カケラノコトバ

たかあきによる創作文置き場です

場面その9

2016-08-27 01:00:40 | 松高の、三羽烏が往く道は
 秀一にとってはともかく、圭佑たち三人にはどうと言うことなく終わった見合いの日から数日後。
 その日の圭佑は授業中に相当な空腹を覚えて授業の終了時間まで待ち切れず、つい教科書で隠しながら手持ちの饅頭を引っ張り出して齧り付くという所業に及んでしまった。小柄な圭佑の座席は黒板が見やすい位置にあり、当然ながら教壇に立つ先生にとっても見やすい位置にある。
「倉上、起立」
 不意に掛けられた独語講師の声に、圭佑は一瞬だけ動作を凍り付かせながらも迅速に口中の饅頭を飲み込み、元気良く起立する。
「倉上、起立しました!」
 現場を押さえた講師だけでなく、不手際をやらかした級友に対する緊張を含んだ周囲の視線すらものともしない、居直りとも取れる圭佑の態度に、ドイツ人であるパウエル講師は日本人と殆ど変わらぬ端正な発音で質問してくる。
「倉上、君は随分と饅頭が好きな様だな?」
「はい!饅頭は大好きです!どれ位好きかというと素晴らしいドイツの歌曲と同じ位に好きです!」
 これは音楽を得意とするパウエル講師に対する、言ってしまえば追従に近い発言だったが、そんな圭佑の答えに対してパウエル講師は不吉な微笑みを口元に浮かべながら断言する。
「それでは、君の好きなドイツ語の歌曲を、何でも良いから一曲ここで歌って貰おうか」
 パウエル講師にとっては、自分の授業中に不真面目な態度を取った学生に軽いお灸を据えてやるつもりだったのかもしれないが、途端に圭佑の目が輝いた。
「それでは僭越ながら、『シューマン作品29「3つの詩」より第3曲、流浪の民』を歌わせて頂きます!」

Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig,
da regt's sich und raschelt und flüstert zugleich.
Es flackern die Flammen, es gaukelt der Schein
um bunte Gestalten, um Laub und Gestein……

 現在はロマと呼ばれているジプシーたちが、故郷を離れた旅路の中で過ごす一夜の情景を歌った力強いながらもどこか哀しげな歌曲を、未だ完全な変声期を迎えていない圭佑が想像していたより遥かに明瞭な発音で歌う姿に、パウエル講師も思わず感心して歌声に聞き惚れる。

……fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Wer sagt dir wohin?

 最後の歌詞まで見事に歌い切った圭佑に級友たちが惜しみない拍手と歓声を送り、当の圭佑も自慢げに軽く上げた手を振りながら『抑えて抑えて』などと周囲を宥める中、授業終了のベルが鳴り響いた。
「それでは、今日の授業はこれで終了とする」
 教科書を片手に教壇を降りたパウエル講師は、しかし、急場をうまく切り抜けて得意になっているらしい圭佑に向かって厳かと言ってよい表情を向けると、実に重々しい口調で宣言してみせた。
「そうそう、先ほど歌って貰った『Zigeunerleben(流浪の民の原題、ジプシー暮らしの意)』だが、発音には問題が無かったから次回の授業までに歌詞と日本語対訳を筆記して提出する様に」
 最後の最後で完全勝利を逃した衝撃から呆然とする圭佑に、教室を出て行く講師の背中を見送った信乃が声を掛ける。
「まあ、せいぜい頑張るんだな」
 ちなみに俺は家の用事があるから今日は真っ直ぐ帰るぞ。そんな信乃の言葉に対して残念そうに頷いてから今度は優吾に声を掛ける圭佑だったが、優吾からも読みたい本があるので寮の部屋に戻ると答えが返ってきた。
「何だ、つまんねーの」
 ぼやく圭佑に、優吾が窓の外を見ながら忠告する。
「空模様が怪しい、雨が降る前にお前も早く自分の家に帰った方が良いぞ圭佑」
 ええーっ、雨?おれ傘持ってないよとぼやく圭佑に『なら早く帰れ』と突っ込みを入れてから教室を出る信乃と優吾。やや遅れて校門を出た圭佑は特別課題提出を命じられた傷心を癒やそうと、最近では珍しく一人で縄手方面に向かう。

 そして、いつもなら決して遅れない夕飯時、更に夜半をとうに過ぎた時間になっても家に戻らなかった。
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場面その8

2016-08-18 01:24:00 | 松高の、三羽烏が往く道は
 そして日曜日。
 学生服姿で学生帽を被って黒革靴を履き、更に膝丈の袖無し外套を纏った圭佑、信乃、優吾が松本でも名のある料亭である翡翠(かわせみ)亭に到着すると、心得たように仲居が現れて三人を離れに案内してくれた。とにかく女性には愛想良くが習い性になっている信乃が笑顔で礼を言うと頬を赤らめ、それでも失礼にならないような動作でその場を去って行き、やがて料理が運ばれてくる。昼日中、しかも成人前の学生に出す膳として流石に酒は無いが、料理は川魚や季節の山菜だけでなく卵や山鯨(猪)などを使った豪勢なものだった。
「お前の兄貴、今日は随分と張り込んでくれたようだな」
 感嘆とも呆れとも付かない呟きを漏らす信乃と無言のまま料理を見詰める優吾に、圭佑が凄いだろうと嬉しそうに自慢していた頃。

 圭佑の兄、秀一は翡翠亭の中庭を見合い相手を伴って散歩していた。

*   *   *

 型通りの挨拶が終わり、あとは若いもの同士でと言うお定まりの言葉と共に大人連中が退散したあと、秀一は自分の眼前で控えめに俯いている着飾った娘を中庭に誘う。その柔らかな笑顔と穏やかな物腰に緊張がほぐれたのか、娘のほうもぎこちなく微笑みながらそれに従った。
 敷地自体はそれ程広くないのだが、巧みに配されて上手い具合に視界を覆う植木と、岩や石塔を傍らに置き石橋を渡した池の存在で実際より遙かに広く感じられる庭園を進みながら、秀一は娘に向かって話し掛ける。
「優香さん……でしたか、貴方もわたしのような年の離れた相手とお見合いとは災難でしたね」
 当然だがこの時代、自由恋愛などと言うものは存在しないに等しい。子供の結婚は親同士が決め、極端な場合は式当日までお互いの顔を知らなかったりもした。ましてや秀一のように大店の跡取りともなれば、本来なら相手は引く手あまたで年齢的には既に家庭を構えていてもおかしくはない年齢と言える。
「そんなことありませんわ!確かにお目に掛かるまではどんな方かと不安でしたけれど、想像していたよりずっと素敵な方でしたもの」
 なかなか積極的な褒め言葉に秀一が笑顔で応じると、優香は再び控えめな、しかし探るような口調で言い添える。
「でも、確かにこんな素敵な方が今までお一人だったのはとても不思議ですわ」
「昔、鬼隠しに遭ったのですよ」
 一瞬だけロイド眼鏡に隠された眼に強い光を宿しながら呟いた言葉を聞き取り損ねたのか、戸惑いの表情を浮かべる優香に、秀一は再び柔らかく微笑んでから囁いた。
「ところで素敵な櫛ですね、拝見しても宜しいですか?」
 生まれて始めて父親以外の男に、もしも接吻を求められたら逃れることの出来ないほどの間近に顔を寄せられ、優香は上気した表情で頷いてみせる。細やかな手付きで優香の髪から櫛を抜き取った秀一は、しばらくの間黙って櫛を眺めていたが、やがて優香に向き直ると櫛を手にしたまま尋ねる。
「夢二がお好きでなのすか」
 はい、と答える優香。大正浪漫のシンボルと称される当時の流行画家の作品は、美人画の他にも挿絵、商標、それに日用品のデザインなど幅広く、優香の櫛も明らかに『夢二のいちご』と呼ばれる絵柄を元に細工が施されているのが判った。秀一は手にした櫛を矯めつ眇(すが)めつ眺めやってから笑顔のまま続ける。
「実はうちの店には様々な職人の出入りがありましてね、特に修行中の若い職人は良くわたしに自分の作品を見せてくれるのですよ」
 彼の言わんとすることが判らないのか曖昧に微笑む優香に、更に言葉を重ねる秀一。
「その中に面白い男がいましてね、依頼を受けると細工物に一見では判らぬような印を入れるのが得意なのですよ」
 例えば依頼主が櫛を贈る相手の名前をローマ字で図柄に入れ込むとかね。そんな言葉に一瞬だけだが優香の表情が歪む。
「ところで、『MUTUMI』と言うのはお友達の名前ですか?」
 既に蒼白と言うべき顔色となった優香に、心底から残念そうに秀一が言葉を掛ける。
「個人的には、その外面の良さも底意地の悪さも含めて貴方のことはなかなか気に入ったのですがね。商家の人間として他人のものに手を付ける相手を伴侶に選ぶ愚は犯せないのですよ」
 迷いの無い動作で櫛を己の懐に仕舞い込み、とても残念ですと言い置いてから歩き出す秀一に、優香は追いすがることも出来ぬままに一人小刻みに震えながらその場に立ち尽くしていた。
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場面その7

2016-08-01 00:00:16 | 松高の、三羽烏が往く道は

 優吾が橋本を呼び出した数日後。
 その日の天気は上々だったので、生徒達は昼休み時間に教室を離れ中庭やホール周辺の屋外で弁当を使う者が多かったが、圭佑や信乃、それに優吾の姿もその中にあった。
 寮暮らしの優吾はホールで買った業者搬入の弁当を、他の二人はそれぞれ家から持ち込んだ弁当を敷地内の立木の枝葉をを初夏の爽やかな風が揺らす中で広げ、いつものことだが圭佑は三人の中でもひときわ嬉しそうに箸を動かす。松本でも有数の大店の息子である圭佑の弁当は量だけでなくおかずの内容もなかなかに豪華なもので、信乃などはこれだけの量の飯を日常的に喰らっている筈の圭佑が、どうして縦にも横にも伸びずに小さい躰のままなのかと疑問に思ったりするが、当然ながら口に出したりはしない。
「ああ、そう言えば二人とも、今度の日曜って何か予定あるか?」
 ふと思いだしたように尋ねてくる圭佑。
「いや、特には無いが」
「己も無い」
 信乃と優吾が答えると、圭佑はにんまりと満面の笑みを湛えてから提案してくる。
「それじゃさ、ちょっと良い料亭で一緒に昼飯なんてどうだ?」
「何かあるのか」
 今までの経験上、圭佑がこういう表情をするのは大概が碌でもない騒動の発端であると知っている信乃が一瞬だけ優吾と視線を交わし合ってから呟く。
「実はさ、うちの秀一兄ちゃんがお見合いするんだよ。でさ、父さん達には内緒でおれ達三人にご馳走してくれるって言うからさ」
「俺達三人に?」
「信乃と優吾には色々おれが世話になってるから、こう言う機会にお返しをしておきたいって兄ちゃん言ってたぜ」
「世話に、ねぇ」
 別に世話をしてやっているなどと言う気はないが、確かに圭佑と連(つる)んでいると面倒ごとに巻き込まれる頻度は相当に高い。そんなことを信乃が考えていると、同級生の一人が三人の存在に気付いたように近寄ってきて声を掛けてくる。
「おい圭佑、羽柴先生が職員室まで来いって呼んでたぞ」
 何かやったのかお前、と続く同級生の言葉に思い当たる節でもあるのか僅かに表情を引きつらせる圭佑が救いを求めるように信乃と圭佑に視線を送るが、二人は自分の弁当から視線を外すことはなかった。
「取りあえず行って来い、お前の弁当は見ていてやる」
 優吾が重々しく呟くと圭佑も観念したように立ち上がり、すぐ戻るからな!と叫ぶなり小走りでその場を駆け去って行く。
「……それにしても圭佑の兄さんが見合いとは、とうとう覚悟を決めたのかね」
 信乃の呟きに優吾も頷く。
「元々から、大店の跡取りとしての責任を果たさねばならぬ身ではあっただろうが」

 秀一兄ちゃん、何か女性が苦手なんだって。おれが小さい頃に何かあったらしいけど、詳しくは教えてくれないんだよね。

 以前、圭佑が行っていた言葉を思い出しながら頷き合う二人。圭佑の兄である秀一とは何度も会った事があるが、さすが大店の番頭を勤めるだけあって人当たりが良く、少しばかり締まりのない印象は拭えないが顔立ちも悪い方ではない。故に秀一が現在まで女性を遠ざけるに至った、圭佑の言う『昔あった何か』は相当に深刻な事件だったと容易に察することが出来た。
「まあ、わざわざ圭佑や俺達を見合い現場に、しかも親に内緒で呼びつける辺り、何かはありそうだが」
「確かにな」
 根っから坊ちゃん育ちの圭佑と違って平穏とは程遠い、はっきり言ってしまえば相当に屈折した幼少時代を送ってきた信乃は巧い話を額面通りに受け取るという習慣を持たないし、優吾は信乃とは別の意味で他人の好意に甘えるのが苦手だ。しかしそれ故に、何度か世話になっている秀一が圭佑と二人を巻き込んで何かを企んでいるというのなら、むしろ積極的に乗るべきではないかとも思えるのだった。
「とりあえず、今度の日曜か」
 信乃が呟き、応ずるように優吾が頷いてすぐ、先生との話を終えたらしい圭佑が『おれの弁当~っ!』と叫びながら二人の側に駆け戻ってくる
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場面その6

2016-07-25 00:29:50 | 松高の、三羽烏が往く道は
 答えが知りたいのなら、遠慮せずにかかって来い。

 そんな優吾の言葉に、橋本は己の頭に血が上るのを感じながら組み討ちを挑む。しかし、次の瞬間には地面に転がされていた。
「これで終わりか?」
 橋本を見下ろす優吾の視線はあくまで穏やかでありながら何故か哀しげで、それ故に更に橋本を逆上させる。
「舐めるなあぁぁっ!」
 何度も何度も地面に転がされ、視界が霞んで足下も覚束なくなってもなお優吾に挑み続けながら、橋本はやがて奇妙な違和感を覚える。
「優吾……お前、何故、自分からは仕掛けてこない」
 すると優吾はようやく気付いたかと言わんばかりに俯き、重々しく呟いた。
「己(おれ)はもう、自分から相手に技を掛けられんのだ」
「馬鹿な!」
 一体何だってそんなと呟いた橋本は、自分を見下ろしてくる優吾の、まるで殉教者を思わせる瞳に胸を突かれたように黙り込んだ。優吾が柔道を思い切るに当たって周囲は様々な憶測を元に数多くの無責任な噂を流したが、その中には聞くに堪えない誹謗中傷も含まれていて、最も酷いのは、優吾が昔から折り合いの悪かった義父を己の柔道技で投げ殺したというものだった。もっとも、優吾の義父は酒浸りで博打打ちで乱暴者という、それこそ絵に描いたような鼻つまみ者だったので、優吾の母親が亡くなってからすぐ村から姿を消したと知った周囲も『あんな男、 たとえ殺されたとしても自業自得だ』と、概ねは優吾に対して同情的な意見ばかりであったのだが。しかし。
「俺は、俺は認めんぞ、優吾」
もはや立っているのもやっとの状態で、それでも優吾に掴み掛かりながら橋本は吼える。
「俺はまだ、お前に一度も勝てていない、それなのに、お前は俺の前から消えると言うのか!」
「……今、此処で己がお前に投げ飛ばされれば、お前は気が済むのか?」
「ふざけるなぁ!」
 優吾の言葉に激昂し、最後の力を振り絞って技を掛けようとした橋本は、次の瞬間、実にあっさりと地面に叩き伏せられる。それでも何とか必死に立ち上がろうとしたのだが、流石に限界だった。気力や根性だけでは決して埋めることの出来ない実力の差を嫌と言うほど思い知らされ、畜生と何度も呻く事しか出来ない橋本を見下ろしながら、優吾は厳かと言って良い表情と口調で宣言する。
「己はもう歩むのを止めたが、お前が諦めずに歩み続けるなら、いずれ必ず今の己が立っている場所より先に進み続けるだろう……だから、結局はお前が勝つ事になる」
 勿論、それを逃げと言われても反論は出来ないし、今の己には済まないと謝罪する以外の事は出来ない。そんな優吾の言葉に橋本は再び吼えた。
「謝るな!
 お前は本当に謝らねばならような真似をしたのか!そうでなければ謝るな!」
叩き付けるような言葉に対して、優吾は不意に橋本から顔を背けて自らの頭上に視線をやった。釣られるように橋本が見上げると、夕暮れ時特有の白みがかった青色をした空は奇妙に寂しげで、所々に浮かぶ雲だけが薄紅を差したように輝いている。
「済まない……」
 そんな風に何度も呟いてみせる優吾が、今の自分の顔を見せたくないのだと気付いた橋本は我知らず地面に己の両拳を叩き付けながら叫んでいた。
「謝るなぁぁぁっ!」
 結局、俺は優吾の事など何も知りはしなかったのだと思い知りながら、橋本は嗚咽を繰り返す。そして優吾も又、空を見上げたままの姿で、随分長い間微動だにしないまま立ち尽くしていた。

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場面その5

2016-07-17 22:37:49 | 松高の、三羽烏が往く道は
 其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山。
(其の疾きこと風の如く、其の静かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざる事山の如く)

 これは信州松本にも深い所縁のある、甲斐の虎と称された武田信玄が旗印として使用していたという孫子の兵法書である軍争篇の一節だが、かつて柔道を志していた頃の優吾は更にこの後に続く言葉、つまり、

 難知如陰、動如雷震
(知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し)

 を含めた姿で称され、近在の柔道者に恐れられた負け知らずの存在だった。橋本も実は公式、練習、更に野試合を含めて、ただの一度も優吾に勝てたことはない。
 何しろ柔道の才能だけでは無く体格にも恵まれ、それでいて決して奢らず地道な練習を欠かさない、更に対戦相手を侮らず見くびらず、ただ揺るぎない巌のように対峙して機会を得れば疾風のように迫り、更に燎原の火を思わせる勢いで攻め立て、仕上げに雷撃のような決め技を放ってくる何とも図りがたい化け物。
 それでも橋本は決して諦めずに優吾に向かっていき、優吾もそんな橋本とやがて僅かだが言葉を交わし合うようになり、いつしか二人の間には、友情と言うには余りに堅苦しい関係が何となく築かれていくことになった。橋本にとって優吾はいずれ並び立ち、やがては越えるべき目標であり、それ故に日々研鑽を重ねていたのだ。
 だが優吾が中学三年になる少し前、彼の母親が亡くなって間もない冬の頃。優吾は突然道場に通うのを辞め、学校の柔道部も退部し、当然のように試合にも一切出場しなくなる。周囲の動揺と慰留は相当なものだったが優吾の決心は揺るがず、何故柔道の道を断念したかについても自身からは一切説明しようとしなかった。
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場面その4

2016-07-10 23:31:07 | 松高の、三羽烏が往く道は
 その日、優吾は授業が終わるとすぐに寮の自室に戻って袴をはいた和装に着替えると、学帽も被らぬ下駄履きで校門を出た。見上げると空は未だ明るく澄み、山の端に一掴みほどの雲が浮いている以外は地上に降り注ぐ陽光を遮るものはない。そのまま、町には向かわず校門前の通りを左に折れ、すぐ側にある松本商業学校を目指すと、橋本は約束通り、校門からやや離れた場所で優吾を待っていた。
「待たせたか?」
「……いや」
 口数少なく問い掛ける優吾に、やはり口数少なく橋本が答える。そのまま二人は連れ立って歩き出すと、すぐ側を流れる川縁の道を東に向かって遡るように進んでいった。
 やがて人家はまばらになり、傍らに苗が植えられたばかりの田んぼが延々と続く道から人の姿が絶えた辺りで、無言のまま河原に降りる優吾に、やはり無言のまま続く橋本。そのまま川縁に座り込んだ二人は、絶え間なく音を立てて流れ去って行く水の流れに目を向けたまま微動だにせずに長い時間を過ごすばかりだったが、こうしていても埒が明かないと判断した優吾は、二人の間に横たわる屍のような沈黙を思い切って自分の方から踏み越えた。
「この前の騒動は、お前らしくなかった」
「ああ、俺もそう思う」
 優吾の言葉に対して素直に頷いてから、橋本は、やや途切れがちにではあったが話し出す。
「あの女学生は、俺の妹の先輩だ」
 だが、俺が職人見習いの友人に頼んで妹の為に作って貰った特別誂えの櫛を差し出すほど、仲が良い相手ではないと思う。そんな風に続いた橋本の言葉に対して流石に眉をひそめる優吾。
「あまり、こういうことは言いたくないのだが、証拠はあるのか?」
「妹が櫛を無くしたと泣いて俺に謝った次の日、あの女が同じ意匠の櫛を髪に飾っていた。だから俺も頭に血が上った」
「それは難しいな」
 呟いてから黙り込む優吾。やがて今度の沈黙を破ったのは橋本だった。
「俺のことは良い、それより知りたいのはお前についてだ優吾」
 一体、どのような理由で柔道の世界から身を引いた。そんな橋本の問い掛けに優吾は無言のまま俯く。
「この前俺を投げ飛ばしたお前の技に衰えは感じなかった。それなのに何故だ」
 更に続く橋本の言葉に、優吾は無言で立ち上がると周囲を見回してから呟く。
「ここでは足場が悪い、余所に移るぞ」
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場面その3

2016-05-23 00:57:20 | 松高の、三羽烏が往く道は
 旧制の学校制度は現代と違って様々な中等、高等教育機関、更に軍学校が存在した。
 例えば尋常小学校を卒業した後には中学校、七年制高校、高等女学部、高等小学校、実業学校などの進路が複数存在し、更に高等学校(旧制高校)専門学校、高等師範学校、陸軍兵学校、海軍士官学校などに分岐していく。

 なお官立大学、更に最終学府である大学院に入学するには七年制高校、もしくは高等学校を卒業する必要があったが、旧制高等学校の在籍者数は当時の同世代男子の1パーセントにも満たなかったという。

 ここで話は松本高校に戻るが就学年数は三年で学級は基本的に四十人編成、文科理科共に甲・乙類のクラスがあったと言うので全生徒数は四百八十名ほどの計算だろうか。甲類は第一外国語として学ぶのが英語、乙類は独語となる。文科と理科では若干授業内容が異なるが、国語・漢文、歴史、地理、哲学、数学、物理、化学、心理、体操など今日でも馴染み深い学科の他に修身、自然科学、図学など聞き慣れないものも存在する。

 いずれにしろ学生らは週に三十二から三十四時間、三年間では九十八時間をそれらの勉学に費やす計算となる訳だ。ざっと計算すると月曜から金曜までの五日間は六時限、土曜日は三時限編成と思われるが、残念ながら、その件に関しては乏しい資料から正確な時間割を発見することが出来なかった。

 それはともかく、この物語の主人公である三人は文乙、つまり文系で第一外国語は独語選択クラスの二年生である。授業内容は高度であったが『教わるのではなく学生自らが考え、そして学ぶ』をモットーに数多くの名物教授が個性的な講義を行う興味深いものであり、学生の入れる茶々で授業内容が脱線することも珍しくなかったようだ。
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場面その2

2016-05-05 21:22:29 | 松高の、三羽烏が往く道は
 松本城が築城された頃からの歴史ある町人屋敷町である本町通り。
 なまこ壁、或いは白塗りの土蔵造りの建物が数多く整然と建ち並ぶ目抜き通りにある中でもひときわ大きく重厚な店構えを誇る、黒瓦に設えられた屋根付きの看板に『神倉屋』と記された店の暖簾を、圭佑は元気良く潜り抜けた。
「ただいま、秀一兄ちゃん」
 すると、店に座って煙草盆を傍らに置いた姿で煙管をふかしながら大福帳に何事かを書き付けていた二十代半ばの男が、筆を止めてから圭佑に向かって微笑む。
「おや圭佑、今日は町で見事な大立ち回りを演じたそうだね」
「ええーっっ!何で知ってるの兄ちゃん?」
 驚きを隠せない弟に、秀一はロイド眼鏡の蔓に手をやってから答える。
「ちょうどウチのお客さんがあの騒動に居合わせたのさ」
 あまり危ないことをしてはいけないよなどど口では諫めつつ、その実は弟の活躍が愉快で堪らないらしい秀一に向かって、圭佑は自慢げに答える。
「大丈夫だよ、信乃も優吾も一緒だったから」
「そうか、あの二人が居れば安心だな」
 眠い猫を思わせる糸目を更に細めながら呟く秀一。現在は神倉屋の番頭として父を扶けて働く彼は、家族の中でも特に年の離れた弟である圭佑を溺愛していた。
「そう言えば、お前が助けたお嬢さんは女子職業学校の女学生だったのかい?」
 煙草盆の灰落としに煙管の灰を落としてから問い掛ける秀一に、圭佑は素直に頷いてみせる。
「うん、そうだよ」
「実はね、今度父さんの勧めでお見合いをすることになったのだけど、相手はまだ女学生だと言うんだ」
 ひょっとしたらお前が助けた娘さんがそうかも知れないなと笑う秀一に、何故かいきなり難しい表情になる圭佑。
「うーん、だとしたら、ちょっと嫌だな、おれ」
「おや、どうしてだい?」
 普段は温厚極まりない秀一の、眼鏡に隠れた瞳が奇妙に底光りするのにも気付かぬまま、圭佑は続ける。
「別に礼を言って欲しかった訳じゃないけどさ、あの女学生(メッチェン)、信乃にばかり礼を言って、おれと優吾には見向きもしなかったんだ」
 そりゃ信乃は奇麗だから見とれて他の男が見えなくなっても仕方ないけどさ。などと唇を尖らせる圭佑に、秀一は普段通りの瞳に戻って促す。
「おっと、そろそろ夕飯の時間だ。一度部屋に戻って鞄を置いてきなさい」
「うん!そう言えば何だか腹減ってきたよ」
 先程まで縄手通りで信乃や優吾と共にさんざん鯛焼きを喰らってきたとは思えぬことを呟きつつ奥の間に消える圭佑の背中を見送りながら、秀一は再び煙管の吸い口を咥えてから大福帳に筆を走らせ始めた。
「うーむ、『松高の、三羽烏の飛ぶ空は』……かな?いやいや、どうもしっくり来ない」
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場面その1

2016-05-05 06:32:22 | 松高の、三羽烏が往く道は
 山を彩る桜の薄紅色が風に散り、入れ替わるように新緑の色が濃くなると、松本の季節は春から初夏へと移り変わる。本来なら一年の中で最も爽やかで過ごしやすく、人々の心も我知らず心浮き立つような時期ではあるが、そんな中でも厄介な騒動は発生するらしい。

「お願いです、返して下さい!それは大切なものなのです!」
 多くの人々が行き交う大通りの一隅で、そんな声が響き渡る。何事かと通行人が顔を向けると可憐な女学生(メッチェン)が櫛を持った学生服姿の若者に向かって哀願を繰り返している姿があるが、何しろ若者は大柄で、しかもひどく興奮している様子なので人々も下手な手出しは出来ないと見て見ぬ振りをするか、せいぜい遠巻きに成り行きを見守るしか出来なかった。ごく稀に若者を諫めようと進み出る者も居たが、関係ない者は引っ込んでおれ!と当の若者に凄まじい迫力で怒鳴られると引き下がるしかない。やがて若者はいい加減にせい!と叫ぶと取りすがってきた女学生を容赦なく振り払った。よろよろと力なく道路に崩れ落ちる女学生の姿、直後。
「その辺にしておけよ」
 いつの間に現れたのか小柄な学生服姿の少年が男の手からひょい、と櫛を奪い取る。一瞬、何が起こったか判らぬままギョロ目をしばたたかせた若者は、少年の手に櫛が握られているのに気付いて何事かを吼えながら掴み掛かった、しかし。
「信乃!」
 少年が素早く櫛を若者の手の届かない方向に放り投げすと、信乃と呼ばれた学生服姿の若者が危なげない動作でそれを受け止める。一瞬だけ若者の注意が逸れた隙に少年は若者の手が届かない場所まで軽業師のように蜻蛉を切って離れ、頭に血が上ったらしい若者が櫛を受け取った信乃にも構わずその姿を追おうとした時。
「優吾!」
 少年の叫びに答えるように進み出た、やはり学生服姿で体格の良い若者が突進してきた相手を見事な返し技で投げ飛ばした。
「が……はっ!」
「この場は引け、橋本。例えどんな理由があろうと、このような場所で女に手を出した時点でお前の負けだ」
 優吾と呼ばれた若者が道路に叩き伏せた相手にそう呟くと、周囲からどっと歓声が上がる。それは若者を制した三人組が被る学帽に輝く校章に一同が遅ればせながら気付いたせいでもあった。

 松葉をあしらった旭日の中心に『高』の一文字。

「やっぱり松高の学生さんか」
「大したモノだな」
 周囲の囁きも無理はなかった。明治三十二年よりの悲願だった官立高等学校開校が紆余曲折の末にようやく大正八年に実現して以来、松本高等学校の学生と言えば『末は博士か大臣か』と讃えらえれ、将来的にはこの国の未来を背負って立つ筈の存在と認識される、市民にとっては畏敬の対象でもあったのだ。
 橋本と呼んだ若者から優吾が手を離すと、相手は立ち上がるなり睨み殺さんばかりの視線を優吾に向けてから、それでも無言のまま大股でその場を歩み去って行く。
「何だ優吾、あの松商生と知り合いか?」
 小柄な少年に問い掛けられた優吾が無言で頷く傍らでは、信乃が女学生に手を貸して立たせてから先ほどの櫛を差し出して尋ねていた。
「これはお嬢さんの櫛ですか?」
「は……、はい。ありがとうございました」
 そんな問い掛けに女学生が夢見るような表情で答えるのも無理はない。人形のように整った顔立ちの信乃が柔らかく微笑みながら見詰めれば、大概の相手はその美貌に心奪われるのだ。それではお返ししますと櫛を手渡されると、女学生は何度も信乃に向かって礼を述べる。信乃はそんな女学生に向かって鷹揚に微笑んで見せてから小柄な少年に向き直って言う。
「さて圭佑、俺達を使ってくれた以上は相応の物を要求させてもらうぞ」
 すると圭佑と呼ばれた少年は事も無げに答えた。
「鯛焼きで良いか?」
「手を打とう」
「それじゃ縄手に行こうぜ、優吾も来るよな?」
「うむ」

そのまま三人は連れだって縄手通りに向かって歩き出す。
 痩身優美な信乃がすっきりとした動作で、大兵肥満の優吾が揺るぎ無い足取りで、そして小柄な圭佑が二人に遅れぬよう早足で歩み去る姿を、女学生を含む周囲の人々はその姿が見えなくなるまで見送り、やがてそれぞれの方角に散っていった。
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松高の、三羽烏が往く道は・序章の語り

2016-04-24 23:54:50 | 松高の、三羽烏が往く道は
 さてお立ち会い、これより始まる今は昔の物語。

 昔と言っても、チョンマゲを結って腰に大小を手挟んだお侍が通りを闊歩していたほど昔ではございません。御維新が終わり、明治の御代に始まった文明開化が爛熟期を迎え、日本がロマンとデモクラシーに満ちあふれた大正時代の話でございますから、平成も早三十年を迎えようとしている現在からは百年ほど昔の事でございましょうか。
 そして処は信州、戦国時代から残る名城である松本城下の街、つまりは松本市でございます。六万石には過ぎたる名城なんて揶揄されることもあるようですが、黒い堅固な五重天守と小天守、更に二つの櫓を有する風格ある姿は今も昔も松本で暮らす人々の誇りと言えましょう。
 さてこの松本城から駅に通じる大通りに出て暫し東に真っ直ぐ進むと見えてくるのが県(あがた)の森、現在は疎林の中に図書館や記念館、それに水の流れる小さな公園を有する市民の憩いの場と化しておりますが、実は此処こそ、この物語の主なる舞台となる旧制高等学校、当時は松本高等学校と呼ばれていた学舎が存在していた場所なのでございます。
 これで舞台は整いました。後は役者の登場によって物語の幕開けと相成ります。
 
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