あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

旧木下建平邸

2015年03月06日 00時28分51秒 | レトロ建築
島崎藤村のお墓のある地福寺さんから徒歩数分、大磯の迎賓館を自称する旧木下建平邸があります。
あ。説明板発見:旧木下家別邸及び新館並びに敷地
景観重要建造物
平成24年9月13日指定。
正面の洋館は、旧木下家別邸と呼ばれ、切妻造スレート葺きで、左右の屋根上にドーマー窓、各室にベイウインドウを設けているのが特徴です。
大正元年(1912)に建築され、工法はいわゆるツーバイフォー工法で、国内最古の部類となる建築遺構でもあり、平成24年2月23日に国登録有形文化財に登録されています。
緑豊かな土地に周辺環境と調和した風格のある佇まいは、新館と石垣を携えた敷地と一体となって、大磯の別荘文化を現代に伝える景観を形成しています。」
へえ~。国の登録有形文化財の建物が、現在はイタリアレストランなのか~。凄いなあ…。
つーか、ツーバイフォーって何よ?聞いた事はあるけど、説明出来ないなあ~。
帰宅後検索してみた。
ツーバイフォー工法は俗称で、正式には「枠組み壁工法」と呼びます。アメリカの開拓時代に考案された工法です。決まった大きさの材料を組み合わせて、釘で留めるだけのツーバイフォー工法が普及しました。
日本には明治の頃から北海道にこの工法が伝わり、住宅としては明治末期から輸入されはじめました。」だそうで。
ってことは、家を建てる建材を、大量生産して価格も抑えるため考えられた建て方って事ですかね?
ま。な。日本も江戸間とか京間とかはあるけど、襖とか同じ寸法だからして、寺院巡りとか古民家巡りをしてると実はこの襖は…とか謂れのあるものが再利用されてたりするからね。
ツーバイフォーの名前は、2インチ×4インチの大きさの材料を基準として、規格の大きさ数種類を組み合わせて家の骨組みを構成するから。
例えば、204(38ミリ×89ミリ)がツーバイフォー
206(38ミリ×130ミリ)がツーバイシックス。
208(38ミリ×184ミリ)ツーバイエイト。
210(38ミリ×235ミリ)ツーバイテン。
212(38ミリ×286ミリツーバイトゥエルブ。
404(89ミリ×89ミリ)フォーバイフォー。 計6種類と構造用合板だけで構成。この大きさが世界共数なので、材料の大幅なコストダウンが出来る。
へえ~へえ~へえ~~!!なるほどな~。これって、材料の減額も大きいけど、作り手…つまり大工の腕がそうよく無くても、家を建てられるという利点もあるのですね。

でも営業中って事は内観見えないよなぁ?まあ、ともかく、建物を近くから見てみようかな。

あれ??裏手の建物は確かにイタリアレストランのようだけども??手前の洋館は違うぞ~??
恐る恐る入ってみた!洋館中央を廊下が貫いている。だ、大胆な設計だなあ~??建物を貫くって事は、玄関から入ったら、動線を奥に抜けるように誘導するって事だよな?
廊下の左右に部屋があります。
あ。パンフレットをおいてある。一部ゲットです。
ん~~???
もしかして、本館1階って貸出ししてるの?
え~と??サロンギャラリーの部屋です。

続きましてはサロン部屋。

そしてレセプション。
パンフレットによりますと、
利用期間:原則6日間(毎週木曜から火曜日)。
閲覧時間:期間中午前11時半から午後7時半まで。
*搬入は木曜午前9時半から。搬出は火曜日午後22時半までに完全撤収。
会場使用料:6日間で42000円(消費税別)。*ただし、大磯町民割引33600円(消費税別)
ってことは、1日当たり7000円の貸料か。こんな素敵な洋館で自分の作品の発表が出来るって素敵~
とはいえ、私が訪問した2月21日は土曜にも関わらず利用されてませんでした!なぜだ??PRが足りないんじゃないの?つーか、稼働率が高いと逆に困るのか??下衆な勘ぐりしちゃうよ~??
さて、時刻は14時半を過ぎた所。これで本日の観光はおしまいです。
最後に、JR大磯駅そばになる大磯町観光案内所を覗いてみた。もっと詳しい歴史地図がないかな?という動機からです。何しろ本日の大磯別荘群散歩は、海側しか歩いてないからね。実は東海道線を挟んだ山側にも別荘群はあったんです。松本順のお墓がある妙大寺も山側にあります。まあ山側にもかつての別荘は残存してない模様なのですがね。かつての道とか別荘の敷地の石組みなんかは残存してるかもしれないから~。
と、下心いっぱいで観光案内所を尋ねたのですが、どうも訪問した日は町か観光協会主催のウォーキングを開催していたようで。あ!もしかして、それで旧吉田茂邸でグループが多かったんだ!!それで、観光案内所に、観光ポイントをまわったら、なんかごほうびの品がもらえるようで、観光客が戻ってきます。
私がいた時は親子ずれの4人が何かペーパーを提出してました。案内所は狭いんです。私邪魔してる!
無料配布の詳しい観光地図があるか?どうか?尋ねることなく案内所を後にしました。
さて。やっぱ観光なので最後の仕上げはお土産でしょう!
食べログだか食べ物ブログで紹介されてたパン屋さんが駅前にあるのです。

よって見た!取りあえず、私の分とダンナの分を1個づつ購入。
 ダンナは茅ヶ崎駅発の相模線の車内で、出発を待つ間にパンにパクついてました。確かチャパタのプレーン味。トマト味とどっちにするかだいぶん迷った!
ちなみに、私が自分用に買ったのがこれ。バジルフランスパン!バジル味好きなんだよね~。

って事でJR大磯駅に到着。時刻は14時39分になってました。

大磯駅も大概レトロだよな。
大磯駅は軍医だった松本順が海水浴を広めるためにはどうしても駅が欲しいと思い、伊藤博文におねだりして作ってもらったといって過言じゃないようです。じゃなかったらば、大磯に駅は作られてなかったとか。
2009年(平成21)駅舎は経済産業省の近代産業遺産に指定。
2000年には関東の駅百選にも選ばれてます。
駅舎もレトロだなあ~?と思い、帰宅後調べたら、現在の駅舎は関東大震災で倒壊した駅舎に代わり1925年(大正14)の建築でした。木造の駅舎の模様です。なんかさ~。気のせいかもしれないけれど、駅の中で天井見上げたら、旅順駅を思い出しました。白い仕上げとレトロな明かり窓の雰囲気が似てるんだわ。
旅順駅再び(2010年8月23日)の記事 こちらに中国の旅順駅の画像があります。外観はロシアっぽい造りです。内部は白い壁と天井が似てると言えば言えないこともないなあ~。今、記事を見直して思った)
帰宅後、万歩計をチェックしたら、22990歩(吾妻山上り下り含む)でした!これって、歩行距離16キロ超えって事だよね!??つ。疲れた~…。

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新島襄終焉の地

2015年03月05日 00時50分24秒 | 歴史散歩
大磯歴史散歩。散歩の前に見たかったのは残り2つ。新島襄終焉の地と旧木下邸別邸です。
新島襄といえば、2013年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公、新島八重のダンナです。つーか、同志社大学を作った人です。
旧東海道を鴫立庵から東へ。数分で新島襄終焉の地に到着です。
説明板発見:新島襄終焉の地
明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)、江戸神田の安中藩邸で、藩士新島民治の長男として生まれた。
その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の心を抑えきれす、欧米先進国の知識を求め、1964年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、キリスト教主義教育による人民教化の事業に献身する決意を抱いて、1874年(明治7)に帰国。
1875年(明治8)11月29日、京都に同志社英学校を設立した。
その後同志社大学設立を目指し東奔西走。その途中で病にかかり、1890年(明治23)1月23日、療養先の大磯、百足屋旅館で生涯を閉じた。47才だった。」
難解な文章はイカンです。最近作られた説明板のようなのに、言葉遣いが古い言い回しだと、詠む気が途中で失せてしまいます。上の文章はだいぶん今の言葉に置き換えちゃいました!もうね。あんまり年寄りに元文書かせて、そのまま説明文とするの止めてくれないか?私は説明板があれば読むタイプの人ですが、あちこちの説明板で愚痴ってます!
さて。肝心の新島襄が死去した百足屋旅館ですが、現存していません。説明板にありし日の絵がありましたので、掲載します。



こんな石碑も立ってます。

トップ画像の石碑の手前では、白梅が見頃を迎えてました。この石碑を揮毫したのは同社英学校で教え子だった徳富蘇峰です。蘇峰は新島襄の死の床にもかけつけてます。
ちなみに今日の散歩の冒頭で、吾妻山の菜の花を見に上がってますが、同じくJR二宮駅から徒歩圏に徳富蘇峰記念館があります。新島八重ちゃんや新島襄の書簡もたまに展示してるようです。
更に旧東海道を東へ。

次に出会ったのは、大磯照ケ崎海水浴場の碑です。画像では分かりにくいけれど、石碑に大正4年5月建立と書いてあります。揮毫は白州正子の祖父樺山資紀。白州次郎と結婚するまで、正子は大磯に住んでいました。
さて、大磯が海水浴場の日本発祥の地なのです。
なぜに発祥と言い切れるか?といえば、軍医の松本順が海水浴は健康にいいと提唱したんだそうで。しかも言ったがいいが早々には流行らず、そこで自腹で宣伝までしたそうで。ちなみに、現在の海水浴と松本順先生が提唱した海水浴とは違っていて、医療行為の海水浴だった模様です。が、宣伝して流行るうちに今のような娯楽の海水浴へ変化しちゃったんだって!先生的にはどう思ってたんだろうか?やっぱ、こんなハズでは~~~だったりして
ちなみに、海水浴の石碑の奥へ進むと、照ケ崎海岸に出ます。
さて。またまた東海道を東へ。

あれ?道の反対側に古い建物がある。
あれは…?和菓子屋かな?和菓子ならば、洋菓子よりカロリーは低いし価格も安いから覗いてみたいと思うけど、道の反対側にあるんだよね~。
入店を諦めて、東海道を東へ。間もなくまた古い建物があった。

うん。竹割垣に木製の壁。しかも2階建ての建物。結構レアだよ?

ここは「國よし」といううなぎやさんです。
うなぎ!もうね。高いよね?特に日本産ともなると、高くて高くて。もう何年も食べてないや。つーか、「安い中国産は薬品漬けだよ」と誰かに言われて以来、スーパーでさえ買わなくなったんだよね~。
ってな事で、画像を抑えて移動再開です。もうね。疲れを自覚してるから、普段なら建物を横からアップしてとか撮影してる所なんですが…。あっさり行き過ぎちゃった!は、反省!と記事立てする頃になり思った!
さてさて、またまた移動再開。
次に出あったのはこれ。

創業明治31年の旅館大内館です。画像のいい感じの石造りの蔵は、大正15年に上棟したもの。現在は喫茶店になってます。
島崎藤村は大磯に住居を持つ前は、ここを定宿にしてたとか?大磯町観光協会のWEBに載ってる地図によると、ここ、かつての大磯宿石井本陣跡のようです。
津微の信号を渡り旧東海道の反対側へ移動します。
ここの細道を入ると、大磯宿尾上本陣跡があるハズなんだよね~。
って!!
おおっ!
変わった石垣があったぁ~~っ!!

石垣の赤は、高麗石(こまいし)の色です。島崎藤村もこの石垣が好きだったんだって!
石垣に沿って石垣がどこまで続くか確かめたいところですが…。だって手持ちのなんちゃって大磯旧別荘群地図によると、この先に旧岩崎弥之助邸があったのです。ンでもなあ~。画像で何となくわかると思いますが、画像左に向って上り坂なのです。の、上れるかァ~~。もう足が限界なんじゃ~~。つーか、左に行けば今日の散歩で見たい最後の一つ。旧木下邸が見えないんだよ。
赤い高麗石の石垣の正面に見えるのは、地福寺さん。

地福寺さんは島崎藤村のお墓があるお寺です。どうせなら墓詣りもしたい所で、探したのですが、見つからず…。

地福寺さんのお堂と手前の梅。梅は遅咲きなのかな?まだ咲いてません。

地福寺さんにも古い井戸がありました。ポンプ、もしかして現役じゃね?だって注ぎ口にゴミ受けの布があるものな。
さて、最後の上り坂だ。が、頑張ろう…。
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俳諧道場・鴫立庵

2015年03月04日 00時53分19秒 | レトロ建築
大磯町役場から旧東海道へ戻る。そこを東へ歩く。
すぐに300年以上続く俳諧道場、鴫立庵へ到着です。

うっ…。鴫立庵は、旧東海道から一遍石段を降りないと入れない…。
もうね。実は既に足が前に出なくなってるの。スタート直後の吾妻山の上り下りが体力消耗の原因ですが、以後の散策も地味~に上り下りを繰り返してるんです。疲れてだいぶん注意力が落ちてしまい、せっかくの歴史散策も感動が薄くなってるのが残念だわ~。ま。いいか!
鴫立庵の入場料は100円。支払ってたら、ダンナが消えた~~。ええ~~、何やっとるんじゃ~~~。
石段上り下りして探したくない~~。ので、取りあえず2人分支払って一人で観覧しちゃいましょう!
入場料を支払うと、チケットとパンフレットをいただけます。
徴収場所の右手に、昔の井戸が残ってました。

かつては上がりかまちが土間。建物の天井は張ってない。屋根が直接見えます。古民家の農家がこんな天井だよな。川崎の民家園や世田谷区の岡本民家園とかで見たのもこうだった!

鴫立庵の建物は外観のみ見学可。中へは上がれまい。

建物の脇に回ると、屋内が見える。

こんな感じです。

ピンクの梅が咲いてます。俳諧道場ならば、いい題材だよね。実は今日句を詠むなら「青空に~白い富士と~」とかがいいなあ~と決めてたんだけど(何か間違ってる)、ほら、今日吾妻山からも相模二の宮川匂神社からも富士山見えなかったからね。恨むよ~~~。天気予報~~~っ!!
さて。鴫立庵。ごらんの通り中に高低差があります。この立地だから現在まで建物が残ったのかもね。

WIKIによりますと、
鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つ。
寛文4年(1664)に崇雪が草庵を結んだのが始まり。
敷地内には多くの石像物や句碑があります。主な所を紹介すると?
西行銀猫碑。

佐佐木信綱歌碑。

松本順墓碑。

五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏)

 
句碑が並んでる所は高くて、鴫立庵が見下ろせました。

んん~?ぼちぼち屋根の葺き替え時期じゃないかな?茅葺きって時期を見て葺き替えなきゃいけないんだよね。
句碑を追いかけて一旦、出口に戻った所でパンフレットに目を通す。うっかり大事な石像物を撮影してないのに気づき、再び石段と坂道へ向う。

そんで撮影したのがこれ。鴫立澤標石です。
鴫立庵を造った崇雪が建てた鴫立沢の標石です。石の裏に「著尽湘南 清絶地」と刻まれてます。清らかですがすがしく、このうえもない所。湘南とは素晴らしい所。という意味です。
どうもね。崇雪にとって、大磯の海岸が、中国湘江南の景色と同じように美しい場所に見えたようですね。
って??崇雪は中国見てないよね?小田原にいた日本人だよね?…。書画でも見たかな?
あ。イカンイカン。妄想浪漫から脱してしまったか!
ところで鴫立「沢」って?もしやこれ?

石組みが、高低差がある場所にはうってつけの谷積みですね。石垣萌えを刺激される大磯に気付いたので、目が石積みをチェックしちゃいます。ちなみに、画像奥の石積みの上は、旧東海道なの。国道1号線なの。四国の田舎に住んでた頃、東京って大都会だよな~。とか思ってたのに、国道1号線にこんなん残ってるとは~~~。
「沢」の流れを追いかけて鴫立庵の東側からの眺めも確認してみた!

確かに「沢」に見えた!なぜにこんなんが突然残ってるのか~~?すぐそこはもう海なのよ??どういう地形なのか~!?大磯、謎だわ~~。
ちなみに、横に周る時にこんなん見つけました。

「湘南発祥の地 大磯」とあります。鴫立庵に入らなかった人にもよく分かります。意味はさっきの鴫立沢標石の説明と同じです。
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再開、大磯の別荘跡を歩く

2015年03月03日 00時02分05秒 | 歴史散歩
旧島崎藤村邸見学後、一旦旧東海道に戻りました。
信号で海側へ移動。
と?何か説明板がある。
トップ画像です。
ン~??この辺りに見附跡があるのかな?

もしかして?この石垣がソレの跡かしら~??上の画像、道の奥に旧東海道の松並木が写ってます。
絵をよく見ると、絵の左側に「この辺り現在大磯中学校」って書いてあるから、合ってる…のか??照らし合わせるとな~。
ンでも、画像の石組みのくぼんでる先は現在更地です。もうすぐマンションが出来るみたいです。ちょっと前までは東京電力の保養所だったみたいですが…。東京電力…。もしやせんでも、福島の原発事故の補償で売ったのかな~?
説明板の解説には、上方見附とあります。
「見附とは本来城下に入る見張り門のことであるが、江戸時代の宿場の出入口にも見附を置き、宿場を守る防護施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1、6メートル程でその上に竹矢来が組まれていた。
宿場の京都側にあるものを上方見附。江戸川にあるものを江戸見附と呼んでいる。
この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
そこには宿場の出入口である表示の御料傍示杭が経っていた。
この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたす様になった。」とあります。
え~と??宿場に残る見附ってーの、確か平塚で見たような…?
平塚七夕まつり2(2013年8月11日)の記事 こちらの記事に平塚宿江戸見附の明治14年頃の写真の画像があります。
旧東海道を外れ、細道を海側へ。
と?大きなマンションに突き当たった。画像撮影忘れてしまいました~。マンションの敷地がかつての旧尾張徳川家の別荘跡の模様。細道から面影はないなあ~。まだ元気だったら、マンション周りを歩いて確認してたんだろうけど、今日はムリ!
帰宅後ちょっと調べたら、
『この一帯は西側の現大磯中学校までずっと尾張徳川藩の敷地だった。
明治中期になると村田銃の発明者・村田経芳(つねよし)の邸宅になる。
その後、日産・日立製作所を築いた久原房之助が買収。
2001年に現在のマンションになる。』
敷地内には別荘時代より受けつがれてきた樹木が中庭として残されてるそうです。み・見とけばよかった~
マンション前の細道を東へ。同じく細い道が伸びてます。

次に登場したのが旧林菫邸跡です。
林菫は松本順と兄弟です。
兄の松本順は幕府の御典医で後に陸軍の軍医になりました。
徳川家茂を診察し家茂の死を看取ったり、新選組の隊士を診療したり、戊辰戦争で会津で軍医をやって仙台で降伏。山縣有朋の勧めで維新後の陸軍の軍医を務めてます。だから名前だけは過去の散歩先でも見たことが…。確か、高幡不動尊の新選組の石碑で見たんだったっけ?
近藤勇・土方歳三殉節両雄碑(2010年6月6日)の記事 石碑の筆者が松本順。篆額が会津藩主・京都守護職の松平容保という豪華な石碑です。
ちなみに、大磯の開発には松本順が海水浴が健康に良いと推奨したのがきっかけで別荘開発が始まったともされてます。
NHKの大河ドラマでも脇役で出てたような~?
ついでに、征露丸の顔ロゴのモデルのオジさんは、松本順とか。これ、WIKI情報ね。
大磯の妙大寺に松本順の墓所がある。
さて。松本順の弟、林菫(はやしただす)は、外交官でした。幕府の留学生として、イギリスへ。帰国後、榎本武揚率いる脱走艦隊に身をとうじ、函館(箱館)戦争に参加。
維新後、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣を務めた。
む~??幕臣であったハズなのに、この兄弟は維新後にもなんとかなったのね。やっぱ岩倉使節団に参加したのが勝ち組に入った理由かな?
そんな感じで、大磯に林菫の別荘もある。
何か凄いわ。この兄弟を主人公にしてそのうちNHKが大河ドラマ制作したりして。や高須兄弟が先かな~??今やってる松蔭の妹を主人公にするより面白いと思うんだが…。
や。それました!お散歩再開です。

かつての林菫邸と、旧尾張徳川家の別荘の間にある細道。奥へ抜けると太平洋に出られます。
敷地の周囲を東へ。

上の画像は、林菫邸の敷地を巡る東の細道の突き当たり。謎の石像。昔って、道の分かれ道とかどん詰まりに謎の石像ってよく見かけたよな~。
ここで90度北へ道が折れてます。

その道の左側の敷地の石垣。かつての別荘地の名残りの石垣かな?現在はこの上は石垣の形に関係ない建物となってます。
気付いたんだけどね。大磯町って、色んな手法の豪華な石垣があちこちに残ってるのね。石垣の出来た年代も大分開きのある物が混じっているのが次々現れて、石垣スキーは歩くだけで楽しい!

かつての林菫邸は、現在翠渓荘になってます。翠渓荘は某大手工作機械メーカー所有の接待用の料亭です。
旧林菫邸を東へ突き当たると、大磯町役場に出ました。
ちなみに、大磯町役場の敷地は、かつては山内豊景の別邸でした。
山内豊景は、土佐山内家当主。NHK大河ドラマ「龍馬伝」にも出てくる土佐藩主・山内容堂の孫。豊景は陸軍少佐・貴族院議員。明治中期に大磯に居住。昭和32年没。その後1971年(昭和46)の大磯町役場となる…。
役場に沿って海へ続く細道もありました。更に旧東海道を東へ向います。
今日、実は鴫立庵について記事立てするつもりだったんですが、小径の石垣が素敵すぎて鴫立庵までたどりつけなかった~。記事のタイトルも差し替えです!明日、改めて鴫立庵で記事立てです。つーか、大磯町、その気で歩いたら歴史物件がゴロゴロしててパンパない~~。これでも二宮町の吾妻山上り下りと川匂神社散歩で体力使い過ぎて、大磯歴史散歩は短縮版で回ってるのよ?それでこの歴史情報の多さとは…。

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旧島崎藤村邸

2015年03月02日 00時08分17秒 | レトロ建築
旧東海道。大磯中学校そばの歩道橋から徒歩5分。午後13時23分、旧島崎藤村邸到着です。

こことっても雰囲気がいいです。なんか、玄関戸をくぐると小津安二郎の映画の中にタイムスリップした気になる。

上の画像の小部屋で、係員さんが見学者にはパンフレットを一部づつ手渡しして下さるのですが、この部屋は島崎藤村ありし日には、先生が書斎として使用していた部屋です、
「この書斎を離れる時は、自分がこの世を離れる時だ」と先生が言う程お気に入りだったようです。画像では分かりにくいけど、画像は屋外から撮影してまして、文机に向って原稿を執筆してると、割竹垣と手前に小庭を眺めつつ、思索しつつ、筆を進める。そんな先生の姿が見えそうですよ?たまに尋ねてくる気のおけない友人等と縁側で会話や囲碁や詩作を楽しんだんだろうか?す・素敵だ~~~っ

潜り戸を抜けて玄関へ向う。こういう飛び石の通路、昔はどこのお宅にもあったよなあ…。

廊下の小窓。窓の向こうに和室が見える。かつては先生の寝室かな?それとも…。さっきまで気分ブラタモリで妄想全開だったせいか、ワクワクが暴走気味です。ちっとは落ち着け!自分!!
小窓の先に玄関があります。ンでも施錠されてて中へ入れません。中も見えません。
そうなの!島崎藤村邸は見学可能かつ見学料無料という素敵な【レトロ建築】物件なのですが、奥内に上がっての見学は出来ません…。
未練がましく建物の裏に周ると?

素敵な日本家屋の外壁でした。こうね。木で出来てる建物感があっていいでしょ?窓枠さえ木製なんだぜ~。アルミサッシじゃないんだぜ~。木扉も蝶番を除くと全部木製なんだぜエ~~~!!
気になったので、帰宅後アルミサッシの歴史について調べてみた!
アルミサッシが始めて使われたのは昭和7年近三ビル。戦後復興期、昭和27年の東京都八重洲の日本総合銀行(現さくら銀行)からオフィスビルで私が思い浮かべるのと同じアルミサッシが採用される。一般住宅で使われ始めたのは昭和39-40年。高度経済成長期に一気に普及した。ちなみに、アルミサッシの前にスチールサッシ時代もあったりした。
へえ~へえ~へえ~~!!
ちなみに、かつては画像奥の窓の向こうは浴室でした!更に台所の出入口ですね。
では、庭にまわってみましょう。

どうだんつつじにクチナシ。先生は白い花が好きだったとか。白い椿が一番好きだったといただいたパンフレットに書かれてました。

広縁に腰掛けるダンナです。このお宅の広縁は奥行きなあってとっても素敵
90度広縁に沿って回り込んでみると?

天井の構造が分かり易い。つーか、この幅は広縁なんだ!うわ~~。夏、浴衣で団扇持って座ってみたい…。妄想が止まってませんね。

柴垣の奥へは行けません。画像奥に、便所がありました。
ここで注目なのは、今では希少な大正ガラスのはめ込まれた窓ガラスです。この手の窓ガラスも最近見なくなりました。
ちなみに、上の画像中央を上下に見えてるのは、これ、雨戸をしまってあるのです。
そういえば、ちょっと前までの田舎の住宅は、和室の周りに廊下が巡ってて、廊下の外はガラス。そして雨戸というデザインは一般的な住宅でした。雨戸の出し入れが面倒くさいし時間がかかるんだよな。今はあんまり見なくなった。やっぱでっかいガラス窓は防犯的にアカンかったか?
うちの近所で最近建ててる住宅の外壁部につけてる窓は、人が通れない大きさのちっさい窓で、しかも窓には檻みたいな鉄棒か鉄格子がついてるんだよね。あれ、防犯の為に明り取りとか空気の通り抜けとかを捨てた作りなのか?しかも日本の湿気る夏には最悪の作りじゃないのか??と。
ンでも藤村邸は、蚊とは蠅には無防備だな。蚊遣りで対応してたのかな~??などと、またまた妄想が止まりません。

広縁越しに8畳の居間。廊下があって、奥の障子の向こうが6畳の和室。引き襖の奥の明るい所が玄関です。
島崎藤村邸の道路に面して説明板があります。
島崎藤村邸
藤村(1872-1943)は、明治5年(1872)2月17日、信州木曽の馬籠村(現在の岐阜県中津川市)の本陣の家に生まれる。
代表作に『破戒』など。
昭和16年(1941)1月14日、大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷土行事であるのを喜び、これを『左義長』と名付けた。
これを機に大磯での生活を決め、2月25日に敷地124坪に建つ24坪の長屋を借り、翌年の8月には当時のサラリーマンの30年文の給料に相当する1万円でこの家を買い取り、終の住処としました。(中古の長屋がサラリーマンの30年分の給料ってボラれたんじゃ…?)
藤村は、この書斎で「東方の門」を執筆します。しかし昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿の朗読中藤村は頭痛を訴え倒れる。8月22日午前0時35分、「涼しい風だね」という言葉を残し永眠。
本人の生前の希望により、大磯の地福寺に葬られている。

さて。と?散策に戻ろうとして、公開されてる島崎藤村邸の敷地を囲む割竹垣が、更に東側に続いてるのに気付く。
ん~~??
もしかして、こっちもかつては藤村邸だったのかな?
上の画像奥、公開されている藤村邸とテイストも時代もよく似た日本和邸です。
パンフレットによりますと「藤村邸大正後期から昭和初期にかけて建築され、周辺には同じ様な貸別荘が数軒あり、一帯は『町屋園』と称されました」とあります。
藤村の所有だったかどうか?はともかく、建築時期は同じかもね?
パンフレットによりますと…。藤村死去後、戦火が厳しくなり静子夫人が箱根に疎開。昭和24年より作家の高村保が住み始め、昭和27年に彼がこの家で亡くなり、その後静子夫人が昭和48年まで暮らしていたそうです。
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元勲通りと呼ばれてます

2015年03月01日 00時47分40秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
大磯明治ー昭和にかけて建築された別荘群。中でも山縣有朋・陸奥宗光・大隈重信・鍋島直大・伊藤博文・西園寺公望・池田成彬の別荘や邸宅が並んでた旧東海道を元勲通りというそうな。
ンでも当時の現存する建物はない訳で。今ではマンションや学校、企業の保養施設になってる訳で。そうなると、在りし日の姿はもちろん、「ここが誰それの別荘」と確定するのは難しい。ブラタモリのように、詳しい先生が指南してくれないと、難しいのです。もちろんなんちゃって大磯旧別荘群地図は持ってるけどね。なんちゃってなだけあって実際街歩きをすると使えない地図は簡略化すると実際には使えんのじゃあ~~~っ!!(魂の叫び)
それでも楽しもうとするならば、妄想しかないよな。
ってな事で、妄想スタートです。妄想なだけあって、正確じゃないと思うけど。楽しんだほうがいいもの~。

元勲通りと呼ばれる旧東海道には、かつての松並木が現存してます。これを眺めつつ進みます。
まずはかつての伊藤博文の別荘滄浪閣は、ちょっと前まで西武グループのホテル・大磯プリンスホテルの別館として営業してました。

上の画像はありし日の大磯プリンスホテル別館の敷地内。おそらくこの左の石垣が敷地の境界で、伊藤博文の滄浪閣と鍋島直大の邸宅の敷地じゃないかな~?でも明治の頃からあった道じゃないと思う。だって道幅が広過ぎるからね。確認しようがないけどね。画像奥に見える松の木が立派じゃない?松がここまで大きくなるには、それなりの時間が経ってるハズなんだよ。た・確かめたいけど、既に閉鎖してるとはいえ、どこかで警備カメラがまわってかもしれんからな。さすがに公道じゃないなら奥へ行けないわ~。
うなってても仕方がないので、東へ向います。

旧東海道は、左右に高低差があります。なぜか海側の方が高い。な、なぜかしら~??

マンションです。大きさから見て、旧鍋島邸の跡に建ったと思う。

画像奥に立派な石組みが見えてますね。
たぶんこれが次の別荘の跡。
なんちゃって地図のは、この辺りに大隈重信と睦奥宗光の別荘があった模様です。

石垣スキーの萌えが萌え上がる凄い石です。横幅は…そうだなあ。メジャーを持ってないから凡そのサイズになりますが、ブロック1個の横幅は80ー90センチは確実。あ。ブロックと言っても現在のコンクリート製ではなく、天然石です。これ、石の種類は何だろうか?私は石垣スキーではありますが、詳しくないというエセ萌えなので確定出来ないの。

海へ続く細い道幅も昔っぽい。

大磯町にはウォーキングする人にはとってもありがたい指示標があります。

たぶんかつての邸宅の入口跡です。
なぜって、旧東海道から敷地内へ向う石組みが同じだから。石って撤去するのは大変だから放置してある事が多いのだ。

にしても、どんだけ敷地が広いんだろうね?
東京都北区にある古河邸。あれって、かつては睦奥宗光の住まいでした。それがなぜに古河邸の名前になったか?といえば、陸奥の子どもが古河財閥の養子になったから。
確かそう。んで、何が言いたいか?いえば、地図にはこの奥に古河電工の大磯荘があるんだよ。これって、睦奥宗光の別荘を、古河財閥に養子に言った子が受け継いで、以後古河財閥もしくは古河グループで活用してるんじゃないかな~?と、妄想してみる!すると楽しいと思わない?
さて。石組みの塀が途切れたら、そこには…。

大磯中学校がありました。
ここね。なんちゃって地図によりますと、山縣有朋邸もしくは旧徳川邸があった模様です。
学校なだけに面影残ってないよな~。と思ったのですが…。

中学校の塀が竹垣風味ですっうお~~~~~ッ!!いい。何かいい~~っ
ちなみに、大磯中学校の前も当然旧東海道でして、松並木が残ってます。

ダンナがしゃがんで何をしてるか?といえば、木の根元にプレートがあるのです。
『クロマツ(マツ科マツ属)
このクロマツは国道1号線に植樹してあるクロマツの中で一番太い木で、太さ約4、3メートルあり、樹齢は約300年の巨木です。
300年ってったら、江戸時代ですっ。元禄時代が1688年から1704年。5代徳川綱吉が将軍の頃。その時代からここの松並木に立ってたクロマツです。
す・凄過ぎる…。なんで、残ってるんですか!?だって、旧東海道って、つまり国道1号線だよ?1番なんだよ??江戸時代の街路樹が残ってる!って!!これは東京駅のホームに開業当時の柱が現役で使われてるのを見て驚愕した時と同じ驚きです。
あ。説明板発見:東海道の松並木
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木・一里塚・宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
松並木は、今から400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主に保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごと植継がれ大切に育てられてきたものです。
中学校の端に、歩道橋があったので上から旧東海道の松並木を見てみた。

迫力あるなあ~。見応えあるわ。
さて。歩道橋に登ってしまったので、ここで旧東海道の北側へ移動します。そうなのね。元勲通りに立ち並んでいた邸宅と別荘群は、全て海側(南側)に並んでたのです。やっぱ、おうちから海を望める眺望で住宅デザインしていたんだろうなあ…。ここは妄想を総動員して楽しみましょう!つーか、ブラタモリならここはCG画像が登場し、かつての別荘群が再現される場面だよ…。その頃に思いを馳せれる建物が残ってないのが大磯歴史観光の残念なポイントだよな~。やっぱ、メインは必要なんですよ。歴史浪漫に萠え上がる為のメインが飛鳥なんじゃ~~~。
あ。そうか!
だから燃えてしまった旧吉田茂邸を今更再建するのか。きっとそうだよな。JR大磯駅から歴史散歩をやったら、城山公園がゴールになるものな。まあ、旧三井大磯別邸を再建してくれてもいいんだけども。そこは今後の健闘事案かな?何しろ巨額の予算が必要だしな。観光客は楽しみに待ちましょう!
あ。大磯歴史散歩のまとめのような記事の書き方になりましたが、大磯歴史散歩はまだまだ続きまあす。

追記:
調べたらば、伊藤博文が滄浪閣を構えたのは1896年(明治29)。
小田原へ行く途中で大磯に立ち寄って気に入ったとか。翌年のは品川から本籍を大磯に移動。
1909年、伊藤博文暗殺後は梅子夫人が住んだが、持ち主が複数変遷。
後、1951年(昭和26)には西武鉄道に売却。昭和29年に大磯プリンスホテルの別館に。

路地を挟んで隣が西園寺公望・旧池田成彬邸。
廃墟は池田邸跡で正解のようです。
もともとは、伊藤博文の後を受けて総裁となった西園寺公望が別邸を構えた場所で、博文が滄浪閣を構えた3年後の1899(明治32)念、「隣荘」と称した別荘を公望が建てた。
公望が去った後、池田成彬が大正6年頃やってきた。洋館を建てたのは昭和7-8年頃。現存してる洋館の廃墟がこれ。
コメント (2)
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