秀一にとってはともかく、圭佑たち三人にはどうと言うことなく終わった見合いの日から数日後。
その日の圭佑は授業中に相当な空腹を覚えて授業の終了時間まで待ち切れず、つい教科書で隠しながら手持ちの饅頭を引っ張り出して齧り付くという所業に及んでしまった。小柄な圭佑の座席は黒板が見やすい位置にあり、当然ながら教壇に立つ先生にとっても見やすい位置にある。
「倉上、起立」
不意に掛けられた独語講師の声に、圭佑は一瞬だけ動作を凍り付かせながらも迅速に口中の饅頭を飲み込み、元気良く起立する。
「倉上、起立しました!」
現場を押さえた講師だけでなく、不手際をやらかした級友に対する緊張を含んだ周囲の視線すらものともしない、居直りとも取れる圭佑の態度に、ドイツ人であるパウエル講師は日本人と殆ど変わらぬ端正な発音で質問してくる。
「倉上、君は随分と饅頭が好きな様だな?」
「はい!饅頭は大好きです!どれ位好きかというと素晴らしいドイツの歌曲と同じ位に好きです!」
これは音楽を得意とするパウエル講師に対する、言ってしまえば追従に近い発言だったが、そんな圭佑の答えに対してパウエル講師は不吉な微笑みを口元に浮かべながら断言する。
「それでは、君の好きなドイツ語の歌曲を、何でも良いから一曲ここで歌って貰おうか」
パウエル講師にとっては、自分の授業中に不真面目な態度を取った学生に軽いお灸を据えてやるつもりだったのかもしれないが、途端に圭佑の目が輝いた。
「それでは僭越ながら、『シューマン作品29「3つの詩」より第3曲、流浪の民』を歌わせて頂きます!」
Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig,
da regt's sich und raschelt und flüstert zugleich.
Es flackern die Flammen, es gaukelt der Schein
um bunte Gestalten, um Laub und Gestein……
現在はロマと呼ばれているジプシーたちが、故郷を離れた旅路の中で過ごす一夜の情景を歌った力強いながらもどこか哀しげな歌曲を、未だ完全な変声期を迎えていない圭佑が想像していたより遥かに明瞭な発音で歌う姿に、パウエル講師も思わず感心して歌声に聞き惚れる。
……fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Wer sagt dir wohin?
最後の歌詞まで見事に歌い切った圭佑に級友たちが惜しみない拍手と歓声を送り、当の圭佑も自慢げに軽く上げた手を振りながら『抑えて抑えて』などと周囲を宥める中、授業終了のベルが鳴り響いた。
「それでは、今日の授業はこれで終了とする」
教科書を片手に教壇を降りたパウエル講師は、しかし、急場をうまく切り抜けて得意になっているらしい圭佑に向かって厳かと言ってよい表情を向けると、実に重々しい口調で宣言してみせた。
「そうそう、先ほど歌って貰った『Zigeunerleben(流浪の民の原題、ジプシー暮らしの意)』だが、発音には問題が無かったから次回の授業までに歌詞と日本語対訳を筆記して提出する様に」
最後の最後で完全勝利を逃した衝撃から呆然とする圭佑に、教室を出て行く講師の背中を見送った信乃が声を掛ける。
「まあ、せいぜい頑張るんだな」
ちなみに俺は家の用事があるから今日は真っ直ぐ帰るぞ。そんな信乃の言葉に対して残念そうに頷いてから今度は優吾に声を掛ける圭佑だったが、優吾からも読みたい本があるので寮の部屋に戻ると答えが返ってきた。
「何だ、つまんねーの」
ぼやく圭佑に、優吾が窓の外を見ながら忠告する。
「空模様が怪しい、雨が降る前にお前も早く自分の家に帰った方が良いぞ圭佑」
ええーっ、雨?おれ傘持ってないよとぼやく圭佑に『なら早く帰れ』と突っ込みを入れてから教室を出る信乃と優吾。やや遅れて校門を出た圭佑は特別課題提出を命じられた傷心を癒やそうと、最近では珍しく一人で縄手方面に向かう。
そして、いつもなら決して遅れない夕飯時、更に夜半をとうに過ぎた時間になっても家に戻らなかった。