2020年2月15日訪問。
バス停は目的地の勝福寺の仁王門側だった。訪問目的はトップ画像中央奥に写ってるイチョウの巨木ですが、門前の仁王門が素敵です。
説明板発見:勝福寺の仁王門 小田原市指定重要文化財(昭和63年11月1日指定)
飯泉山勝福寺は、真言宗東寺派に属し、通称飯泉観音と呼ばれ、坂東三十三観音の第5番札所として有名です。本堂や本尊の十一面観音は、県の重要文化財に指定されるなど、由緒ある寺院です。
仁王門は、『飯泉誌』によると宝暦8年(1758)に造営されたもので、全体に木割が太く、二重虹梁蟇股式の妻架構が堂々とした外観を構成しています。また、八脚門としては県下でも最大級で、格調の高い門です。
この仁王門も老朽化のため、昭和34年から38年までにかけ解体修理され、屋根も、茅葺から銅板葺に改変されましたが、それ以外は貫などに新材で補修した箇所があるものの、原形をよく留めています。 小田原市教育委員会」
仁王門に色がよく残ってる。もしかしたら色も昭和30年代の補修の時のものかもしれませんが、雰囲気が伝わるわあ。
門の左右に収まる仁王像。
あれ?あの像は??
弘法大師像だった。真言宗のお寺さんだから弘法大師像があるのは当たり前だけど、小田原市のお寺にあるのは珍しいかも?と。
ではいよいよ境内へ。ど〜んと飛び込んでくる巨木。
説明板発見:飯泉山勝福寺(通称 飯泉観音)
飯泉山勝福寺は、真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。
創立は奈良時代の頃で、弓削道鏡が流されて下野に赴くとき、千代の里に寺を建立し、孝謙天皇より賜った唐国殿ランの観音さまを安置したのに始まると伝えられている(千葉山弓削寺)
後に寺が焼けて当地に移され、飯泉山勝福寺と称した。阪東33観音の5番札所としても有名で、国府津の親木橋から当寺までの道路は巡礼街道と呼ばれている。
棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもので、江戸初期頃の古式をとどめた地方色豊かな建物である。
本寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討ち祈願のために日参し、五郎が百人力、十郎が十人力を授かり富士の裾野で仇討ちに成功したことや、講談で有名な雷電為右衛門が田舎相撲の大岩大五郎を倒したことがある。また、二宮尊徳が少年時代の頃、旅僧から観音経を開き、一念発起した地であると言われています。
飯山観音の縁日は、1月18日が初観音。8月9日・10日が四万八千日。12月17日・18日がだるま市で、いずれも市が立ち、多くの人で賑わう。
説明板発見:勝福寺の青銅水鉢 小田原市指定重要文化財 昭和39年5月27日指定
この水鉢は、青銅製で竜頭船の形をしています。船尾に十一面観音菩薩の坐像が一体あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。
銘文によれが、作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり江戸時代の宝永元年(1704)7月と記してあります。
この水鉢は、水鉢として形などが珍しく、その造りも優れています。
全長:270センチ 幅:55センチ 高さ:82センチ 小田原市教育委員会」
説明板発見:勝福寺の銅鐘 小田原市指定重要文化財 昭和39年5月27日指定
この銅鐘は、青銅製の和鐘で銘文により、江戸時代初期の寛永6年(1629)に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が作ったことがわかります。
また、この銅鐘の奉納者
は、江戸の侍である佐須弥左衛門尉政重と記されています。
小田原の鋳物業は、戦国時代に北条氏から庇護を受け、関東鋳物業の中心でありました。
江戸時代になってからも鋳物は栄え、山田、長谷川、青木の諸家から名工が生まれ小田原の梵鐘として広く知られてきました。
この鐘もその一つであり、市内に残る数少ない銅鐘の内でも、優れたものであります。
総高:139センチ 鐘身高:100センチ 口径:74センチ 竜頭高:28センチ 小田原市教育委員会」
祈願かな?二宮尊徳像がありました。二宮尊徳の生家は、飯泉観音のすぐ近くにあります。
参拝。お賽銭は正面階段下の賽銭箱に投入したのですが、本殿上がったところでも参拝できそうだったので上がってみた。けどご覧のように戸があって、奥の観音さまは見えなかったんだ。だいぶん残念だ。
さて、せっかくお寺さんと八幡さまが境目なしに同じ境内にあるという古い形が残る場所なので見物しよう。
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