誰かが呼んでいる声が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思い直す。
そもそも、もう周りには誰もいない。みんな死んでしまった。殺されてしまった。
世界に牙を剥いた時点で、結末は定められていたのだろう。だが、度重なる裏切りと喪失から来る絶望は彼が他の道に進むことを許さなかった。曰く、自分を変えられないなら世界を変えるしかない。
もちろん狂気の沙汰だ。そして当然ながら世界はそれを許さなかった。
悪質極まりないテロリスト、平和の破壊者、そんな風に呼ばれても仕方のないことを彼は彼の作り上げた息子たちとともに行ってきた。それについて弁明する気はない。
再び誰かの声が聞こえてくる。しかし、それは既に意味を成さない音階の羅列としか彼の脳には認識できない。
世界は必ずしも陽の当たる場所だけで構成されているわけではない。それ故、彼も闇世界における一定のルールを守れば存在を許された。だが、それがどれだけ脆い物であるのかを知ったとき、彼は全てを失っていた。残ったのは僅かな研究施設とデータ、そして彼の精神を灼き尽くそうとする負の感情だけだった。それ故、彼は手元に残った僅かなカードを駆使して世界に復讐を果たすと誓った。
彼の存在を認めようとしなかった世界を、未来を、人類社会を蝕んでいく毒を生み出し、拡散させる。電脳世界におけるウイルスが高度にシステム化された社会にどれだけの害悪をもたらすかは言うまでもあるまい。そうして世界は立ち枯れるのだ。壊れてしまえば良い、滅んでしまえば良い。
意味を成さない音階の羅列は、更に激しく響き渡る。相変わらず何を言っているのかは分からないが、ひどく悲しい響きだ。
自分はもう狂っているのだろうと、彼は思った。ただ、それならいつから狂ってしまったのか、それが分からない。物心ついた頃には既に両親も親類縁者も周囲には存在せず、他人の中で育ちながら見つけた親友とは袂を分かつことになった。そのまま巡った世界各地では、自分自身を含めた人間の愚かさをたっぷりと味わい、今思えば自身の愚かさを引きずったまま世界に牙を剥き、幾多の戦いの末に全てを失った。ただ、後悔だけは首尾一貫して存在しない。彼は他に自分が進むべき道を知らなかったのだ。
相当に体が弱っている筈の指でも全く速度が落ちぬタイピングで最後の仕上げを行うと、次の瞬間彼はおびただしい量のどす黒い血を今まで使っていたキーボードの上に吐き出し、そのまま崩れ落ちる。これで彼は全ての時間を使い果たし、代わりに世界のカウントダウンが始まったはずだった。
薄れゆく意識の中で、彼は先ほどから自分を呼んでいるのが今はもうこの世界に存在しない息子たちの声であることを理解した。だが、相変わらず彼らが何を言っているかは分からず、その姿も朧のままだった。もしも息子たちが自分を迎えに来てくれたのだとしても、恐らく同じ場所に行くことは出来ないのだろうと思うと、彼は本当に久しぶりに泣きたくなった。だが既に声はおろか、涙の一滴も絞り出すことは出来ない。
済まない、済まないと、彼は謝り続けた。世界の未来に対してではなく、息子たちのいる場所にすら行くことが出来ないことに対して。