あられの日記

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小石川後楽園の見所前半

2020年05月21日 16時28分56秒 | 歴史散歩
2020年3月21日、小石川後楽園のしだれ桜見物に行きました。
この時は六義園のしだれ桜→小石川後楽園のしだれ桜→汐入公園の陽光桜→乃木神社のしだれ桜と、1日で多くのしだれ桜を見物したので、投稿記事も増えてしまい、後楽園のさくら以外の紹介をパスしました。や、まさかその後の染井吉野のお花見散歩が出来なくなるとはこの時は予想もしてなかったんだよね。
で、先日、座間・さくら百華の道の早咲き桜の画像をさがして写真を検索したら小石川後楽園の見所の紹介をパスしたのも思い出しました。今日は小石川後楽園を紹介します。
まずは小石川後楽園についてから。
大前提が大名庭園ということ。
大名庭園とは、江戸幕府の政権下で、大名が江戸や地元に築造した庭園のことです。
大名は参勤交代で藩主は2年ごとに江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ交代します。つまり、大名は江戸と地元を行き来せねばなりません。ぶっちゃけ江戸に来て滞在し、お金を使って経済を回すのがお仕事です。となると、大名は江戸にある藩邸の庭をいじりたくなるわけで。他の大名に自慢すべく造園技術を注ぎ込み、庭の工夫を凝らすわけですよ。ってな事で、小石川後楽園も大名の夢が目一杯注ぎ込まれてます。
wikiによりますと、江戸自体初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖頼房が、水戸藩中屋敷(後に上屋敷となる)の庭として造ったもの。2代藩主の光圀の代に完成した築山泉水回遊式日本庭園です。後楽園の名前も光圀が命名。
ふまえて、桜は投稿済みの記事をご覧いただくとして紹介しますね。
まずはこちら。説明版によりますと「西湖の堤:この石堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、後楽園以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなった」とある。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見を取り入れ、中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山を庭に取り入れたとか。
つまりだね。上の画像の石の堤を見た大名は羨ましく思い、自分の庭にも取り入れたのですよ。
「大堰川(おおいがわ):京都の嵐山の下を流れる大堰川にちなんだもので、3代将軍家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に様々助言を与えたものと言われている。西岸には蛇篭を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れた。江戸時代には清き流れで園景を引き立てていた」
西岸は上の画像に左側です。
屏風岩:屏風のようにまっすぐに屹立していることから屏風岩と呼ばれる。3代将軍家光がしばしば訪れた際に、この近くの松の枝に手ぬぐいを掛け、河原の石に腰をおろしたといわれる」
坂道を上がる。かつて清水観音堂が立っていた高台から、しだれ桜を見物。
清水観音堂は現存してません。基礎礎石だけがあります。
回遊式庭園なので、本来この先へ進むには通天橋と沢渡りの2つがあります。
けども現在通天橋は補修工事中でした。
これね。なので、沢渡りの道をゆくべく高台から降りる。
石が楽しい。詳しい人は面白いかも?
で、一旦降りて石を渡ったらまた登り。そこに廬山に見立てた展望台がある。庭を一望出来ます。訪れた時はしだれ桜を見下ろせて素敵でした。
得仁堂(とくじんどう):2代藩主光圀が建てた園内で最古の建物で、光圀が感銘を受けた「伯夷・叔斉」の木像を安置した。堂の名は論語の「仁を求めて仁を得たり」による。」
伯夷と叔斉について解説版がありました。
わかりづらいなあ。なぜに光圀が「伯夷・叔斉」に心を寄せたかと言いますと、自分に重ね合う部分があるからです。
光圀は水戸徳川家藩主頼房の3男として寛永5年(1628)生まれます。頼房はこの時まだ正室を迎えておらず、正式な側室でもありませんでした。更に母を同じくする兄もある状態。けども寛永10年(1633)に世子に決定。寛永13(1636)に元服し、将軍家光から偏諱を与えられ光圀となる。
兄は頼重といい、讃岐国高松藩初代藩主となった。ちなみに、頼重・光圀共に父頼房に堕胎を命じられてたが、二人とも秘密裏に出産し、頼房に隠したまま京で育てられ、寛永14(1637)まで、父頼房に会ってない。
つまりですね。頼房は頼重の存在を知らなかったので光圀に後継を決めてたのですよ。
あ。ちなみに、頼房の次男は頼重・光圀兄弟と母の違う側室の子として生まれていますが、3歳、光圀が生まれた年に死去してます。
で、儒教を厚く信仰する光圀としては心のしこりができる訳だ。その象徴が得仁堂ですね。
ちなみに、光圀はやがて兄頼重の子を養子とし水戸徳川家の家督を継がせています。そして頼重は光圀の実子頼常を養子に迎え、高松松平家の家督を譲っています。
頼重と光圀の心は平穏になったかもしれんが、子供らの心は大荒れになったかも?知らんが。TBSの時代劇『水戸黄門』でしばしば黄門様の旅先が高松だったり、金毘羅さんだったりする訳はここにあります。
得仁堂正面。
得仁堂の高台を降りる。大泉水沿いを進むつもりが、工事中だったので、迂回。
円月橋:水面に映る形が満月のように見えることからつけられた名称。明の儒学者朱舜水による設計といわれており、得仁堂とともに当時の姿を留める貴重な建造物です」
この角度からだと円形に見えるかな?
ってな事で今日はここまで。明日の後半に続きます。
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