旧小坂家住宅は、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社長で、後に貴族院議員、枢密顧問官を努めた小坂順造(1881-1960)が、昭和12年に別邸として建てられた屋敷で、戦時中は焼け出された日本画家の横山大観が空襲を避けるため、屋敷林の中にあった茶室(現存せず)に一時期移り住んでました。
敷地は国分寺崖線上の縁辺部にあり、敷地の半分は斜面地となっています。国分寺崖線の姿をよく残し、湧水も見られ、自然と建物が一体となった縁地空間を形成しています。
さて、ボランティアガイドさんの案内で先へと進みます。
書斎を見学した後、建物の周りをぐるりと囲むようにある廊下を進みます。
一口に廊下といっても様々ですが、小坂家の廊下は畳敷きです。先日紹介した横浜市金沢区の野島公園にある伊藤博文の別荘は、一部分のみに使用されてたガラス窓がここはふんだんに使われています。だから屋敷のまわりにぐるりと廊下が作れたのですね。しかも幅が広い。
や。あちらは明治31年(1898)に施工されたので、昭和12年に上棟された小坂家と時代が違いました。時代が違うとガラスの価格も随分違ってるだろうしね。
さて畳敷きの廊下をお庭を眺めつつ歩きます。
庭の向こうが国分寺崖線ですので、斜面が落ちてるから、眺めがいい。現在は背の高い建物が多い時代。でも斜面のおかげで屋敷が建てられた当時の眺めに近い庭が味わえます。
ん?人の声が聞こえてきました。
何だろう?と思っていると、床の間つきの居間。更に隣接する茶の間まで使用して大勢の人がいらっしゃりました。
これは…茶の間は見えない~。や。注目を浴びたので会釈だけして通りすがる…。
ガイドさん「勉強会をやってるんですよ。今日はかつてこのお屋敷で暮らしていた小坂家の方が見えて、ガイドさんに様々なお話をして下さってるんです」
ガイドさん、今日一番の笑顔を見せてくれました。
廊下の先にあったのは屋敷の水回り。ここで痛恨の失敗。
や~、浴室&脱衣所&便所の撮影を丸っと抜かしてしまいました。
あ~便所と浴室は現在との違いがよくわかるのに~~。
私のブログをよくご覧下さる方はもうお気づきですね。私は最近レトロ建物の見学にハマってるのです。やっぱ建物にはその当時の智慧の数々が詰まってるから楽しいのだ。それの撮影を忘れてどないすんじゃ!伊藤博文の別邸の便所で書いた事は、小坂家のガイドさんに教えてもらったのだ。
即ち金隠し(=大便の切り穴の前に設けられた覆い。またそのように作られた陶製の便器のこと)の鑑賞の仕方もガイドさんに教えてもらったの。
ガイドさん「この三畳間はどう利用されてたか分かりますか?」
私「ん~~??住み込みの書生さんがいたのかな?」
ガイドさん「正解っ!!凄いっ。さっきのお客さんは書生をご存知なくて、説明に難儀したんですよ」
私「最近レトロな近代建築見学にハマっててあれこれ見てるのでなんとなく…勘が働きました」
ガイドさん「ならば、これの正体がわりますか?」
私「これ…見た事あります。呼び鈴ですよね。各部屋で押したら、女中さんがこれで確認して呼び鈴を押した部屋へ行けるって奴」
ガイドさん「うわっ!!よくご存知ですね。え?どこでご覧になりましたか??」
途端に目を輝かせて詰め寄って来たガイドさんに私はびっくり!
や。知識欲旺盛な方って歴史好きの特徴なんです。私も度々似た様な状態になるもの。
私「え~と??どこだったっけな~…」
お、思い出せない。のんべんだらりとレトロ住宅を次々見てるから、どの家で見たか記憶が曖昧なのだ。
た、確か、鎌倉だったように思うんだけど~~~。
マズいマズいマズい~~。ガイドさんの期待に答えられない。
私「すみません。どこで見たか思い出せません」
たちまちがっかり顔になってしまったガイドさん。うう。なけなしの私の良心が痛むぜ。
ガイドさん「思い出したら教えて下さい」
私「ええ。もちろん」
呼び鈴は女中部屋の前の廊下の壁に取り付けられていました。
更に屋敷の奥へ進みます。
ガイドさん「これは何かわかります?」
私「これも見た事ありますっ。内倉ですよね」
ガイドさん「正解!どこで見ました?」
私「内倉は覚えてます。葛飾の寅さんの柴又駅の近くにある山本亭で少し前に見ましたよ」
ガイドさん「行ってみたい!え?どこどこ??」
私「柴又の帝釈天の側の…寅さん記念館の前にあるから行ってみて下さいっ」
ようやく一つ役に立てました。
内倉の前にレトロな冷蔵庫発見!
ガイドさん「アメリカから取り寄せた冷蔵庫です」
私「高かったんでしょうねえ」
ガイドさん「この冷蔵庫で小さな家が建ったそうです」
私「そうでしょうね。あ。撮影しても?」
ガイドさん「もちろん!」
私「この冷蔵庫、GM製。ジェネラルモーターズ製。うおっ!いわゆるレフレジレーターですね。凄っ!!」
ガイドさん「車を作る素材で出来てるから丈夫ですよ」
私「あちこちでレトロ建物見ますけど、大概がらんどうで当時のものが残ってないんで想像が働かないんですよね」
ガイドさん「内倉に書斎に飾る仏像も納められてました」
私「あれこれシチュエーションに合わせて選んでたのですね」
もうにこにこにこにこ。私もガイドさんもへんなテンションになってきた!
更に先へ進みます。
その先にあったのは、奥さんの衣装を収納する更衣室。居間より広い寝室。隣接するサンルームと洗面室。
ガイドさん「あっ!」
ん?ガイドさんが驚く??
彼女の視線の先を辿ると…。そこには恰幅のいいロマンスグレーのおじさんの姿がありました。
ガイドさん「あの方が小坂家の方です。今日お話をして下さるために見えてるんです」
へえ~。あの方はかつて子ども時代にここで暮らしたことがあるのか…。
レトロ建物の公開にはいくつかパターンがあります。例えば区とか市が保存してる場合。これは市の職員さんがいる場合もあるのですが、殆どは無人。しかも建物内部の公開はしてない事もままある。
んで別パターンはレトロ建物が生きてる場合。
かつて父が建物を作り、子が守り更にまた子へと伝えれて、なおかつそこで生活してる場合。ま。レトロ建物ですから、現在では使い勝手が悪くて住み続けるのは難しく、家族で保存しつつ自分等は別の建物に住み、貴重な建物を公開してらっしゃいます。この場合、色々なエピソードか聞ける事もあり一番楽しい公開のタイプですね。
他にはここ小坂家のように、トラストが保存管理してる場合。これは日本ではまだ数少ないパターンですが、イギリスを旅行した時、ピーターラビットの作者、ポッターの家とかナショナル=トラストで保存した家が沢山あったのね。みんなで保存する制度が確立されてて、素晴らしいなあ~と思いました。日本にもあったのですねえ。うまく根付くといいなあ…。
さて寝室。
ガイドさん「かつてはここにこのようにベッドがおかれていて、主人は朝目覚めると、ここの柱に取り付けてあった呼び鈴を押してたのです」
私「優雅な暮らしですよね。あ。この天井の照明はオリジナルですか?」
ガイドさん「そうです」
私「細工も凝ってるなあ~。これ国産なのかな?それとも輸入??」
確かガイドさんに答えも伺ったのですが、クリスマス・年末年始を挟んでから記事を書いてるんだ。記憶は彼方へ消えてしまった~。確か確か輸入品って聞いたような?んで輸入先も教えてもらったような?
せ・せっかくの知識も記録してないと無駄になる~~~。もうね。がっくりです。知ってる人に直接教えてもらう。これは貴重な体験です。聞いた人は出来たら何らかに書きとめてまた伝えて行くのは大切だよね。なのにやっちまったよ。しかもガイドさんは「何でも聞いて下さい」とおっしゃって下さってるのに、事前調べなく小坂家を訪れた私は、質問の準備もしてなかったの!せっかくの機会なのに~~~っ!!無念じゃ。
私が言えるのは「ま・またの機会に出直してくるので、その時教えて下さい」という情けないものでした。
小坂家住宅には一部2階もあります。かつて日本の建物は2階に居住空間を作るという発想がありませんでした。おそらく地震対策とか資金の問題とか様々な理由があったのでしょうが。…上の部分で寝起きしたのって、私が知ってるのは織田信長?やや。金閣寺とか三渓園の臨春閣の建物は、2階は風流の為にありました。即ち夜、月を愛でるために作ったんですね。やがて時代が下って2階には子ども達の部屋が作られるようになります。小坂家の2階も子どもの部屋がありました。が。現在2階は非公開。あ。あれだ。東北沢の旧前田邸和館もそういや2階に上がれなかったんだ。旧前田家住宅和館(2011年8月6日)の記事
レトロ建築巡りは楽しい。んでもあれこれ見過ぎてあれこれの記憶がまぜこぜになってきた。これはイカンです。ちと反省。や。すっかり長居した。先は長いんです。1つ目の訪問先だというのに、11時11分に到着。11時51分まで滞在しちゃった。イカンイカンイカ~ンっ!!冬の日は短いんです。先を急がねばっ。
ガイドさんにお礼を述べ、せめての感謝にアンケートに答え小坂家を後にします。
さて、静嘉堂文庫へはどう行けばいいのか?
や。ガイドさんに道を尋ねてる途中に20名程の団体さんがやってきて、玄関が大にぎわいになったのでそそくさと地図だけ見せていただきました。ところが瀬田四丁目広場を出た所で現在地がいまいちわからなく…。ああ。斜面地はこれだから困る。
あ。男子高校生発見!彼に聞いてみよう~~。
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敷地は国分寺崖線上の縁辺部にあり、敷地の半分は斜面地となっています。国分寺崖線の姿をよく残し、湧水も見られ、自然と建物が一体となった縁地空間を形成しています。
さて、ボランティアガイドさんの案内で先へと進みます。
書斎を見学した後、建物の周りをぐるりと囲むようにある廊下を進みます。
一口に廊下といっても様々ですが、小坂家の廊下は畳敷きです。先日紹介した横浜市金沢区の野島公園にある伊藤博文の別荘は、一部分のみに使用されてたガラス窓がここはふんだんに使われています。だから屋敷のまわりにぐるりと廊下が作れたのですね。しかも幅が広い。
や。あちらは明治31年(1898)に施工されたので、昭和12年に上棟された小坂家と時代が違いました。時代が違うとガラスの価格も随分違ってるだろうしね。
さて畳敷きの廊下をお庭を眺めつつ歩きます。
庭の向こうが国分寺崖線ですので、斜面が落ちてるから、眺めがいい。現在は背の高い建物が多い時代。でも斜面のおかげで屋敷が建てられた当時の眺めに近い庭が味わえます。
ん?人の声が聞こえてきました。
何だろう?と思っていると、床の間つきの居間。更に隣接する茶の間まで使用して大勢の人がいらっしゃりました。
これは…茶の間は見えない~。や。注目を浴びたので会釈だけして通りすがる…。
ガイドさん「勉強会をやってるんですよ。今日はかつてこのお屋敷で暮らしていた小坂家の方が見えて、ガイドさんに様々なお話をして下さってるんです」
ガイドさん、今日一番の笑顔を見せてくれました。
廊下の先にあったのは屋敷の水回り。ここで痛恨の失敗。
や~、浴室&脱衣所&便所の撮影を丸っと抜かしてしまいました。
あ~便所と浴室は現在との違いがよくわかるのに~~。
私のブログをよくご覧下さる方はもうお気づきですね。私は最近レトロ建物の見学にハマってるのです。やっぱ建物にはその当時の智慧の数々が詰まってるから楽しいのだ。それの撮影を忘れてどないすんじゃ!伊藤博文の別邸の便所で書いた事は、小坂家のガイドさんに教えてもらったのだ。
即ち金隠し(=大便の切り穴の前に設けられた覆い。またそのように作られた陶製の便器のこと)の鑑賞の仕方もガイドさんに教えてもらったの。
ガイドさん「この三畳間はどう利用されてたか分かりますか?」
私「ん~~??住み込みの書生さんがいたのかな?」
ガイドさん「正解っ!!凄いっ。さっきのお客さんは書生をご存知なくて、説明に難儀したんですよ」
私「最近レトロな近代建築見学にハマっててあれこれ見てるのでなんとなく…勘が働きました」
ガイドさん「ならば、これの正体がわりますか?」
私「これ…見た事あります。呼び鈴ですよね。各部屋で押したら、女中さんがこれで確認して呼び鈴を押した部屋へ行けるって奴」
ガイドさん「うわっ!!よくご存知ですね。え?どこでご覧になりましたか??」
途端に目を輝かせて詰め寄って来たガイドさんに私はびっくり!
や。知識欲旺盛な方って歴史好きの特徴なんです。私も度々似た様な状態になるもの。
私「え~と??どこだったっけな~…」
お、思い出せない。のんべんだらりとレトロ住宅を次々見てるから、どの家で見たか記憶が曖昧なのだ。
た、確か、鎌倉だったように思うんだけど~~~。
マズいマズいマズい~~。ガイドさんの期待に答えられない。
私「すみません。どこで見たか思い出せません」
たちまちがっかり顔になってしまったガイドさん。うう。なけなしの私の良心が痛むぜ。
ガイドさん「思い出したら教えて下さい」
私「ええ。もちろん」
呼び鈴は女中部屋の前の廊下の壁に取り付けられていました。
更に屋敷の奥へ進みます。
ガイドさん「これは何かわかります?」
私「これも見た事ありますっ。内倉ですよね」
ガイドさん「正解!どこで見ました?」
私「内倉は覚えてます。葛飾の寅さんの柴又駅の近くにある山本亭で少し前に見ましたよ」
ガイドさん「行ってみたい!え?どこどこ??」
私「柴又の帝釈天の側の…寅さん記念館の前にあるから行ってみて下さいっ」
ようやく一つ役に立てました。
内倉の前にレトロな冷蔵庫発見!
ガイドさん「アメリカから取り寄せた冷蔵庫です」
私「高かったんでしょうねえ」
ガイドさん「この冷蔵庫で小さな家が建ったそうです」
私「そうでしょうね。あ。撮影しても?」
ガイドさん「もちろん!」
私「この冷蔵庫、GM製。ジェネラルモーターズ製。うおっ!いわゆるレフレジレーターですね。凄っ!!」
ガイドさん「車を作る素材で出来てるから丈夫ですよ」
私「あちこちでレトロ建物見ますけど、大概がらんどうで当時のものが残ってないんで想像が働かないんですよね」
ガイドさん「内倉に書斎に飾る仏像も納められてました」
私「あれこれシチュエーションに合わせて選んでたのですね」
もうにこにこにこにこ。私もガイドさんもへんなテンションになってきた!
更に先へ進みます。
その先にあったのは、奥さんの衣装を収納する更衣室。居間より広い寝室。隣接するサンルームと洗面室。
ガイドさん「あっ!」
ん?ガイドさんが驚く??
彼女の視線の先を辿ると…。そこには恰幅のいいロマンスグレーのおじさんの姿がありました。
ガイドさん「あの方が小坂家の方です。今日お話をして下さるために見えてるんです」
へえ~。あの方はかつて子ども時代にここで暮らしたことがあるのか…。
レトロ建物の公開にはいくつかパターンがあります。例えば区とか市が保存してる場合。これは市の職員さんがいる場合もあるのですが、殆どは無人。しかも建物内部の公開はしてない事もままある。
んで別パターンはレトロ建物が生きてる場合。
かつて父が建物を作り、子が守り更にまた子へと伝えれて、なおかつそこで生活してる場合。ま。レトロ建物ですから、現在では使い勝手が悪くて住み続けるのは難しく、家族で保存しつつ自分等は別の建物に住み、貴重な建物を公開してらっしゃいます。この場合、色々なエピソードか聞ける事もあり一番楽しい公開のタイプですね。
他にはここ小坂家のように、トラストが保存管理してる場合。これは日本ではまだ数少ないパターンですが、イギリスを旅行した時、ピーターラビットの作者、ポッターの家とかナショナル=トラストで保存した家が沢山あったのね。みんなで保存する制度が確立されてて、素晴らしいなあ~と思いました。日本にもあったのですねえ。うまく根付くといいなあ…。
さて寝室。
ガイドさん「かつてはここにこのようにベッドがおかれていて、主人は朝目覚めると、ここの柱に取り付けてあった呼び鈴を押してたのです」
私「優雅な暮らしですよね。あ。この天井の照明はオリジナルですか?」
ガイドさん「そうです」
私「細工も凝ってるなあ~。これ国産なのかな?それとも輸入??」
確かガイドさんに答えも伺ったのですが、クリスマス・年末年始を挟んでから記事を書いてるんだ。記憶は彼方へ消えてしまった~。確か確か輸入品って聞いたような?んで輸入先も教えてもらったような?
せ・せっかくの知識も記録してないと無駄になる~~~。もうね。がっくりです。知ってる人に直接教えてもらう。これは貴重な体験です。聞いた人は出来たら何らかに書きとめてまた伝えて行くのは大切だよね。なのにやっちまったよ。しかもガイドさんは「何でも聞いて下さい」とおっしゃって下さってるのに、事前調べなく小坂家を訪れた私は、質問の準備もしてなかったの!せっかくの機会なのに~~~っ!!無念じゃ。
私が言えるのは「ま・またの機会に出直してくるので、その時教えて下さい」という情けないものでした。
小坂家住宅には一部2階もあります。かつて日本の建物は2階に居住空間を作るという発想がありませんでした。おそらく地震対策とか資金の問題とか様々な理由があったのでしょうが。…上の部分で寝起きしたのって、私が知ってるのは織田信長?やや。金閣寺とか三渓園の臨春閣の建物は、2階は風流の為にありました。即ち夜、月を愛でるために作ったんですね。やがて時代が下って2階には子ども達の部屋が作られるようになります。小坂家の2階も子どもの部屋がありました。が。現在2階は非公開。あ。あれだ。東北沢の旧前田邸和館もそういや2階に上がれなかったんだ。旧前田家住宅和館(2011年8月6日)の記事
レトロ建築巡りは楽しい。んでもあれこれ見過ぎてあれこれの記憶がまぜこぜになってきた。これはイカンです。ちと反省。や。すっかり長居した。先は長いんです。1つ目の訪問先だというのに、11時11分に到着。11時51分まで滞在しちゃった。イカンイカンイカ~ンっ!!冬の日は短いんです。先を急がねばっ。
ガイドさんにお礼を述べ、せめての感謝にアンケートに答え小坂家を後にします。
さて、静嘉堂文庫へはどう行けばいいのか?
や。ガイドさんに道を尋ねてる途中に20名程の団体さんがやってきて、玄関が大にぎわいになったのでそそくさと地図だけ見せていただきました。ところが瀬田四丁目広場を出た所で現在地がいまいちわからなく…。ああ。斜面地はこれだから困る。
あ。男子高校生発見!彼に聞いてみよう~~。
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