カケラノコトバ

たかあきによる創作文置き場です

終章・犬使いの果実

2016-02-07 22:11:29 | 犬使いの果実

 ずっと長い間、ヨナスにはどうしても判らなかった。
 どうして犬使いの果実を口にしたものは、その殆どが死んでしまうのだろうと。
 果実に通常の意味での『毒素』は含まれていないし、かれらの死因は大概が自ら舌を噛み切った事による窒息死だったのだ。
 だが、今、こうやって握り締めた果実を見詰めながら、ようやくヨナスは理解した。

 犬使いの果実とは、つまり覚醒の果実なのだと。

 この果実を口にしたものは、己が一体何者であるのかを容赦なく意識上に引き摺り出される。そしてそれは大概、思う自分になれぬまま現実と言う名の泥沼を這いずる、この上も無く滑稽で惨めな姿として認識されるのだ。だから大概のものは、この時点で耐えられずに己の舌を噛み千切る程に苦しみ抜いて死ぬのだろう。
 そして、残りのごく僅かなものはそんな己の意識を捨て去り、何か別の存在へと変成する。そして嘗ての己とは全く違った存在として生きて行くことになるのだ。嘗て優秀だった犬が殆ど助からなかったのも、なまじ優秀だった己の存在を全否定することや、全く別の何かに変わることが出来なかったからに違いない。

 だから、犬使い以外の何者にもなれない自分はきっと今、ここで死ぬのだ。

 そんなことを考えながら、ヨナスは躊躇いなく己が手にした果実を口元に運び、そのまま囓った。

*   *   *

 今より少しだけ昔、一年の殆どが雪と氷に閉ざされる北の国は冷酷な独裁者の一族に支配されていました。
 独裁者達は長年、悪魔のように知恵の回る犬を操る犬使いを使って国民の心を恐怖の鎖で縛り上げて来ましたが、そんな犬の牙から辛くも逃れ、顔に酷い傷を負いながらも他国に亡命した若者によって、やがて政権を解体されることになりました。
 しかし、独裁者一族の配下にあった犬使いは捕縛の手が伸びるより早く己の館に火を放ち、余りに火の周りと勢いが酷かったので、そこに居たはずの犬使いも、また犬たちも、骸一つ見付けられなかったと言うことです。



犬使いの果実・終

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ヨナスとペートイック・その2

2015-01-24 15:41:05 | 犬使いの果実
 犬使いとなったヨナスと彼が使う犬たちは、彼の父を含めた代々の犬使いがそうであったように極めて優秀な猟師と猟犬になった。
 ただし狩るのは獣ではない。祖国において重要な役割を持ちながらそれを放棄して国外に逃亡しようとする人物、及びその関係者だった。それは曾祖父の代から続いている『仕事』であり、ヨナス自身も疑問に思ったことはない。何よりヨナスに下されるのはあくまで対象の捕獲で、余程のことがない限り彼の犬が人を殺すことはなかった。
 そしてヨナスは彼と彼の犬に『仕事』を命じた政府の目的も、彼が狩り出した相手が何を考え、どのような事情を抱えているのかも全く頓着することはなかった。彼は自分が国に雇われた猟師であると認識し、自分の犬を使って『狩り』を遂行するだけの存在だった。
 そう、あの日でさえも。

 犬たちが追い詰めた『獲物』の背には切り立った崖。その遙か下には岩を砕く激流。
 逃れようのない状況下でありながら、それでも眼前の『獲物』であるペートイックの表情に怯えは見られなかった。
「……やはり君が来たか、ヨナス」
 懐かしい筈の友人との再会に、ヨナスは表情を消し去ったまま言った。
「このまま大人しく連行されるなら、不必要な危害を加える気は無い」
 しかし、ペートイックは微笑みに見えなくもない表情を浮かべながらゆっくりと首を横に振った。ヨナスは更に続ける。
「せめて、お前にだけは危害を加えたくない」
 直後にペートイックの表情が歪む。ヨナスが己の失言に気付いたときには手遅れだった。
「そうか、義父はもう、殺されたんだね」
「俺の犬が追っていたら、絶対にそんなへまはさせなかった」
 今となっては無意味な、しかし言わずにはいられなかったヨナスの弁明に、今度は微かに頷いてみせるペートイック。
「勿論だよ。君も、君の犬たちも、とても優秀だからね」
「それが判っているなら」
「ところで君にも話したことが無かったが、僕は義父に引き取られるまで国の教護施設で暮らしていた」
 正直、あそこでの生活はあまり思い出したくないと続けるペートイックの話に、ヨナスは犬たちの待機状態を解かぬまま無言で続きを促す。
「確か僕が七歳になる少し前だ。その日、養護施設で食事を摂った人間のほぼ全員が死んだ、大人も子供も血を吐いて苦しみながら、みんな死んでいった……僕一人を除いて」

 血ヲ吐イテ、苦シミナガラ
 ミンナ、死ンデシマッタ

 ヨナスの脳裏に浮かぶのは『選別』の光景。
 犬使いの果実を与えられ、死んでしまった沢山の子犬たち。
 あの時までヨナスが一番可愛がっていた子犬、どうかこの子は生き残りますようにと何度も祈った子犬すら、結局は助からなかった。
「……まさか」
 やっとの思いで掠れるような声を絞り出すヨナスに向かって、ペートイックは更に言葉を重ねる。
「この国からの逃亡準備を整えてから、義父は『悪魔の所業に手を貸した自分を許してくれ』と泣きながら跪いたよ……僕は、義父と一緒に暮らせてとても幸せだったのにね」
 いつの間にか、灰色の雲が重く垂れ込めた空から白い雪が音もなく降り始めた中、ヨナスは絞り出すような口調でペートイックに向かって訊ねる。
「お前は、この国から出て一体何を望む……世界では『自由』などと呼ばれるものか?」

 そうだとしたら、そんなものは存在しないとヨナスは続けた。
 ペートイックがこの国に生まれたように、ヨナスが犬使いの家に生まれたように。
 全ては生まれたときから「決まっていた」事なのだと。

 しかし、ペートイックはいつものように柔らかく微笑むと緩やかに首を横に振ってから答えた。
「この国が強いた軛(くびき)から、この国の全てを解放する。
 それが恐らく、あの惨劇から僕一人が生き残らねばならなかった理由だ」
「……止めろ」
 己の裡で何か得体の知れない感情が蠢き始めているのを感じながらヨナスは呻く。しかし、ペートイックの言葉は更に続いた。
「ヨナス、君は本当に『犬使い』以外の存在にはなれなかったのかい?
 僕の義父から本気で『出来れば研究室に残って欲しかった』と惜しまれる能力を持っていた君が」
「止めろ!」
「本当は君だって判っているんだろう、この国は間違ってしまった。僕はその間違いを正したいんだ」
「止めてくれ!」
 これ以上ペートイックの言葉を聞きたくないとヨナスが耳を押さえた直後。
 不意に待機を命じていた筈のグレイプニルがヨナスに向かって飛びかかり、その顔を爪で抉った。
「……!」
 主人の指示には絶対に服従する筈の犬が突然犯した命令違反にヨナスの思考は一瞬だけ停止する。そして、それ故にペートイックがグレイプニルを突き飛ばして体勢を崩し、そのまま足を踏み外して崖下に転落していくのをただ見ていることしか出来なかった。
 更に厄介なことに降り始めていた雪はいつの間にか激しく吹雪き始めており、犬たちとヨナス自身の安全を考えるとペートイックの捜索は中途で一時断念せざるを得なかった。ただし、吹雪の中で真冬も凍ることのない川の激流に転落した以上、ペートイックの生存は絶望的と、ヨナスをペートイック捜索に差し向けた上司も判断した。
 ヨナスは任務を果たせなかった責を問われたが、それも上司の取りなしと、現在までの国に対する貢献度から結局はごく軽いもので済んだ。
 
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ヨナスとペートイック・その1

2015-01-01 21:40:59 | 犬使いの果実
「……そして、今は君の父さんが犬使いという訳か」
 ペートイックはそう言ってから革装丁の古い本を閉じて、脚立の上に座っているヨナスに手渡してきた。ヨナスは受け取った本を所定の位置に戻してから答える。
「まあ、そういうことだ」
 親父は俺が犬使いを継ぐまでは好きにしろと言ってくれたから、今はこうしてお前と学校で勉学に励んでいられる訳だがな。
 そう続けると、ペートイックはいつものように柔らかく微笑みながら言った。
「僕の義父も、君が犬使いの後継者でなかったら是非研究室に入って欲しかったと、よく言っているよ」 
「教授(せんせい)には、お前がいれば充分だと思うぞ」
 学校、というよりはこの国始まって以来の俊才と評判の友人に向かってヨナスは無愛想に言い放つ。そもそも学校図書館地下にある厳しい入室規制が敷かれた書庫にヨナスが入れるのは、教授とペートイックの研究を手伝うという理由で申請した許可が降りたからだった。
「そうでもないさ。君がいてくれて、僕も義父も随分と助けられている」
 何より、君は僕の友達になってくれた。
 などと笑顔のまま言い放つペートイックに、ヨナスは書架から抜いて抱えていた本を危うく取り落としそうになる。普段から物柔らかな雰囲気を纏いつつも他人を殆ど己の身近に近づけさせない友人は、何故かヨナスに対してだけは親しげな態度を崩さず、時折驚くほど無防備な好意を含んだ言葉で彼を動揺させるのだ。
 ヨナスはしばしの沈黙の後、書架から視線を外さぬまま呟いた。
「今度の休暇には遊びに来い。お前が来るとグレイプニルも喜ぶ」
 犬使いの屋敷は基本的に部外者を入れてはいけない規則になっているが、国家から特別承認を得た相手、例えば教授やその息子であるペートイックなら申請さえ行えば来訪や宿泊も許可されるのだ。特にペートイックは小さい頃から屋敷に出入りしていて、犬たちのリーダーであるグレイプニルとも仲が良かった。

*   *   *

 実際、後から考えてみるとあれは出来過ぎた邂逅だったと思う。
 子犬たちの『選別』が終わり、十歳になったヨナスがいずれは自分が使うことになる犬たちの世話を任せられて間もない頃。
 今回選別された中でもひときわ賢い、いずれはグレイプニルを名乗ることが決まっている子犬が不意に身を捩ってヨナスの手から離れ、いつのまにか金網の向こう側からヨナスや子犬たちを見ていた人影に向かって駆け寄って行った。
 人影はヨナスと大して歳の違わないように見える少年で、子犬が自分に向かって金網に体当たりせんばかりの勢いで走ってきても全く怖がらず、笑顔のままでヨナスに向かって言った。
「可愛いね、君の犬?」
「まだオレの犬じゃない、父さんの犬だ」
「触っても大丈夫かな」
 普段なら即座に断り、ここは関係者以外立ち入り禁止だと追い出すところだったが、自分や父親以外には決して心を開かないはずの犬たち全てが金網の側に集まって来て吼えもせずに少年を見つめている光景があまりに不思議で、ヨナスはつい金網の戸を開いてしまった。
 躊躇いなく入ってきた少年に、子犬たちは明らかな好奇心と少しばかりの戸惑いを示しながら少年に近付いていき、次々と華奢な指が喉の辺りから頭を撫でるに任せていく。
 こいつは一体、何者だ?
 ヨナスが遅ればせながらそんな疑問を抱いた直後、屋敷の方から犬の訓練場に近付いてきた人影が声を掛けてくる。
「おお、早速仲良くなったようだな」
「父さん?」
 傍らに眼鏡をかけた細身の男を伴い、不意に現れた父親の姿に驚くヨナス。だが、彼の父親は息子の動揺を全く気に掛けぬように続ける。
「その子はペートイックと言ってな、父さんの友達の養い子だ。これから良く遊びに来るからそのつもりでな」
 いつものように有無を言わせぬ父親の言葉に、ヨナスはただ「はい」と答えて頷く。それはもう「決まったこと」であり、ヨナスが異議を唱えるべき事ではないのだ。

 そしてその日から、ヨナスとペートイックは友達になった。

*   *   *

「……だな、そろそろ君の犬たちにも会いたいと思っていたんだ」
 回想の淵に沈み、ペートイックの言葉を半ば以上聞き流していたヨナスは不意に我に返り、内心焦りながらも平静を装って言葉を返す。
「まだ俺の犬じゃない、父さんの犬だ」
「変わらないな」
 事も無げに言い放った友人に、ヨナスは不機嫌な犬がしばしばそうするように鼻に皺を寄せてみせながら何事かを言いかける。その時。
「ヨナス……ヨナス・オルリックはいるか!」
 普段は大声など上げない司書の先生が書庫の入り口の扉を勢いよく開け放つなり、狼狽を隠せないまま叫ぶ。どう考えても異常事態に、ヨナスは無言のまま持っていた本を書架に戻して脚立から降りた。
「何かあったようだな、また連絡する」
 そして、普段と殆ど変わらぬ歩調と態度で先生の前に現れたヨナスに告げられたのは、父の突然の事故死だった。葬儀と相続に関する煩雑な諸手続、何より犬たちの世話に追われ、結果としてヨナスは学校を辞めて家を継ぎ、犬使いとなった。
 ペートイックは葬儀に参列してくれたが、その後はお互い自身の抱えた課題や業務で自由に会うこともままならなくなり、ときおり書簡を交わす程度の仲となってしまった。
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序章・北の国のお伽話

2014-12-31 23:52:08 | 犬使いの果実
 むかしむかし、一年の殆どが雪と氷に閉ざされる北の国の森の奥深くに、一頭の恐ろしい狼が棲んでいました。どう猛で狡猾な狼は、森に入った人間だけではなく人里に現れて家畜を襲い、人々は長い間、恐れおののきながら何も出来ずにいました。

 そんなある日、年若い狩人が森に狩りに行ったまま何日も戻ってきませんでした。狩人の父は周囲が止めるのも聞かずに二匹の猟犬を連れて森に入り、やがて狩猟刀を握り締めた姿の無残な息子の亡骸を見つけたのです。ただ、亡骸の側に飛び散っていた赤い血の跡は更なる森の奥へと続いていて、どうやら狼も相当の傷を負ったらしいと判断した狩人の父は二頭の猟犬に血の跡を追わせました。そして、何日もかけて今まで踏み込んだこともないほど深く森に分け入り、とうとう腹を割かれた狼の骸を見つけました。

 北の国の人々を恐れさせ、最後には自分の息子を殺した狼の骸を狩人が呆然と見つめていると、不意に猟犬たちが弾かれたように駆けだし、慌てて狩人がそれを追うと犬たちは一本の樹の下で止まり、盛んに吠え立てるのでした。
 それは見事な林檎樹で、果実もたわわに実っています。数日にわたる追跡で手持ちの食料も心許なくなっていた狩人はちょうど良いと幾つか果実をもぎ取り、まずは猟犬たちに与えました。すると林檎を囓った二匹のうち一頭がいきなり苦しみだし、しまいには血を吐いて事切れてしまったのです。
 あまりのことに為す術を失う狩人でしたが、ふと残った一頭の猟犬が吼える声で我に返ると空はかき曇り、今にも激しい雨が降りそうです。このままでは帰りの道を見失うと焦りはじめた狩人でしたが、土砂降りの中で移動するのがどれだけ体力を奪うかを知っていた狩人は、生き残った猟犬を伴って狼の巣穴とおぼしき洞窟で雨がやむのを待ちました。

 ようやく雨がやみ、狼の血の跡や匂いが消えてしまった道を戻る困難について猟師が頭を悩ませていると、生き残った猟犬は全く迷う素振りも見せずに帰りの道を辿り始めました。きっと消えかかった僅かな匂いを追っているのだと思った猟師は慌ててその後を追い、何とか自分の住む村に辿り着いたのです。
 はじめは猟師が狼を倒したことについて半信半疑だった村の人々も、猟師が持参した毛皮と前脚を見て猟師を称えました。しかし猟師は狼を倒したのは自分ではないと言って、息子と死んだ猟犬の墓を建てた後は普段通りの生活に戻りました。ただ、死んだ猟犬ほどは賢くも勇敢でもなかった筈の生き残った猟犬が、その事件以来とても優秀な猟犬となり、いなくなった猟犬の分まで働くようになったことが、変化と言えば変化でした。

 一年ほどは何事もなく過ぎました。
 しかし、狩人の息子が死んだ季節になると猟犬の様子がおかしくなりました。ひどく動作が不安定になり、しきりと森の奥に向かいたがるようになったのです。このままでは満足に狩りも出来ないと判断した狩人は、森で猟犬が進むままに任せてみることにしました。猟犬の脚は速く、猟師は何度もその姿を見失いそうなりましたが、その名を呼べば歩みを止めたので何とか引き離されることなく進んでいくことが出来ました。
 やがて猟犬が辿り着いたのは、狼の巣穴近くにあった林檎樹でした。猟犬はとても犬とは思えぬ機敏な動作で樹に登り、枝に実った果実を咥えて地面に降り立つなり、果実を貪り始めます。そして、猟師は直感で自分の猟犬がこの果実によって普通の犬ではなくなり、更にこの果実なしでは生きられない体となった事を悟ったのでした。

 狩人は林檎樹の果実を幾つか持ち帰り、その種から苗を育てました。苗は数年かけて花を咲かせ、林檎を実らせました。そしてやはり、狩人が果実を与えた犬の大半は血を吐いて死にましたが、生き延びた幾頭かの犬は最初の猟犬と同じく、普通の犬とは比べものにならないほどに勇猛果敢で賢く、なおかつ忠実な猟犬に育ちました。そして猟師は周囲から「犬使い」と呼ばれ、畏怖されるようになったのです。
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