カケラノコトバ

たかあきによる創作文置き場です

場面その19

2016-10-06 00:10:10 | 松高の、三羽烏が往く道は
 行方不明になっていた圭佑が信乃と優吾に伴われて自宅に戻ってから数日後。
「松高の……三羽烏の往く道は、と。うん、これで良いな」
 いつものように煙草盆を傍らに置いた姿で店に座っていた秀一が、達筆とは言い難いが下手でもない癖のある筆跡で大福帳に上の句を書き付けてから、さて下の句はどうしたものかと考えていると。
「ただいま、兄ちゃん!」
 いつものように圭佑が元気良く店に入ってきて声を掛けてくる。
「ああ、お帰り圭佑」
 結局、一連の騒動は圭佑が神隠しに遭っていたと言うことになった。実際、首謀者の優香以外が泥を被らずに事を治める方法はそれしかなかった。
 ちなみに当の優香は事件発覚直後に新しい縁談が持ち込まれ、即座に東京に住む男の元に嫁いで行った。何でも彼女と親子程も年の違う、更に彼女より年上の子供が数人いる男の後妻だそうだが、相手は結構な金持ちと聞いているから玉の輿だろうし、ああいう根性の持ち主のお嬢さんなら、ひょっとしたらそんな環境でも上手いことやっていくかも知れないなどと秀一は無責任に考えている。
「そう言えば兄ちゃん、ちょっと前におれが街で立ち回りを演じた事があったろう?
 さっき、あの時に優吾が投げ飛ばした相手が女の子と一緒に歩いていたんだ」

 優吾が二人は兄妹だって言ってたけど、妹の方が……うーん、美人じゃないんだけど凄く可愛い子でさ。どうせなら兄ちゃんのお見合い相手があの子だったら良かったのにと思ったねおれは。

「おや、そんなに可愛い子だったのか?」
 秀一のロイド眼鏡に隠れた瞳が底光りするのに気付かぬまま、圭佑は無邪気にうん!と頷いてみせる。
「それなら私も色々と考えなければならないな……とにかく、夕飯だから部屋に鞄を置いてきなさい」
 わかった!と答えるなり家の奥に入っていく圭佑の背中を見送りながら、秀一は優香から取り戻した櫛を何処にしまっておいたかを思い出すことにした。



松高の、三羽烏が往く道は 其の壱 松葉の圭佑・終
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場面その18

2016-10-05 20:50:55 | 松高の、三羽烏が往く道は
 松本と市街を接する旧本郷村には”犬飼の御湯”とも呼ばれる有馬温泉があり、古くから歴史ある湯の町として知られている。藩政時代には松本城主や家臣の湯殿として、明治期には蚕種取引客の逗留宿として、そして大正以降は信州観光の行楽基地として隆盛しているこの地は、当然ながら松本に住む豪商が建てた別宅なども珍しいものではなかった。

 ココからは俺一人でやる、くれぐれも手はず通り頼むぞ。

 目指す郊外の森を背にした邸宅を見据えながら、秀一に貸して貰った懐中時計の一つを優吾に渡した信乃はマントの乱れを直し、学帽の庇の角度を正してから歩き出す。
 書生風の男が憮然とした表情で案内してくれた先では、相手が信乃であるとあらかじめ聞かされていたらしい優香が笑顔で待っていた。
「秀一さんからの手紙を預かっていらしたのですって?」
「ええ……でもその前に……」
 宜しいですか?と呟くなり遠慮なく優香との距離を詰める信乃の姿に、傍らに控えていた書生が身を反射的に身を乗り出しかけるが、優香はそれを手で制すると無言のまま部屋から出て行くように促す。憮然とした表情で躊躇いがちに男が姿を消すと、信乃は優香の髪に凝った意匠の櫛を挿しながら甘い声で囁く。
「貴女には、初めてお目に掛かった時に身に付けていらした櫛より此方の方が似合うと思いましてね……俺の母の形見です」
「そのような大事な物を私に下さるのですか?」
 上気した表情で問い掛けてくる優香に、信乃はあくまで笑顔のまま答える。
「ええ、あの時からずっと俺は、貴女が俺の母に良く似ていると思っていたのですよ」
「まあ!」
 男が女に対してこのような言葉を投げかける一般的な意味を、当然ながら優香は知っていた。確かに秀一との婚儀は最重要事項ではあるが、人形のように整った顔立ちの松高生に熱烈な感情を向けられる立場に今はひたすら酔いしれる。それにこの男を自分の元に寄越したのは秀一自身だ、何があったとしてもそれは秀一の責任だと決めつける優香。
「本当にそっくりですよ、己の幸せの為なら笑顔のまま周囲を、自分の息子の人生をどうしようもなく歪めることすら厭わない身勝手さが」
 あくまで甘い口調のままで囁きかけてきた言葉の意味を捉え損ねた優香が信乃の顔を見詰めて小首を傾げると、信乃はやはり笑顔のままで言い放った。
「それでは用事も済みましたし、あとは圭佑を連れて帰ります」
 ああ、案内は結構です。大体の見当は付きますからと微笑みかける信乃の真意にようやく気付いた優香は大声で書生を呼ぶ。すわお嬢さんの危機かと血相を変えてやって来た数人の書生に囲まれても、しかし信乃は動じることなく自分の右耳に軽く手をやった。
 直後、その場にいた全員の耳を打つ太鼓の音。

「松本高等学校ぉぉぉ、寮歌ぁ、『雲にうそぶく』斉唱-ぉぉぉーっ!」

血は燃えさかる朝ぼらけ
女鳥羽の岸に佇みて
君よ聞かずや雪溶けを
春は輝くアルペンの
真白き肌に我が胸に
いざ朗らかに高らかに
歌いて行かむ野にみつる
大地の命踏みしめて

 いつの間にやら屋敷の前に十数人ほど並んだ松校応援団は、団長の指揮の下で日頃の練習の成果を充分すぎるほど発揮してみせる。
「あの寮歌は三番までありましてね、それが終わるまでに俺が圭佑を連れて戻らなかった場合、我が校の応援団がこの屋敷にストームを掛ける事になってるのですよ」

 ちなみにストームとは、言うなれば青春の滾りを蛮声や暴力行為で発散するガス抜きのようなもので、本来は様々なルールの元に行われる半合法行為た。

 我々の所業は『若気の至り』で済ませて貰えるかも知れませんが、官憲が介入した際に言い訳が立たないのはお嬢さんの方ではありませんかね。そんな風に微笑んでから信乃は屋敷の奥底に設えられていた座敷牢まで足を運び、両手足を縛られ猿轡を噛まされた姿で長持ちに押し込まれていた圭佑を見つけるなり言った。
「ここに居たか圭佑、帰るぞ」
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場面その17

2016-10-02 19:12:43 | 松高の、三羽烏が往く道は
 決して広くない部室の上座に位置する壁際。
 そこに置かれた椅子に腰掛けた応援団長が色々な意味で全身を硬直させているのを、優吾は敢えて見ない振りをしながら此処にも化け物が出たかと嘆息する。ちなみに優吾の認識する『化け物』は団長の背中に回って両肩に手を置き、何やら耳元に囁きかけている真っ最中だった。団長が恐る恐ると言った態で僅かに視線を横に向けると、普段の優吾が信乃と呼んでいる化け物は、まさに妖艶としか称しようのない闇と毒を含んだ笑顔で応える。
「団長、いえ笹井先輩とお呼びしますか?俺は別に貴方に対して、それ程無茶なことを頼んでいる訳ではないと思うのですが?」
「あ……ああ……しかしだな」
弱々しい抗議はしかし、団長の肩に置いた指に軽く力を込めた信乃の動きに容易く封じられた。雷にでも撃たれたかの様に一瞬だけ痙攣してから力なく垂れる両腕。
「詳しくはお話し出来ませんが、これは松高の学生を一人、救う行為でもあるのですよ」
「そ、そうなのか……」
 喉の奥が貼り付いたような口調で呟く団長に対して、信乃は更に畳み掛ける。
「そうなのですよ、ですからこうして笹井先輩にご協力を仰いでいる訳なのです」
 ご理解頂けますか?などと、殊更に団長の顔に向けて己の頬を寄せながら囁く信乃に、とうとう団長も陥落せざるを得なかったらしい。
「判った言う通りにする!だからもう離れてくれ!!」
「そうですか、では、くれぐれも手順に粗相や遺漏の無いようお願いしますね」
 呟くなり軽やかな動作で団長から離れる信乃。そして椅子に崩れ落ちる団長の身体。
「頼むから……今すぐ此処から出て行ってくれ!」
 団長の悲痛すぎる叫びに優吾は僅かに眉を顰め、信乃は悠然と微笑んだまま傍らの机に置いてあった自分の学帽を被り、優雅な動作でマントを羽織りながら部室を後にする。そのまま二人が応援団が練習している付近まで近付くと、信乃の姿に目を留めた副団長が何とも言い難い複雑な視線を向けて来たが、当の信乃は相変わらず微笑みを崩すこと無く学帽の庇に手をやりながら一礼するばかりだった。
「団長とは、どういう知り合いなんだ?」
 そんな優吾の問い掛けに、昔少しだけ一緒に歩いたことがあるだけですよと応える信乃。つまり、詳細を語る気はないのだなと判断して黙り込んだまま空を見上げる優吾。
 彼らの頭上に広がる空は人間達の小さな企みなど知らぬげに、普段通りの霞んだ青の端々に白い雲を輝かせていた。
 
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場面その16

2016-10-02 16:09:29 | 松高の、三羽烏が往く道は
 平成の昨今では殆ど聞かれなくなったが、『バンカラ』という言葉がある。やはり最近は聞かない言葉となった、西洋風の身なりや文物を求める『ハイカラ』(high collar 、シャツの高襟に由来する)の対義語で、敢えて弊衣破帽、つまり着古した学生服に破れたマント、学帽を纏い、荒々しい振る舞いを行う事によって表面を取り繕う事無く真理を追究する態度を示した、ある意味では武士道的精神を含んだ禁欲的な行動様式と言えるだろう。ちなみに漢字を当てるなら『蛮殻』若しくは『蛮カラ』であり、昭和時代の少年漫画に登場する『番長』との混同から『番カラ』と記される場合もあるが、これは誤りだそうだ。
 そしてバンカラの集団と言えば、何と言っても高校の全国的普及に伴う校外対抗試合の応援役を担う、つまりは応援団の存在が大きい。

「徳性ヲ滋養シ学芸ヲ講究シ身骸ヲ鍛錬シ以テ本校の校風ヲ發揚シ教育ノ資助トナサンコト」

 これは、第四高等学校の校友会である北辰会の会則だが、応援団とは『徳性を育み、学芸に励み、身体を鍛錬する事によって自校の校風を輝き顕し、教育の助けとする』事を目的に組織され、組織的かつ規律的な応援活動を通じて集団的連帯感情を育て、最終的にはそれを「善良ナル校風ノ発揚」にまで高めるのが目的であったとされている。

*   *   *

 さて、当然ではあるが松本高等学校にも応援団は存在していて、放課後ともなれば熊髭(クマヒゲ)と綽名される容貌魁偉な団長の指揮の元、校庭の隅で打ち鳴らされる太鼓の轟音に併せて応援歌やエールをがなり立てる団員達の蛮声が喧(かまびす)しいことこの上ない。
 だが、その日太鼓の傍らで団員達の指揮を執っていたのは、普段は影の様に団長に付き従うばかりの無口な副団長だった。何も知らない団員は珍しいこともあるものだと思いつつも、日頃から炎のような蛮声を張り上げる団長とは違い、まるで氷の巌を思わせる太く重い副団長の声に僅かな怯えを覚えつつも普段通りの練習に励む。勿論、彼らは誰一人として現在の団長が部室内でどれだけの修羅場の只中に在るのかを知らなかった。
 
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場面その15

2016-09-24 01:45:54 | 松高の、三羽烏が往く道は
「何というのか……正真正銘の化け物だな、あの人は」
 昼食の誘いを断り倉上邸を辞した後、取りあえずは何処かで蕎麦でも手繰るかと連れ立って通りを進む途上でふと優吾が呟くと、それに関して異論は無いと答える信乃。
「しかし、お前も相当だぞ。あの人を前に一歩も引かないで渡り合えるとは」
 我知らず喉の辺りに手をやる優吾に、信乃は極めて不本意そうに言った。
「アレは平気だった訳じゃない。とにかく喰われないようにと気を張っていただけだ」
 しかも向こうはそれすらお見通しと来ている、実際敵う相手じゃないな。そんな風に続く信乃の言葉に優吾も頷く。
「……ところで優吾、お前は『名は体を表す』というのが本当だと思うか?……もっと露骨に言ってしまうと、秀一さんと俺は似ているか?」
 優吾の方に視線を向けぬまま投げかけられる信乃の問い掛けに、優吾は敢えて己の歩む足を止め、数歩ばかり先行してから驚いたように振り向いて優吾を見詰めてくる信乃を見据えながら答えた。
「お前が自分の名前を嫌っているのは知っているが、今回の騒動の元凶になった女学生の名前は優香だ、俺の名前と大して変わらん」

 第一、今はお前がそんな事で悩んでいられる状況では無いと思うぞ。秀一さんには策があると言っていたが、あれは本当か?

 そんな優吾の言葉に信乃は一瞬だけ胸を突かれたような表情になったが、やがて普段通りの柔らかな笑みを湛えた表情に戻ると、殊更に余裕を含んだ口調で断言する。
「勿論だ」
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場面その14

2016-09-23 22:48:59 | 松高の、三羽烏が往く道は
 秀一が今の圭佑とほぼ変わらぬ年頃だった昔、彼には幼い頃より親同士に定められた婚約者がいた。そこには当然ながらお互いの意思は介在していなかったが、秀一自身は大店の跡継ぎという己の立場を充分承知していたし、何より華やかで明るい雰囲気を持つ婚約者の美登利に不満はなかった。ただ一つの懸念材料と言えば幼い圭佑が何故か美登利に近付こうとしなかった事だが、むしろ秀一にとってはその方が有難かった。成長するにつれて自分に懐いて来るようになった弟を、当時の秀一は毛嫌いしていたのだ。

「しかし、流石に美登利から『どうしても大金が必要になったけれど、貴方以外に頼る相手がいない』と縋られた時は戸惑いましたよ」

 大店の跡取りとは言え若輩の秀一に大金など有る訳が無い。かと言って商家の跡取りとして厳しく躾けられた彼に『店の金に手を付ける』いう行動は思考の埒外だったし、何より現実的に不可能だったろう。
 それでも秀一は何とか必死に自力で掻き集められるだけの金を用意して、誰にも気取られぬように細心の注意を払いながら美登利との待ち合わせ場所に向かった。

「そして私は、待ち合わせ場所に指定された県境に通じる峠道で何処か見覚えのある男に刃物で刺されて財布を奪われ、程近い林の中にあらかじめ掘ってあったらしい穴に埋められた訳ですが……男の傍らには美登利が居ました」

 物言わぬ骸が土中で腐りながら蟲に喰われて肉と腸(はらわた)を失い、やがて白骨と化しても決して消え去る事のない憎悪。
 人間にこのような表情が出来るのかと、優吾などは己の背筋を這い上ってくる痺れに似た冷気に身震いを禁じ得ないらしいが、信乃は相変わらず悠然と微笑んだまま尋ねる。
「確か真相は、大店の令嬢が下男と駆け落ちする際に、逃走資金を得るのと時間稼ぎに本来の婚約者を陥れたと言う辺りだったそうですが」
「結局は、そういうことだったらしいですね」
 実にあっさりと冷酷な事実を認めてから、それでも『全く女は怖い』などと笑ってみせる秀一。
「そういう訳で、私は本来なら大店の跡取りという重責に耐え兼ね、許嫁を連れて駆け落ちした大馬鹿者の烙印を押されたまま山の中で埋まっていた筈なのですが」
「何故か、そこに圭佑が現れたと」
 早急な信乃の態度に秀一は言葉を止めて眉を顰めたが、すぐに一人納得したように頷いてから再び話し始める。
「実際、三つになったばかりの子供が家の者に気付かれぬまま、しかもほんの僅かな時間でどうやってあんな山奥まで辿り着けたのかは未だに解らないし、圭佑も覚えていないそうなのです」
 そして結論だけ言ってしまえば、『兄ちゃん、兄ちゃん』と山道で泣いていた圭佑を見付けた通りすがりの木樵が半死半生の秀一を掘り出し、美登利と下男は獄舎に入る事になったのだった。
「病院で一部始終を知らされて、その時ようやく私は圭佑が『神倉屋のてんにんご』で、私もまた圭佑にとっては守るべき存在だったのだと気付かされたのですよ」
 圭佑が喋るようになったのはその事件以来でしたと話を締めくくる秀一。
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場面その13

2016-09-18 19:04:33 | 松高の、三羽烏が往く道は
 てんにんご、敢えて漢字を当てるなら天人児。
 これは倉上家の屋号である『神倉』の元になった伝説から生まれた呼称で、良くある話なのかも知れないが神倉屋を興した先祖は天女を己の妻として娶ったのだそうだ。ただ通常の伝説と異なり天女は男と子を設けた後も天に還らず、地上で人としての生を全うしたと伝えられている。
「……それ以来、神倉の家には時折、あたかも天人であるかのように人並み外れた才能と幸運に恵まれた子供が生まれるようになったのですよ」
「それが圭佑ですか」
 信乃の言葉に、秀一は何故か口元を引きつらせてから答える。
「私はね、昔は自分がその『てんにんご』だと思っていたのです」
 自分で言うのも何ですが、私は昔からそこそこ出来の良い頭脳の持ち主で、更に言うなら今より遙かに愚かだったので、周囲の大人達に持て囃されていい気になっていたのですねと、秀一の言葉は続く。
 だが、そんな甘ったるく居心地の良かった世界は圭佑が産まれた事で完膚なきまでに叩き壊された。

「実は圭佑は産声を上げずに誕生し、三つになるまで全く何も喋らなかったのですよ」

 通常なら、次男とは言え商家の息子であれば決して歓迎されないそれを、しかし当時存命だった祖父は手放しで喜んだ。てんにんごは必ず五感の何処かにその『印』を宿して産まれ、先代のてんにんごだったとされる祖父の大伯母も長い間目が見えずにいたが、ある日突然千里眼に近い能力を発揮するようになったというのがその根拠だった。
「それにまあ圭佑の場合、喋れないと言っても昔からあの通り人好きのする子でしたから、てんにんごの件も含めて周囲にとても大事にされながら育ちました……私以外には、ですが」
 流石に眉を顰めた優吾の気配に気付いたのか、秀一は微かに微笑んでみせる。
「周囲の目も有りましたから別に明確な虐待を行った訳ではありませんが、なるべく早く死んで欲しいとは常に思っていましたね。てんにんごは往々にして寿命が短いと聞いていましたし、実際に大伯母も二十歳前に亡くなっていましたから」
 あまりの発言に溜まりかねたのか何事かを口にしかける優吾を軽く手で制し、信乃はその人形のように整った顔に柔らかな、だが凄惨極まりない笑みを浮かべながら断言した。
「ただし、それも『鬼隠し』に遭った貴方をあいつが……圭佑の奴が見付けるまでは、ですね?」
「ええ、その通りです」
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場面その12

2016-09-04 18:55:39 | 松高の、三羽烏が往く道は
 あの、二・三度叩き殺した位じゃ死んでくれそうにない元気者が何日も学校を休んでいるんだ。見物に行かない手はあるまい。

 いつものことながら、そんな信乃の暴言に含まれた真の意味を正確に察したらしい優吾は憤慨した様子も見せずにうむ、と頷いて同意を示してきた。
 やがて授業終了と共に連れ立って校門を出た二人は、しかし見覚えのある小僧に呼び止められる。
「信乃さんと、優吾さんですよね」
「そうだが、お前は神倉屋の小僧(この場合は年季奉公中の子供を意味する)だな」
 おいらを知っているのですかと驚く小僧に、信乃は事も無げに以前店で働いているのを見た覚えがあると答えた。
「それより、俺達に何の用だ?」
「番頭さんから手紙を言付かって参りました。出来れば、ここでお返事を頂くよう言われております」
「秀一さんから?」
 とにかく手紙を開封してみると、前略から始まる短い文章には今度の日曜朝九時頃、信乃と優吾の二人に和装、無帽で圭佑に会いに来てやって欲しいと綴られていた。
「これはこれは……」
 あからさまなまでの訳あり文章に呆れ果てながら、回された手紙を読み終わった優吾が自分に向かって躊躇無く頷いて見せるのを確認した信乃は、傍らで不安げに答えを待つ小僧に向かってきっぱりと言い放つ。
「承ったと、伝えてくれ」

*   *   *

 そして約束の日曜日。
 時間通りに無帽の袴姿で神倉屋の店先に立った信乃と優吾は、先日手紙を届けに来た小僧に案内され、こっそり裏口から屋敷に上がることになった。本来なら憤慨するべき応対なのだろうが二人の表情に憤りは見られない。そのまま雨戸がしっかりと閉じられた薄暗い圭佑の部屋に通されると、待っていたのは秀一だった。
「こんな形で呼び出したのは申し訳ないと思ってますが、いささか事態が込み入っていましてね」
「圭佑の姿が見えませんが」
 座布団に着くなりいきなり斬り込んできた信乃に、秀一は軽く溜息を吐いてから呟く。
「さて……、どこからどの辺まで話したら良いものか」
「まだ昼前です、時間は充分にあると思われますが」
 あくまで追及の手を緩めない態度の信乃を、秀一は眼鏡の蔓に中指をやって位置を直してから見据えると、普段の物柔らかな態度からは想像もつかない乾いた口調で言い放った。
「それで君は一体何を、どれだけ知っているのですかね?」
 相対しているのが常人だったなら平静を保つのは難しかったであろう秀一の変貌に、しかし信乃は怯みもせずに答える。
「俺も、優吾も、元々は松本の人間ではありません。だから余所者が地元の人間から聞き出せる程度の噂と、かつての事件について記された複数の新聞記事の内容程度ですよ」
「成る程……さすがは松高生ですね、予習は欠かさないと言う訳ですか」
 それでは、『神倉屋のてんにんご』という言葉は聞きましたか?そんな風に尋ねてくる秀一に信乃は頷いてみせる。
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場面その11

2016-09-03 22:43:06 | 松高の、三羽烏が往く道は
 寝床から飛び起きた秀一は、先程まで視ていた不快極まりない光景の一部始終が自分の夢であることに気付いた。寝間着は酷い寝汗でじっとりと濡れ湿っていて、あまりの不快さに井戸水を浴びてから着替えことにする。
 数日続いた激しい雨はようやく止んだが雲は未だ切れ切れに空を覆い、その隙間から差し込んでくる月の光もどこか朧だ。
「圭佑……」
 神倉屋の末子が行方不明になって、一番初めに壊れたのは秀一や圭佑の母親だった。床に就いたまま次男の安否に心を痛め続ける姿に、夫である店主の状態も不安定にならざるを得なくなり、皮肉にも二人のそんな状態を支える必要から、長男である秀一はどうにか平静を保っている状態と言える。ただ、圭佑が失踪した件についての手がかりらしきものは既に発見されていて、実は結果的にそれが更に事態を拗らせるだけ拗らせる結果を生んだ。

 秀一兄さんと金崎のお嬢さんが祝言を挙げるまで帰りません。

 店の小僧が「番頭さんに渡すように言われました」と持ってきた包みを開けると、中には表紙に圭佑の名前が書かれた数学ノートが入っていて、最後の頁には明らかに圭佑の筆跡では無い字でそう書かれていた。包みを受け取った小僧に秀一が詰問すれすれの口調で問い詰めても、十歳にもならない小僧は半泣きで「手拭いを被った若い書生さんから受け取った」としか答えられず、考えあぐねた末に相談した父は既に正常な判断が出来なくなっていたらしく、圭佑が帰ってくるならばと一度は破談とした優香との縁談を再び纏めようとした。
 ただ、これに酷く反発したのが金崎家の当主で、愛娘に対しての酷い侮辱だと言う理由で縁談を拒絶してきた上、最後には秀一の父と掴み合いの喧嘩にまで発展したのだった。 そんな訳で金崎のお嬢さん、つまり優香が圭佑の失踪に何らかの関与をしているのはほぼ間違いなかったが、優香の父親が臍を曲げ、圭佑捜索に対して一切の協力を拒んだ結果として膠着状態に陥っている。
 ちなみに、秀一は警察を介入させる手段を最後の最後まで使いたくなかった。かつて似たような騒動が発生した際に警察沙汰になった結果として大店が一軒潰れ、多数の周辺業者が巻き添えを食って破産や夜逃げの憂き目に遭ったのを目の当たりにしているのだ。それに予想通りに優香が首謀者だとしたら、よもや攫った圭佑を殺したり酷く傷付けたりする度胸があるとも思い難い。
 もちろん秀一としても自身の経験から女の浅知恵に因る愚行が時としてどれ程の惨劇を引き起こすかは良く知っているので、適切な対応を、しかも迅速に行う必要性は充分に認識しているつもりだ。

「いずれにしろ……今度は私が助ける番だよ、圭佑」

 雲の隙間から差し込む月光に反射して輝くロイド眼鏡の縁に手をやりながら、秀一は独り呟く。
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場面その10

2016-08-30 18:51:57 | 松高の、三羽烏が往く道は
 夕空は厚い雲で覆われ、大粒の雨が叩き付ける様に町並みを濡らしては道端に濁った水溜まりを拵えていた。通りを進む人は疎らで、誰もが雨の当たらぬ場所を目指して足早に進んでいる様子が伺い知れる。
 そんな中、学生服姿の小柄な少年が足早に家路を急いでいた。級友の忠告を無視してカフェーで珈琲など頂いていたら雨に降られ、一向に止む気配も無いので仕方なしに走って帰ることにしたのだ。普段は栗鼠の様に敏捷な少年なのだが激しい雨に視界を遮られ、足元は洪水の様に水が流れている状態では大して早く走れる訳も無く、時折小声で何事かをぼやきながら道を進んでいくしかなかった。そして、それ故に普段なら即座に気付いたであろう突発的な事態に反応するのが遅れたのだ。
 いきなり路地から伸びてきた手に鼻と口元を押さえ込まれ、そのまま路地裏に引きずり込まれた少年は反射的に右肘を自分の背後に叩き込んで手応えを確認すると殆ど同時に反動で相手の手を振り解き、次の瞬間には蜻蛉を切りながら離れ去る。
「なんだお前ら!」
 足場が悪いせいか普段通りの奇麗な着地とはいかず、慌てて体勢を立て直す少年は自分を路地に引き摺り込んだ相手に複数の仲間がいて、しかも今度こそ確実にこちらを絡め取ろうとしていることに気付いた。既に退路は塞がれ、この雨では叫んでも助けが現れるとは思い難い。そして何故か酷く体が重かった。
 このガキ!と、どうやら彼に蹴り飛ばされたらしい男が向かって来たが、他の男に止められる。
「焦るな、動けなくなるまで待てば良いんだ」
 その不吉な予言通り、自分の意識が瞬く間に霞んでいくのを抑え切れなくなる少年。先ほど鼻と口を塞がれた時に薬を使われたのだと気付くが、既に手遅れだった。
 耐え切れずに体勢を崩して倒れ込む少年の体が完全に動かなくなったのを確認すると、やがて一同の中でもひときわ体格の良い男が進み出るなり軽々と小脇に抱え、羽織っている合羽で隠すようにしてから仲間たちと連れ立って歩き出す。
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