昭和35(1960)年御母衣ダム建設により湖底に沈む運命にあった旧矢の原家住宅(重要文化財)が三渓園に移築されてから、今年は50年目を迎えます。昭和30年代は高度経済成長により加速度的に各地の民家が失われた時期で、その危機感から民家を集めた多くの博物館が設立された時代でした。そのさきがけとなったのが、三渓園の旧矢の原家住宅の移築です。
建物は江戸時代後期の建築。岐阜県大野郡荘川村(現・高山市内)にあった現存する合掌造りでは最大規模の民家。式台玄関や書院造りの座敷など、農家ながら立派な接客の空間を備え、飛騨の三長者の一人ともいわれた矢の原家の豪勢ぶりがうかがわれる建物である
/居間。
/ダイニング。
こちらに2階はかいこ部屋。現在は糸をつむいだり、機を織ったりした木製の機械が展示されています。1階で囲炉裏に火を入れているためか、2階は独特の匂いがしてました。
ケーブルテレビの番組によると、原三渓の出身が岐阜だった縁でこの辺りにかつての面影を再現したとかなんとかゆってました。
/旧東慶寺仏殿(重要文化財)
期間特別公開。
縁切寺の名で知られる鎌倉東慶寺にあった禅宗様の建物。江戸時代の寛永11(1634)年建築。室町時代の様式を伝える。
明治40(1907)年三渓園移築。

中には何も安置されていない。
こちらからも横笛庵が見えます。


先日掲載した三渓園の見取図が小さかったので大きめの載せときますね~。
建物は江戸時代後期の建築。岐阜県大野郡荘川村(現・高山市内)にあった現存する合掌造りでは最大規模の民家。式台玄関や書院造りの座敷など、農家ながら立派な接客の空間を備え、飛騨の三長者の一人ともいわれた矢の原家の豪勢ぶりがうかがわれる建物である


こちらに2階はかいこ部屋。現在は糸をつむいだり、機を織ったりした木製の機械が展示されています。1階で囲炉裏に火を入れているためか、2階は独特の匂いがしてました。
ケーブルテレビの番組によると、原三渓の出身が岐阜だった縁でこの辺りにかつての面影を再現したとかなんとかゆってました。

期間特別公開。
縁切寺の名で知られる鎌倉東慶寺にあった禅宗様の建物。江戸時代の寛永11(1634)年建築。室町時代の様式を伝える。
明治40(1907)年三渓園移築。

中には何も安置されていない。
こちらからも横笛庵が見えます。


先日掲載した三渓園の見取図が小さかったので大きめの載せときますね~。
