答えが知りたいのなら、遠慮せずにかかって来い。
そんな優吾の言葉に、橋本は己の頭に血が上るのを感じながら組み討ちを挑む。しかし、次の瞬間には地面に転がされていた。
「これで終わりか?」
橋本を見下ろす優吾の視線はあくまで穏やかでありながら何故か哀しげで、それ故に更に橋本を逆上させる。
「舐めるなあぁぁっ!」
何度も何度も地面に転がされ、視界が霞んで足下も覚束なくなってもなお優吾に挑み続けながら、橋本はやがて奇妙な違和感を覚える。
「優吾……お前、何故、自分からは仕掛けてこない」
すると優吾はようやく気付いたかと言わんばかりに俯き、重々しく呟いた。
「己(おれ)はもう、自分から相手に技を掛けられんのだ」
「馬鹿な!」
一体何だってそんなと呟いた橋本は、自分を見下ろしてくる優吾の、まるで殉教者を思わせる瞳に胸を突かれたように黙り込んだ。優吾が柔道を思い切るに当たって周囲は様々な憶測を元に数多くの無責任な噂を流したが、その中には聞くに堪えない誹謗中傷も含まれていて、最も酷いのは、優吾が昔から折り合いの悪かった義父を己の柔道技で投げ殺したというものだった。もっとも、優吾の義父は酒浸りで博打打ちで乱暴者という、それこそ絵に描いたような鼻つまみ者だったので、優吾の母親が亡くなってからすぐ村から姿を消したと知った周囲も『あんな男、 たとえ殺されたとしても自業自得だ』と、概ねは優吾に対して同情的な意見ばかりであったのだが。しかし。
「俺は、俺は認めんぞ、優吾」
もはや立っているのもやっとの状態で、それでも優吾に掴み掛かりながら橋本は吼える。
「俺はまだ、お前に一度も勝てていない、それなのに、お前は俺の前から消えると言うのか!」
「……今、此処で己がお前に投げ飛ばされれば、お前は気が済むのか?」
「ふざけるなぁ!」
優吾の言葉に激昂し、最後の力を振り絞って技を掛けようとした橋本は、次の瞬間、実にあっさりと地面に叩き伏せられる。それでも何とか必死に立ち上がろうとしたのだが、流石に限界だった。気力や根性だけでは決して埋めることの出来ない実力の差を嫌と言うほど思い知らされ、畜生と何度も呻く事しか出来ない橋本を見下ろしながら、優吾は厳かと言って良い表情と口調で宣言する。
「己はもう歩むのを止めたが、お前が諦めずに歩み続けるなら、いずれ必ず今の己が立っている場所より先に進み続けるだろう……だから、結局はお前が勝つ事になる」
勿論、それを逃げと言われても反論は出来ないし、今の己には済まないと謝罪する以外の事は出来ない。そんな優吾の言葉に橋本は再び吼えた。
「謝るな!
お前は本当に謝らねばならような真似をしたのか!そうでなければ謝るな!」
叩き付けるような言葉に対して、優吾は不意に橋本から顔を背けて自らの頭上に視線をやった。釣られるように橋本が見上げると、夕暮れ時特有の白みがかった青色をした空は奇妙に寂しげで、所々に浮かぶ雲だけが薄紅を差したように輝いている。
「済まない……」
そんな風に何度も呟いてみせる優吾が、今の自分の顔を見せたくないのだと気付いた橋本は我知らず地面に己の両拳を叩き付けながら叫んでいた。
「謝るなぁぁぁっ!」
結局、俺は優吾の事など何も知りはしなかったのだと思い知りながら、橋本は嗚咽を繰り返す。そして優吾も又、空を見上げたままの姿で、随分長い間微動だにしないまま立ち尽くしていた。