月19日 14時00分05秒 | 日記
混乱の終結までにはまだ時間がかかりそうですが、ここまできたので辛抱、辛抱。
わたし個人だけの問題にはとどまらないので、がんばる、がんばる。

昨日数か月ぶりに銀行の窓口に行って、またなんだか難しいことになっているなあと
感じました。
働いている間は、平日そういう時間がなかったので、ほんとに久しぶりでした。
以前は、行く窓口によって自分で番号札を取って待っていればよかったのが、
まず係りの人に用件を伝えて、その人が番号札を取り、書類の記入も手伝う仕組みになっていました。
私にはちょっとうるさい感じがしてしまったのが正直なところでしたが、いろいろと問題も起こっているので仕方ないんでしょうね。

口座解約の際にも本人確認の資料を求められたので、窓口で対応してくださった方に、「私も大昔銀行で働いていましたが、世の中が複雑になってきて、銀行の仕事も複雑になり大変ですね」、と声をかけてみました。

銀行員「そうなんですよ。どんどん厳しくなってきています。以前は家族が代理で口座解約できましたが、今は本人でないと解約できないようになりました。」

私「そうなると認知症や精神障害によって自分で手続きできない人も出てくるから、成年後見制度のことなどもわかっていないと、銀行の仕事もできないということですね。」

銀行員「よくご存知ですね。」

なんだか世の中の仕組みがどんどん複雑になってきている一方なので、働いていくことが、生きていくことが難しくなってきたなあとあらためて感じました。

これからどう生きていけばいいのか、答えは簡単には見つけられそうにありません。
まずは終わらないと考えられないかな・・・。少しずつ考えていかないといけないのですが、
今は考えられるスペースがありません。


卒業論文の参考資料からまた拾ってみました。


「OLは、「男性」に対する対句として「女性」と呼ばれるのと同じくらい、あるいはもしかしたらそれ以上に、「女の子」と呼ばれる。個々の部や課の中ではもちろん名前で呼ばれるけれども、部外や他社の人にとっては単なる「女の子」である。だから、男性はよく「うちの女の子に取りにいかせるよ」とか、「女の子がミスしちゃってね」とか言う。
(略)
OLを「女の子」としてくくるのは、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと考えることができる。
OLを男性社員と比べ半人前とする考えは、多くの日本の職場における種々の実践的行為のうちに繰り返し見出すことができる。その中には社内の規則として公認されているものもあるが、大部分は、暗黙のルールとして存在しているようだ。一例をあげると、社内結婚のときに女性側が退職をする慣習がある。退職が規則で義務づけられているわけではないが、慣習として、男性は仕事を続け女性は退職することになっている企業が少なくない。
(略)

 さらに男性と女性の差を意識させられるのは、自己管理権・自己決定権の領域においてである。(略)男性社員は、自分の判断で勤務時間中に部外者と会うことができるが、OLはできない。もちろん、OLの自己管理・自己決定権の欠如は、何も時間だけとは限らない。女子社員に制服を課しているところでは、女性は服装についての自己管理・自己決定権が奪われていると言うことができる。その上、いっしょくたに「女の子」として扱われているOLは、個人の仕事ふりもなかなか尊重されずにいるらしい。たとえば、OLが書いたレポートが、統括する男性の名前で発表されたりする。OLが会議に出席し、自らのレポートを説明する機会があたえられることは珍しい。ましてOLの名前が仕事の最終責任者として公式の記録に残ることはめったにない。組織の中でのOLは、本当の意味での名前を持たない存在なのである。(略)OLの仕事はどこまでいっても「世に出る」ことはないのである。
 
 インタビューをした多くの女性が、OLであることで一番屈辱的なことの一つにこの「名無しの存在」があると話してくれた。男性社員は個人として扱われている。おのおのの男性は個別に評価され、その働きに応じて加点されたり減点されたりする。一方OLは、「女の子」としていっしょくたに扱われ、個人としてあまり尊重されていない。だから、ある女性が仕事でミスを犯したことが、「いやあ、うちの女の子がミスしちゃってね」と表現されてりする。いったいどの女性がミスを犯したのか、具体的に知りたがる男性はそう多くない。同様に、どの女性がどんな素晴らしい仕事をしたかについても、一般的に関心がうすい。
 
 実際、個々のOLの仕事ぶりを真剣に評価しようとする企業は少ないようだ。(略)OLにとって業績評価がいかに有名無実なものであるかは、インタビューをした多くの女性が繰り返した「よほどのことがない限り」あるいは「よほどのことをしない限り」(業績評価の上がり方はみんな同じ)という表現からもうかがい知ることができる。
(略)
 
 アメリカの企業で働く女性秘書は、通常、厳密な業績評価を免れることはないし、また工場で働く女性労働者もしかりである。なぜOLのみが、「よほどのことがない限り」安穏としてられるのか、考察の余地がありそうだ。そもそも、一般的に言ってアメリカと日本の企業では、なんのために社員の業績評価を行うのかが異なる。アメリカの企業において業績評価は、毎年上司とのあいだで行われる年棒交渉のための重要な資料である。しかも、ふつう、この年棒交渉の対象者は、役職者などの一部の社員に限られない。秘書の年棒も、その仕事ぶりがどのように評価されたかによって毎年交渉の上で決定される。(略) 日本企業の場合、より一般的な業績評価の使徒は、年棒交渉のための資料ではなく、社員選抜のためのデータであると考えられる。(略)日本の企業でも男性社員の仕事ぶりは注意深く見守られ厳しく査定される。しかし、そしてこの点が今のところ重要な日米の相違となっているのだが、日本企業の査定の結果は、多くのアメリカの企業のように毎年の年棒にそのつど反映されるというよりは、より長い時間をかけ「選抜」という形を通して現れるということである。そうであるとすれば、なぜOLが男性社員のように真剣に評価されないのかの理由も想像がつく。OLは一般に勤続年数が短いと考えられているし、そもそも多くの日本の企業は、OLを「選抜」して登用するつもりがないのであるから、その観点からすれば、OLの業績評価は無意味ということになる。」


(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1988年発行、15-21頁より抜粋して引用しています。)









がんばりすぎたかな・・・

2014年06月18日 09時55分30秒 | 祈り
ブログへの訪問、ありがとうございます。

一生懸命に働き続けて、気がつけば13年間が過ぎてしまっていました。
振り返ればあの時こうしていれば、というタイミングがいくつかありますが、過去のことを
悔やんだりしてもどうなるものでもありません。

どこでどうしていることが正解だったという答えはどこにもありません。
今のタイミングでこうなったことは、こうなるべくしてなったことだと受け入れていこうと思います。

気持ちを精算していくために、2007年の国家試験合格までの振り返りはもうしばらく続きます。
よろしければ引き続きおつきあいください。


2006年12月3日(日)

 模擬試験受験

2006年12月4日(月)

 実習ノートを書き上げた。

2006年12月5日(火)

 実習ノート提出。

2006年12月17日(日)

「心理学」スクーリング

2006年12月18日(月)

「法学」スクーリング

2006年12月19日(火)

「社会学」スクーリング

(実習のためにたくさん休んだ後にまた休みをとることを申し出たら、上司にすごく怒られ ました。
それでも理由を言わずに、言わなくても休めるように、その分休む前に働いてなんとか休みをとりました。
15日の金曜日の夜、タイムシートにサインをもらって派遣元にFAXで送らないといけなかったのですが、送らないと給料をもらえないのですが、忙しさから忘れてしまいました。この日気がついて、社員の人にメールでフォローを依頼しました。)

2006年12月23日(土)-24日(日)

 試験前の最後の心のお休み時間を求めて、石垣島に行きました。
 
2007年1月7日(日)

「法学」レポート提出

2007年1月8日(月・祝日)

「社会学」レポート提出

2007年1月18日(木)

 具合悪くなって早退。
(この時職場でせき込み始めたらとまらなくなってしまい、体も震え始めてとまらなくなってしまいました。空調の風が直接あたる席で乾燥もひどくてきつかったですね。
職場近くの町医者で薬を出してもらって、その日は帰りました。)


2007年1月25日(木)

 具合悪くて早退。
(どういう状況だったのか思い出すことができず自分でも驚いていますが、
タイムシートをみるとたしかに夕方5時で仕事をあがっています。)

 
2007年1月26日(金)

 有給休暇取得

2007年1月27日(土)

 国家試験受験一日目、専門科目

2007年1月28日(日)

 国家試験受験二日目、共通科目

(試験会場は都心。体の負担を減らし、直前の勉強時間を捻出するために近くのビジネスホ テルに宿泊しました。
試験会場では、机の上には鉛筆と消しゴムしか置けなかったと思いますが、足元のカバン
には妹の写真をしのばせてのぞみました。
守ってくれるようにと心の中で手をあわせながら受験しました。)

2007年4月2日(月)

 国家試験合格通知を受け取る!!
(帰宅したらマンションのポストにA4サイズの封筒が入っているのが見えました。
合格したら協会の登録証が同封されているので封筒のサイズが大きいと専門学校の人から
説明を受けていたので、ドキドキ・・・。
開封したあと、すぐにカウンセラーのY先生にお電話しました。
誰よりも、もしかしたら私本人よりも、ずっと励まし続けてくださったY先生が合格を喜んでくださいました。)

2007年4月12日(木)

 試験センターに登録申請書を発送。

2007年4月29日(火)

 精神保健福祉士登録証受け取る。



長くなりますが、手帳に記録している心の揺れ動きも書きます。

「2007年6月9日(土)

土日に静かな心の揺れ動きがあった。
月にたった2回、ボランティアグループに行く。
それだけのことなのにいろんなことがある。
みんなかけがえのない、一人一人の人間なんだ。
私もその一人。
こうして、できる範囲でウダウダとしながら、PSWという仕事の重さ、
深さを感じ取っていきたい。
この2日間の心の動き、気づきはとても大切なことだったと今気づいている。
涙はとまらないが、悲しみの涙ではない。
ただ、どうしても涙があふれてきてしまう。
それでいい。
そんな自分を大切にしていこう。」


「2007年9月8日(土)

土曜日は危険。疲れ果てて集中力がない。
定期券とパスネットを落としたのに、気づいていなかった。
いい人に拾われてよかった。感謝!!」


受験までのプロセスで有給休暇を使い果てしてしまい、9月末までがんばらないと有給休暇はもうつかなかったので、真夏も疲れ果てた体に鞭を打ってカレンダー通りに出勤し続けました。
オーバーワーク状態は続いていたので、集中力を欠いてクレジットカードを落としたり、
受験から2-3か月は、視神経のある首筋の痛みがひどくて、ティーカップをもちあげようとすると痛みで手が震えてきていました。


7年前にここまで必死にがんばったことは、きっと私にとって何か意味のあることなんだと思います。
それが今はまだわからない。でも終わって、気持ちの整理がついてきたとき、きっとみえてくるものもある、妹と母が教えてくれる、そう信じ続けてまずは精算を目指して進んでいきます。



一生懸命働いたからこその旅の数々でしたね。
きっとまたプリンス・エドワード島が私を呼んでくれる日も訪れるだろうと思います。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。






 






旅の思い出写真_パラオの海

2014年06月17日 15時18分18秒 | 小さな旅の思い出
自分でも忘れていましたが、国家試験受験に向けて勉強している真っ最中のGW、2泊3日でパラオに行きました。
個人向けツアーに一人で参加して、今思うとよくそんな勇気があったなもんだと我ながら驚きますが、体験ダイビングにも思い切って参加しました。
仕事と勉強、秋には実習も控えており、つかの間の心のお休み時間を求めて必死だったんだと思います。

5月2日の夕方、仕事を終えた後、成田空港近くのホテルに宿泊し、翌朝グアム島経由で旅に出ました。
往復は一人で、現地の日本人がやっているツアー会社の人にお世話していただきました。日本との時差がないので、体は楽でした。

ドルフィンパシフィックというイルカと触れ合うことができるプログラムでは、イルカに癒されました。

自分で撮った写真はありませんが、体験ダイビングでご一緒した女性が送ってくれた写真から載せてみます。
よろしかったらご覧ください。


海の中は、巨大なえのきだけやマッシュルームのようなサンゴ礁がいっぱいでした。






ほんとにがんばった

2014年06月16日 11時09分19秒 | 祈り
ブログへの訪問、ありがとうございます。

13年間の精算の最終段階に向けて(まだ最終になるかどうかはわかりませんが)、自分の気持ちの整理もようやくできてきました。

振り返ってみると仕事と勉強の両方を本当にがんばった日々でした。
それだけに、実態がなかなか通っていかないのはなんともやりきれない、力が抜けてしまいそうな感があります。
大きな組織の力の前に、いくらがんばっても一個人の存在は風が吹けば飛んでいってしまうに等しいようなものであったことをあらためて思い知らされました。私は非正規だったので、なおのこと簡単でしたが、それは雇用形態には関わらないことなのかもしれません。

ずっとそこにいたいのかときかれればよくわからない、私自身の中途半端さもよくなかったですが、特別なにかがあったわけではない、おそらく年齢が高くなったことで価値が下がったとみなされた、そういう結末になったことは残念で、悲しいです。

私自身の気持ちの中を精算していくために、今こうして振り返り作業を一生懸命にやっています。
平日は相変わらず居心地が悪く、パソコンを持って彷徨っています。
暑くなってきたし、身体への負担もかかるのできついですね。
でも、もう少しこのままがんばります。

精神保健福祉士の勉強の内容自体は忘れてしまっているし、古くなっているのでもう一度
勉強し直す必要があります。
ただ、勉強していく過程で自分の気持ちと向き合っていくことが私には必要だったんだと
思います。なかでも、施設での実習は大きな意味がありました。
施設は休日のサイクルと朝の始まり、昼食の時間帯が普段と違っていることがまず大変でしたが、母が統合失調症であることを受け入れることができずに、すごく苦しかった自分から、実習を経てようやく抜け出すことができました。
秋に実習・受験対策講座出席・仕事と振り返れば信じられないような無理を自分にさせてしまいました。
そんな2006年の日々を辿ってみたいと思います。

よろしかったら引き続きおつき合いください。

スクーリングに出席するために、休日、己に鞭打って分厚いテキストが入った鞄をもって電車に乗り、疲れ果てた様子でじっと坐っているとからかわれたことがあります。今だから笑って思い出せます。


2006年1月2日(月)

「精神保健福祉士援助技術各論」レポート提出。12月分のレポートをなんとか投函した。

2006年1月22日(日)

「精神保健福祉援助演習」レポート課題①終了

2006年1月30日(月)

「精神保健福祉援助演習」レポート終了。がんばった。

2006年3月2日(木)

「精神保健福祉援助技術各論」スクーリング。

2006年3月3日(金)

「精神保健福祉援助演習」スクーリング。

2006年3月4日(土)

「精神科リハビリテーション学」スクーリング。

2006年3月5日(日)

「精神保健学」スクーリング。

2006年年3月25日(土)

「地域福祉論」レポート提出。

2006年4月24日(月)

「社会保障論」レポート提出。

2006年5月3日(水)-5日(金)

 パラオの個人向けツアーに参加して旅に出る。

2006年5月30日(火)

「医学一般」レポート提出。

2006年8月13日(日)

「精神医学」スクーリング。

2006年8月20日(日)

「医学一般」スクーリング。

2006年8月21日(月)

「社会保障論」スクーリング。

2006年8月22日(火)

「公的扶助論」スクーリング。

2006年8月23日(水)

「地域福祉論」スクーリング。

2006年9月10日(日)

「公的扶助論」レポート提出。

2006年9月18日(月)

「心理学」レポート下書き。

2006年9月23日(土)

 受験対策講座受講「地域福祉論」

2006年9月24日(日)

 受験対策講座受講「社会保障論」

2006年10月1日(日)
 
 「心理学」レポート提出。
 受験対策講座受講「公的扶助論」

2006年10月8日(日)

 受験対策講座受講「社会福祉原論」

2006年10月9日(月)

 受験対策講座受講「心理学」

2006年10月15日(日)

 受験対策講座受講「社会学」

2006年10月19日(木)

 有給休暇をとって実習の準備をようやくやった。

2006年10月20日(金)

 実習一日目。

2006年10月21日(土)

 実習二日目。

2006年10月22日(日)

 受験対策講座受講「医学一般」

2006年10月23日(月)

 実習三日目。

2006年10月24日(火)

 実習休み。有給休暇で体を休める。

2006年10月25日(水)

 実習四日目。

2006年10月26日(木)

 実習休み。有給休暇で体を休める。

2006年10月27日(金)

 実習五日目。

2006年10月28日(土)

 実習六日目。

2006年11月3日(金)

 受験対策講座受講「法学」

2006年11月5日(日)
 
 受験対策講座受講「精神医学」「精神保健学」

2006年11月12日(日)

 実習七日目。

2006年11月13日(月)

 午前中休んで、午後出勤。

2006年11月14日(火)-17日(金)
 
 出勤

2006年11月18日(土)

 実習八日目。

2006年11月19日(日)

 受験対策講座受講「精神保健福祉論」

2006年11月20日(月)

 実習九日目。

2006年11月21日(火)

 午前中休んで、午後出勤。

2006年11月22日(水)

 出勤

2006年11月23日(木)祝日、職場も施設も休み、

 力尽きて受験対策講座はパスせざるをなかった。

2006年11月24日(金)

 実習十日目。

2006年11月25日(土)

 実習十一日目。

2006年11月26日(日)

 力尽きて受験対策講座はパスせざるをなかった。

2006年11月27日(月)-28日(火)

 出勤

2006年11月29日(水)

 実習最終日。やり通した。

2006年11月30日(木)

 午前中休んで、午後出勤。


頭がクラクラしてきましたね。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
2006年はもう少し続きます。


プリンス・エドワード島の春は6月。
こんな青空と海が今年もひろがっているでしょうか。


がんばった

2014年06月15日 09時14分09秒 | 祈り
精神保健福祉士の受験に向けて、専門学校の通信教育で勉強を始めたのは
2005年の4月でした。
職場では完全なオーバーワーク状態の日々。
毎日は出社しない、責任感もないパートタイマーの女の子と二人で、隣の部署では
社員と派遣社員とでやっていること以上の業務をこなさなければなりませんでした。
当時の上司が厳しい方で、プレッシャーも半端ではありませんでした。
でも、2007年1月末の国家試験受験まで、一言も事情を話すことなく、二人分の業務をこなし、スクーリングと実習で休むためにさらなる業務をこなし、全てをやり抜きました。


その先にどうしようということは何も考えていませんでした。
ただ、カウンセリングスクールの「精神医学」の講義でそうした資格があることを知り、
妹の自死のこと、母の病気のことを受け入れられる自分になりたいという思いだけで
一心に走り続けました。
この時のがんばりが私にとって、どんな意味をもっているのか、
この時のがんばりをこれからどう大切にしながら生きていけるのか、専門家協会もやめてしまったし、今はまだ見えてはきません。

手帳の記録から、一度書いていることもありますがもう一度辿ってみます。
よろしかったらおつき合いください。


2005年4月29日(金)みどりの日

疲れが出て辛い一日だった。でも、がんばってテキストを読み進めようとした。


2005年5月30日(月)

「社会福祉原論」レポート提出


2005年6月26日(日)

「精神医学」レポート提出

2005年8月17日(水)-21日(日)

バンクーバーへ三泊五日で行った。

2005年8月27日(土)

スクーリング「精神医学」

2005年8月28日(日)

スクーリング「精神保健福祉士援助技術論」

2005年8月29日(月)(有給を使い果たし無給休暇)

スクーリング「社会福祉原論」

2005年10月31日(月)

「精神科リハビリテーション学」レポート提出

2005年11月20日(日)

「精神保健学」レポート①ようやく終了

2005年11月27日(日)

「精神保健学」レポート②下書き終了、とにかく書いた。

2005年11月30日(水)

「精神保健学」レポート提出


「2005年8月20日AM11:01 バンクーバー空港にて

短かったカナダでの滞在は終わりに近づいている。
ゆるやかな時間は終わり、現実だけが私を待ちうける。
私は立ち向かわなければならない。
疲れ切った私の顔が、少しゆるやかになったようだ。
束の間の心のお休み・・・。
疲れるが、旅はやめられない。
いろんな所に行ってみたい。
さわやかな緑の空とお別れ。
日本に帰るのは、本当に辛い。
でも、きっとまたくる。

無理をしているが、無理をするのももう限界にきているが、へこたれてはいられない。
生きている限り生きるのだ。

ハードな毎日が待っている。
ゆるやかな時間は終わり。
がんばれ、がんばれ、と私に言わなければならない。
がんばりすぎずにがんばれ、私。

さよなら、カナダの空。
きっとまたくる。」


「2005年11月7日(月)

毎朝起きると胃が痛くてたまらない。
ソラナックスをできるだけのまないようにがんばっているが、無理しているのか。
朝晩の冷え込みと、昼間の冷房で身体が冷え切っている。
こんな不自然な生活からは抜け出したいと思いながらいつかなうことやら・・・。

眼の疲れもひどいし、これで国家資格を取ろうなんて大変な道を選んだものだ。

一週間ははじまったばかり。
がんばれ、わたし。
無理するな!」


「2005年11月

精神保健学のレポートに思いの他手間取っている。
終わればスクーリングの準備、そしてまたレポートと息つくヒマもない。
昨夜、25年前のシルクロードのテーマ音楽をきき、思春期の頃の色んなことへと興味の翼が
広がっていった自分をなつかしく思い出したが、それと共に愚かだった、いきなり社会へ放り出されたあまりにも幼い自分を思い出すことでもあり、妹、母、父へと思いはつながっていって、苦しくなった。足の痛みもあって、寝苦しい夜となった。
なぜ妹は死ななければならなかったのか、その答えはみつからない。
必ずしも物事には明確な答えが存在するわけではない。
あいまいなものをあいまいなままに私は受け取めていかなければならない。
PSW(精神保健福祉士)という仕事は、これまで私の中に蓄積されてきたもてるものを発揮できる仕事かもしれない。
苦しいが40代前半のうちにまずは講座終了をめざすこと。
がんばれ、私。
英語の勉強もしたい。」

振り返りはまだ続きます。
こうして人生の棚卸を進めた先に、次に進むべき道が見えてくると信じて進んでいきたいと
思います。




「大草原の小さな家」への旅_ミズーリ州マンスフィールド(ローラとアルマンゾの家)

2014年06月14日 16時27分18秒 | 「大草原の小さな家」への旅
2013年9月の「大草原の小さな家」への旅から、また一枚だけですがアップします。

アメリカ南部ミズーリ州マンスフィールド、ローラとアルマンゾが暮らした家の外観です。

ローラが作品のほとんどを書き、最期を迎えたこの家は、ほとんどが夫アルマンゾの手作りで
あたたかさに満ちていました。
こうして外観だけですが写真をあらためてみて、旅日記を読み返してみると、その時感じたあたたかさが体の中によみがってきます。

紫陽花がきれいですね

2014年06月13日 09時45分03秒 | 日記
道端の紫陽花の花がきれいに咲いていますね。
以前は忙しくて気づくことがなかったかもしれません。
余裕がなさ過ぎましたね。


過去の手帳の整理をしています。
二人分働きながら卒業論文を書いて、そのあとカウンセリングスクールに夜間通ってと
がんばっていた頃です。
2003年11月30日(日)に徹夜して最終仕上げをした卒業論文を郵便局から荷物として
大学宛に発送しました。


その少しあとの12月12日(金)に、スポーツクラブの帰り道、車にはねられそうになった、と
記録しています。
思い出しました。疲れてふらふらと歩いていたら、タクシーとぶつかってしまいました。
駅前の狭くて、タクシーや人でごったがえしている所でした。
幸い大事に至ることはなにもなく、私の体も無事でしたがそのあとしばらくドキドキが続きました。妹が守ってくれた、そんな実感がありました。


わたし、本当に疲れていましたね。
仕事だけでも十分すぎるぐらい疲れていたところを、なおその上に実際に働いてきた職場には一切言わずに勉強もしていたのですから、我ながらあらためてびっくりです。
当時の上司が厳しい人で、プレッシャーも半端ではなく、本当にきつかったです。
気力で乗り切ってきました。
よくやれましたね。


今の混乱の最後の山場がもう少し先に待っています。最後になるといいですが、相手次第なのでどうなるのかまだわかりません。こうしたことは本当にエネルギーを消耗します。意義を申し立てるのに相手が相手ではこうなるしかなかったということなんでしょう。


生活をかけて長くがんばってきたんです。自分できちんと納得するまでにはこれだけのプロセスが必要でした。納得できないままあきらめていたら後悔を引きずっていくことになっただろうと思います。


去年まで毎年健康診断の結果に痩せすぎ、と書かれていたのですが、最近少しふっくらと
してきたようです。混乱が少しずつ進んできて、体が元気を取り戻しつつあるということでしょう。落ち着いたら、心血を注いで書いた卒業論文をこのブログに載せていこうと思います。書きたいエネルギーが止まりません。


よろしかったら引き続き訪問してください。


これからのことは本当に今はわかりません。
組織に頼らない生き方をするという選択肢がわたしにあり得るのでしょうか。
自分の力で、一円でも稼ぐことが私にできるのでしょうか・・・。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(8)

2014年06月12日 22時34分16秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん

6月3日からの続き

漁場に着くと、慣れた手さばきで網が引き上げられて行った。引き上げた網を、船に備えたロープで固定する。くるり、と片手が小さく動かされると結び目が出来、網をつないだ。
港で生きていることがよくわかる技だった。安藤さんが流されながらもケーブルをつかみ、助かることが出来たのも、この手の動きだった。海はどうしようもなく荒ぶることもあるが、普段から生き残る力を与えてくれているような、そんなことを思っていた。そんなことを思ううちに、考えていたよりゆっくりと、魚は網に追い込まれていった。おこぼれにあずかろうと、海鳥もよってくる。網が狭くなり、銀の魚体がみえるようになってきた。大きなエイもかかっている。エイは見ている方はおもしろいが、売り物にはならないので邪魔者である。本日は残念ながら大漁とは行かなかった。それでも、昨日や一昨日の夕食に並んでいた魚たちが引き上げられていくのは見応えがあった。早起きしてよかった。すっかり日が昇った帰りがけには、昨晩遊佐さんが言っていたような沖から見る港の景色が見えた。なるほど、林の途中が急に崖になっていたり、岩肌が崩れた跡があちこちの岸に見えた。地盤が沈んでしまい、かさ上げしたという港の様子もよく見えた。ガレキ処理の船で運びきれず、浜に一つ残されたコンテナがぽつんとたたずんでいた。おそらく、何か起きない限りはずっと置いておくしかないのだろうと遊佐さんは言っていた。誰も行かない浜の、たった一つのガレキである。ガレキの一部は既に拒絶も排除もされない、風景になりつつあるのだと感じた。港に戻り、魚を降ろす。放射性物質の基準値を超えた例があるというので、フグだけ海に投げ返された。食べればおいしいが、原発事故後に新たに出来た基準値が厳しいために食べてはいけないのだという。この基準値は、事故前や、海外のものよりずっと厳しいという。理不尽なものだ。そんな会話を、急に引き上げられて浮き袋の調子が悪いのか、なかなか海に沈めずにいるフグを皆でしていた。

 最終日は民宿の方々にお礼を言いつつ、荷物をまとめバスに乗り込んだ。合宿の最後の見学先、大川小学校に向かった。児童・教職員84名が亡くなった場所である。バスに乗り、北上川に突き当たる。何も無い、何も無くなってしまった河原の途中に、大川小学校はあった。バスから降り、建物を直視したときの気持ちは、これでは何も考えてないのと同じだが、言葉に出来ないものであった。2クラスは入る広い講堂や、カーブを描いた校舎。体育館の前には扇形のステージと客席がある。確か、戦後に流行した円形校舎の利点を詰め込んだ、1980年頃らしいモダンな建築だ。かつてはきっとユニークな、楽しげな校舎だったのだろう。しかし、鉄筋コンクリートの渡り廊下はねじれるように折れ、倒れている。壁が引きはがされ、教室は剥き出しになっている。ガレキはきれいに取り除かれてしまったが、がらんと骨組みが残されたその姿は、突然にして失われたすべてを思わせ、吸い込まれてしまいそうな悲しみをたたえていた。何か、気持ちを表さなくては。そう思い、校庭に設置された慰霊碑と、祭壇の前で黙祷をささげた。大川小学校は被災した直後、西にある山に登るか、近くの橋のたもと、小高い三角地帯を目指すかで迷い、結果として多くの命が失われたという。その判断が、迷いが糾弾されてしまった。なぜ、山に登るというただそれだけのことが出来なかったのか、この地で生き延びる知恵を忘れてしまったのかと。しかし、この校庭に立つと、何を責めることもできないと思わされた。まず、津波が登ってきた北上川は堤防に隠れていて、校庭から見ることはできない。さらに、読んだ本によると、県の災害予測ではここまで津波が来ることは無いとされていたのだという。これでは、水辺に建っているという意識が薄れてもおかしくはないだろう。だいたい、隣にあるのは海ではなく、川なのだ。誰が津波に襲われると思うか・・・。目指していた三角地帯は結局津波に吞まれてしまった。だから山にのぼるべきだったと言われているが、対案であった山側も、子供が登れそうには見えない・・・。では、どうすべきだったのかといえば・・・。建物の上に逃れればいいのだろうか。しかし、この学校には屋上が設計されていない・・・。きっと、時間のすべてを使って、山道を何としてでも登るか、出せる車すべてに児童を乗せて迅速に川上を目指すか、といった道しか残されていなかったのだと思う。そもそも、何十年もここで生きてきた人々を裏切るような大災害だったのだから・・・。何を言っても、失われたことを何も変えることができない。無力感に打ちのめされた。何かできることがあるとすれば、ここで、これほどの内地に水が来たことがあること、ここで亡くなった命があることを伝えていく他ない。日常は、非常識な、予測不可能なものによって崩れ去るということを覚えておくしか無いのだと考える他無かった。安藤さんが、東北の海を防波堤で囲ってしまつ計画が国ではあるらしい、という話をしていた。そんな堤防があったら、海は見えなくなるだろう。海との関わりも薄くなる。そんなものを作ってはいけないと、この大川小学校の堤防をみて思った。北上川の堤防はきっと必要だった。しかし、それとは別に重大なものを覆い隠してしまっているように思えた。自然は、思いのままにはならない。自然と向き合うことがなくなれば、きっとこのことを忘れてしまう。自然とは常に向き合って行かなくてはならない、この、大川小学校の悲劇と向き合わねばならないように。
 
 再び黙祷し、大川小学校を離れる。バスは一日目と同じシュッピングモールに向かう。」

(2014年3月20日、慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)