あられの日記

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泰山荘見学2

2019年11月19日 05時11分22秒 | レトロ建築
2019/11/3。国際基督教大学(ICU)にある国登録文化財(建造物)泰山荘のガイドツアーに参加(45〜50分)した。昨日の記事は見学ツアー当選ハガキに書かれていた注意事項を書き出しましたが、ツアー参加者には改めて泰山荘見学時のお願い用紙が配られました。
1)泰山荘の6つの建物(表門・待合・書院・高風居・蔵・車庫)は国の登録有形文化財です。お手を触れたり荷物でこすったりすることのないよう注意してください。
2)泰山荘の建物はすべて、外からのみご見学となります(中には入れません)
庭と書院は茶道部がお茶会に使用しています。お茶会に参加をご希望の方は、茶道部受付へお申し出ください。お茶席は有料です。
3)立ち入り禁止エリアには絶対に入らないでください。足場の悪い箇所がありますので十分にご注意ください。苔は踏まないように気をつけてください。
4)見学ガイドツアーは事前予約制です。
一畳敷を含む高風居は、見学ガイドツアーに参加の方以外は見ることはできません。
5)敷地内では、建物の外観のみ撮影可能です。ただしお茶会の妨げになるような行為はご遠慮ください。三脚や自撮り棒・フラッシュなど、ほかの来場者のご迷惑になる撮影は禁止。
ふまえて、見学はガイドツアー形式なので、ガイドに従い移動。ガイドツアー中の撮影は禁止、ツアー後自由撮影はOK(一畳敷と高風居は除外)。
ツアー開始の待ち時間を利用し、いただいた資料で事前学習。
泰山荘について 泰山荘とは、日産財閥の重役をしておられた実業家の山田敬亮氏によって、昭和初期に別荘として建設されたもので、1939年(昭和14)5月には完成披露の茶会(席披き)が数日にわたって催された。当時の様子は、茶会記や芳名録およびこの時に出版された「泰山荘之記」と題した書物に記録されている。
翌1940年(昭和15)には、山田家から中島飛行機会社(現富士重工株式会社)に売却され、戦時中は同社の創業者である中島知久平氏の住居として使用された。
1950年(昭和25)に、この別荘を含む周辺の土地は国際基督教大学の所有となり、泰山荘敷地内の建物はそのまま保存され、現在に至っている。
当初、この別荘には南多摩(日野)から移築した江戸時代の農家があり、母屋として使用されていたが、1966年(昭和41)の火災によって焼失したため、現在は茶室、書院、待合、蔵。車庫。表門の建造物と様々な由来を持つ石造物が残っている。その中で一際歴史的価値が高く興味ふかいのが茶室の「高風居」および、それに差し掛けられた書斎(一畳敷)の「草の舎」である。
以上のように、泰山荘内の建造物はその建設年代や構造からみて、歴史的に非常に価値の高い建物であり、建築経緯や使用用材の出処も明らかで、それを記録した刊行物も残っている。このため、1999年(平成11)10月14日付で「国の登録有形文化財」として登録されました。」
ツアー開始。まずは集合場所側の車庫の説明。
説明板「名称:国際基督教大学泰山荘車庫
年代:1936年(昭和11)頃
登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの。
特徴:木造平屋建。下見板貼(土壁を雨雪から保護する目的で貼られる板を下見板、羽目板という)、寄棟屋根の建物で、南面に「3枚扉をつける。郊外住居地における自動車普及の時代的状況を物語る建物として貴重である」
一言で言ってボロボロ。ICUでは泰山荘の保存に努めていて、2017年に表門と高風居、2018年に待合と蔵、そして今年2019年に車庫の改修予定です。
ガイドさんいわく「来年には改修が終わった綺麗な姿がご覧いただけるので、また見学ツアーに申し込んでください」だそう。隣の待合へ向かう。ちなみに、クライスラー・ルノー・パッカードなんかが入ってたとか。
実は上の画像で注目いただきたいのは手前の瓦です。これは去年改修があった蔵のトップに据えられていたオリジナルです。使わなくなった瓦を庭に再利用するのは、昔からやっていたことで、古い寺院などには瓦を埋め込んで模様を作ってるところもありますね。
待合:江戸末期築・1936年(昭和11)頃移築。
江戸大崎にあった備前池田家下屋敷の茶室「池亭」を移築したものと伝えられています。寄棟造(2つの台形と2つの二等辺三角形からなる屋根)。茅葺。平屋建の建物の内部には茶室、次の間、水屋、取次、土間、玄関を備えています。現在は主にICU茶道部の活動場所として使われています。
見学開始。
よく見ると、茅葺の屋根にへんな構造物が刺さってますね?この正体は、屋根にカラス避けの針金を貼ってるのですよ。カラスが巣材として茅葺の茅を抜いて持って行くのを防ぐためなんですって。
ところで、撮影構図的にはもうすこし離れた場所から全体を入れたいところなのですが、ICUは庭の苔も保存物と考えていて、見学者が不用意に踏まないように、軒下のコンクリートかな?画像下に写ってる場所を進むように注意されたからです。




待合も去年2018年に改修を終えたばかりなので綺麗です。
次は見学のキモの建物、高風居と一畳敷です。ここで再度注意。「足元注意でお願いします。苔を踏まないように、石の上を移動してください。高風居と一畳敷は国分寺崖線に建てられており、石段を降りた先にあります。足元の悪い場所もありまして、現在は曇り空のコンディションですが、雨が降り始めたら見学ツアーの中止も考えてます。怪我などされないよう十分な注意をお願いします」
高風居と一畳敷の建物の周囲が狭いので、外観だけでも安全に見学するスペースが限られてるので、見学ツアーは人数を少数に限って30分ごとの出発とせざるを得ないようです。そこまでしても見る価値がある建物なんだよね。ちなみに、ブログに貼り付けてる画像は、ガイドツアー参加後撮影したものですが、高風居と一畳敷に限っては撮影不可でしたし、立ち入り禁止エリアにあるので、後から再度見物にも行けません。ガイド参加者は心に焼き付けるのだ!
国分寺崖線の斜面には、現在は大きな木がいっぱいで高風居に影が落ちていて薄暗い。けども泰山荘が作られた当初はここから富士山を眺める作りだったとか。
高風居:1925年(大正14)築・1936年(昭和11)移築。
泰山荘の中で一番有名な建築物です。入母屋造(寄棟屋根を下に、切妻屋根を上に乗せた形状の屋根)・茅葺・平屋建の建物で、「一畳敷」と呼ばれる畳一畳の書斎と茶室、水屋からなります。「一畳敷」は松浦武四郎が1886年(明治19)に建てたもので、茶室、水屋は徳川頼倫が同様に古材を集めて建てました。
「一畳敷」は松浦武四郎が収集した全国の寺社の古材が80以上使われています。
「高風居」は泰山荘建設の際に代々木上原の徳川邸から三鷹に移されました。
撮影はできないのですが、受付で寄付したらA4プラスチックファイルをいただいたので、プリントされてた一畳敷の画像を紹介。
一畳といえ、周囲を床材を巡らせてある。使われてる古材は80個以上。注目度の高い古材をピックアップ。
畳のまわりの額縁板は、奈良県吉水神社(旧吉水院)の元は天皇が住んでいた部屋の台座の前に使われていた地板でした。天皇とは後醍醐天皇以下、吉野朝歴代の天皇が歩いたかもしれないということで、勤皇家の武四郎にはこの木材を使用するのが嬉しくて、目立つ畳の額縁に使った。
床の間釣柱は、静岡県鉄舟寺(旧久能寺)の観音堂の欄干に由来。床柱として「釣られた」状態で使用。久能寺の起源は古代に遡るが、明治期に廃仏毀釈の対象となる。その後明治天皇の侍従だった山岡鉄舟により復興。
神棚の板は、出雲大社の古材を使用。
竹庇の腕木(外部の装飾)は、鎌倉鶴岡八幡宮の舞台を使用。現在は劣化が激しく、牡丹の花と葉の彫刻の識別ができない。
中仕切鴨居上の欄間は奈良県吉野山水分神社の欄間に由来。武四郎が修行した喜蔵院の住職により寄贈された。
床柱は、京都の秀吉が作った聚楽第の古材。
天井板は和歌山県の熊野本宮神社の扉に由来。外から天井を見上げると、中央に龍が描かれてるのが見えた。ガイドさんが天井を懐中電灯で照らしてくれたら龍の目が白く見えた。
ここから徳川頼倫が集めた古材になります。
茶室壁面は、和歌山の鷺森別院(京都の西本願寺の別院)に由来する杉戸を使用。
廊下沿い敷居などは、戦艦三笠。
え?マジで??三笠って1回沈没してるからその時に出た木かなあ?
ちなみに、一畳敷は単独では起立出来ず、隣接する建物(現在は徳川頼倫が建てた高風居)に寄りかかるように立ってます。そもそもは、「北海道」の名付け親でもある探検家・松浦武四郎が探検家引退後、旅をしながら全国で古材を収集。1886年神田五軒町の家の東側に差し掛かるように建てましした書斎です。武四郎は「自分の死後一畳敷を焼くように」遺言しますが、息子により保存された。
徳川頼倫が武四郎の探検資料を自らが創設した南葵文庫に移す際、一畳敷を知り、1908年に寄贈という形で麻布の南葵文庫へ移設。しかし、南葵文庫の解体と移転、文庫の全書を東京帝国大学に寄贈されることとなり、1924年代々木上原の徳川家清和園に移設することとなる。一畳敷は別の建物の支えが必要だったので、この時に茶室「高風居」が建てられた。しかし完成前に徳川頼倫が死去。後を継いで紀州徳川家に仕えた人が完成させた。
頼倫の死後10年以上を経て、日産の山田敬亮夫妻の所有となる。山田敬亮は茶会を開くための別荘を、裏千家の亀山宗月に以来。一畳敷と高風居は徳川家の財政難もあり、保存を亀山に託すことで売却される。亀山は古い建築物を移設し、1935年から36年にかけ各建築物を移築・新築する。
現在の三鷹の野川沿いの高台で、富士山を見ることが出来たことから一連の建物を「泰山荘」と名付けた。
前述をしたように、現在は国分寺崖線の木が大きくなりすぎて、高台の上からも富士山は見えません。まるで林の中みたいです。
おまけ:高風居の水屋の小襖は、武四郎が収集した古器物の目録を、頼倫が小襖に使用。
だいぶん長くなってきたなあ。一旦区切って明日に続きます。ちなみに、説明文はガイドツアー参加者に配布された、泰山荘必携冊子から抜粋しました。

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