犬使いとなったヨナスと彼が使う犬たちは、彼の父を含めた代々の犬使いがそうであったように極めて優秀な猟師と猟犬になった。
ただし狩るのは獣ではない。祖国において重要な役割を持ちながらそれを放棄して国外に逃亡しようとする人物、及びその関係者だった。それは曾祖父の代から続いている『仕事』であり、ヨナス自身も疑問に思ったことはない。何よりヨナスに下されるのはあくまで対象の捕獲で、余程のことがない限り彼の犬が人を殺すことはなかった。
そしてヨナスは彼と彼の犬に『仕事』を命じた政府の目的も、彼が狩り出した相手が何を考え、どのような事情を抱えているのかも全く頓着することはなかった。彼は自分が国に雇われた猟師であると認識し、自分の犬を使って『狩り』を遂行するだけの存在だった。
そう、あの日でさえも。
犬たちが追い詰めた『獲物』の背には切り立った崖。その遙か下には岩を砕く激流。
逃れようのない状況下でありながら、それでも眼前の『獲物』であるペートイックの表情に怯えは見られなかった。
「……やはり君が来たか、ヨナス」
懐かしい筈の友人との再会に、ヨナスは表情を消し去ったまま言った。
「このまま大人しく連行されるなら、不必要な危害を加える気は無い」
しかし、ペートイックは微笑みに見えなくもない表情を浮かべながらゆっくりと首を横に振った。ヨナスは更に続ける。
「せめて、お前にだけは危害を加えたくない」
直後にペートイックの表情が歪む。ヨナスが己の失言に気付いたときには手遅れだった。
「そうか、義父はもう、殺されたんだね」
「俺の犬が追っていたら、絶対にそんなへまはさせなかった」
今となっては無意味な、しかし言わずにはいられなかったヨナスの弁明に、今度は微かに頷いてみせるペートイック。
「勿論だよ。君も、君の犬たちも、とても優秀だからね」
「それが判っているなら」
「ところで君にも話したことが無かったが、僕は義父に引き取られるまで国の教護施設で暮らしていた」
正直、あそこでの生活はあまり思い出したくないと続けるペートイックの話に、ヨナスは犬たちの待機状態を解かぬまま無言で続きを促す。
「確か僕が七歳になる少し前だ。その日、養護施設で食事を摂った人間のほぼ全員が死んだ、大人も子供も血を吐いて苦しみながら、みんな死んでいった……僕一人を除いて」
血ヲ吐イテ、苦シミナガラ
ミンナ、死ンデシマッタ
ヨナスの脳裏に浮かぶのは『選別』の光景。
犬使いの果実を与えられ、死んでしまった沢山の子犬たち。
あの時までヨナスが一番可愛がっていた子犬、どうかこの子は生き残りますようにと何度も祈った子犬すら、結局は助からなかった。
「……まさか」
やっとの思いで掠れるような声を絞り出すヨナスに向かって、ペートイックは更に言葉を重ねる。
「この国からの逃亡準備を整えてから、義父は『悪魔の所業に手を貸した自分を許してくれ』と泣きながら跪いたよ……僕は、義父と一緒に暮らせてとても幸せだったのにね」
いつの間にか、灰色の雲が重く垂れ込めた空から白い雪が音もなく降り始めた中、ヨナスは絞り出すような口調でペートイックに向かって訊ねる。
「お前は、この国から出て一体何を望む……世界では『自由』などと呼ばれるものか?」
そうだとしたら、そんなものは存在しないとヨナスは続けた。
ペートイックがこの国に生まれたように、ヨナスが犬使いの家に生まれたように。
全ては生まれたときから「決まっていた」事なのだと。
しかし、ペートイックはいつものように柔らかく微笑むと緩やかに首を横に振ってから答えた。
「この国が強いた軛(くびき)から、この国の全てを解放する。
それが恐らく、あの惨劇から僕一人が生き残らねばならなかった理由だ」
「……止めろ」
己の裡で何か得体の知れない感情が蠢き始めているのを感じながらヨナスは呻く。しかし、ペートイックの言葉は更に続いた。
「ヨナス、君は本当に『犬使い』以外の存在にはなれなかったのかい?
僕の義父から本気で『出来れば研究室に残って欲しかった』と惜しまれる能力を持っていた君が」
「止めろ!」
「本当は君だって判っているんだろう、この国は間違ってしまった。僕はその間違いを正したいんだ」
「止めてくれ!」
これ以上ペートイックの言葉を聞きたくないとヨナスが耳を押さえた直後。
不意に待機を命じていた筈のグレイプニルがヨナスに向かって飛びかかり、その顔を爪で抉った。
「……!」
主人の指示には絶対に服従する筈の犬が突然犯した命令違反にヨナスの思考は一瞬だけ停止する。そして、それ故にペートイックがグレイプニルを突き飛ばして体勢を崩し、そのまま足を踏み外して崖下に転落していくのをただ見ていることしか出来なかった。
更に厄介なことに降り始めていた雪はいつの間にか激しく吹雪き始めており、犬たちとヨナス自身の安全を考えるとペートイックの捜索は中途で一時断念せざるを得なかった。ただし、吹雪の中で真冬も凍ることのない川の激流に転落した以上、ペートイックの生存は絶望的と、ヨナスをペートイック捜索に差し向けた上司も判断した。
ヨナスは任務を果たせなかった責を問われたが、それも上司の取りなしと、現在までの国に対する貢献度から結局はごく軽いもので済んだ。