あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

小田原城銅門とか

2010年05月04日 05時05分01秒 | お城&御所
銅門と書いて「あかがねもん」と読む。

銅門のオリジナルは、明治5年9月頃、陸軍省より払い下げとなり、解体されている。
あ。
終っちゃった~。
つまりトップ画像はいわゆるフィギュアなのですね。去年話題になったお台場1/1ガンダムと同じなの~。
凄いよね。これ10年位前に作られたんだよ~。
…そう言えば、私が始めて小田原城に来た時にはまだなかったような…。
沿革を書きますと、銅門は小田原城二の丸の表門にあたり、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸へと通じる、大手筋に設けられた枡形門である。扉の飾り金具に銅が用いられていたことにこの名の由来があると考えられる。銅門の北側には、半所の居館である二の丸御殿があった。
小田原城は、江戸時代前期の寛永9年(1632)に、稲葉正勝が城主となり、このころから石積みが行われるなど、小田原城の大幅な改造が加えられていた。銅門もこの普請によって築かれたものと考えられている。
以後銅門は、改造・修理を受けながら江戸時代をとおして存在したが、明治5年9月頃、陸軍省より払い下げとなり、解体されている。
史跡小田原城跡の本格的な史跡整備事業は、昭和58年から開始され、最初に大正12年の関東大震災後、石垣が崩れたまま埋め立てられていた住吉堀に隣接する銅門の復元事業を開始した。始めに枡形石垣の復元工事が完成し、平成6年度から櫓門、内仕切門、堀の復元工事に着手し、平成9年度をもって全ての工事が完了した。
以上小田原市教育委員会文化財課発行のパンフレットより。



赤い学橋を渡ってお城に行くのも良いですが、復元された銅門をくぐってかつての武士の気分で登城もなかなかオツですよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする