ハリケーン・テルさんも亡くなってました。
もう、ショックで・・・。
テルさんといえば、元日本バンタム級チャンピオンにして世界タイトルにも
挑戦したキビキビした好選手で、私は大好きでした。
当時の居住地にTV局が少なくて具志堅の試合は見れなかった私、
ボクシング・ファンになったのは、ルペ・ピントールとのWBC世界バンタム級
タイトルマッチで全てを出し切って戦い、力尽きて倒れたテルさんの姿を見て
深い感動を覚えたからです。
「ハリケーン・テル」「ハリケーン照」のリングネームで活躍した照喜名俊三さん
(62才)が東京福生市の自宅で死亡しているのが発見されたのは1月17日。
死後1週間から10日が経過していたとの事。
たった一人の晩年だったと言うことでしょうか。
だったら寂しい事この上ないです。
照喜納さんは沖縄県那覇市出身。
高校でアマキャリアを始め、1970年に東京・昭島の石川ジムから
プロデビュー。
必ずしも順風満帆とは行かず、途中で引退した時期もあり。
その間には後進を指導していたが、現役復帰の思いが頭を
もたげカムバック。
79年には阿南弘生を2回で倒して日本王座獲得。
80年にモントリオール五輪バンタム級日本代表だった石垣仁に王座を
追われたが、再戦で判定勝ちし返り咲いた。
ここらから81年までが最も充実していた時期でしょうね。
後にビデオで国内試合も見ましたが
ジャブ、フットワーク、ボディワークを駆使する技巧派のボクサー型でした。
ボクシング雑誌で見たファイティングポーズは後ろ足のカカトが「クン」と
柔らかそうに上がり、「だから、あんなに動けるんだろうなぁ」と
思ったものです。
※矢尾板貞雄さんのファイティング・ポーズに似てるように思えました。
足首柔らかそうな構えがね・・・。
81年9月には名古屋でWBC世界バンタム級王者ルペ・ピントールに挑戦。
ピントールは、カルロス・サラテ(メキシコ)から微妙な判定ながら
王座を奪取し、6度の防衛に成功していた充実のメキシカン。
昭和でいえば56年9月22日
場所は、多くのバンタム級名勝負が繰り広げられた愛知県体育館。
大きな体格を誇るピントールは、減量苦に起因するスロースターターぶりが
浸透していたが。
長くて重いと知れ渡っていた左ジャブ、さらにそれをフェイントに
使って直ぐに左アッパーを掬い上げるという恐ろしいパンチを振るってくる。
一方のテルは、手足の長さこそ恵まれなかったが、リズミカルな
動きからのジャブ、左フックの連打で反撃。
第2Rにはバッティングをレフェリーにアピールする王者を急襲、
なんとピントールをロープに詰めてボディから顔面へフックを打ち込む!
チャンスとばかりに大歓声の愛知県体育館だが、ピントールはブロッキングで
やりすごして、ロープ際から離脱。重いジャブを返してペースを渡さない。
テルの速くて小気味よいジャブに対し、ピントールは長く重いジャブを
繰り出すという見応えある展開!これぞ世界タイトルマッチだ!
中盤までは決して劣らない展開を見せたテル。
具志堅台頭まで「沖縄出身で最初に世界王者になるのはテルかも知れない」
と言われた挑戦者の健闘が光る。
しかし、ピントールの左はフックやロングのアッパーまで盛り込む
多彩なブロー。そして、全てが重いパンチ。
左ジャブもストレートのように伸び、テルの顔が仰け反り、
動きが止まるシーンも。
ジワジワと王者の重いブローが試合を支配し始める。
左のレバーブローが実に有効だ。
足とボディワークで対抗していたテルだが、次第に動きの精度が
落ちてきた。仰け反って躱したつもりでも王者のパンチは届いている。
第6Rには攻勢を掛けるテル、連打でピントールを煽るも、王者はジックリ見て
打ち返し、逆転を許さない。
テルとて磯上や阿南を序盤で倒した事のある選手、決してパンチが
弱い訳では無いのだが、ピントールとのパワー差はいかんともしがたい。
解説の矢尾板さんも、自分とパスカル・ペレスの試合を思い出したが如く、
パンチの効果の違いに「同じように打ってるんですけどね・・・!」と
声を振るわせる。
ピントールは、ますます終盤の強さを発揮。
相手が真っ直ぐ下がればワンツー連打だけで追うなど理にかなった攻撃だ。
13Rには遂にこの連打でテルがダウン。
ゴングに救われたテルは14R、なんと逆襲を掛ける。
素晴らしい挑戦者スピリット!
ピントールは英国の挑戦者ジョニー・オーエンを死に至らしめた事も
ある強打者・・・。王者のパンチが恐ろしくないのか!?
しかし、やはりピントールは勝負強い。またもラウンド終盤に強打を集め、
テルを窮地に追い込む。
最終15Rもリズムを失わなかったテルのボクシングだったが、
ピントールのレバーから顎への左フックを貰ってグロッギー。
左フックで顎を削られ、強烈な大の字ダウン!!
それでも立ちかけたテルだったが足元は覚束ず。
コーナーに倒れこんだテルを見かねたレフェリーが試合終了を宣した。
すでに石川会長からのタオルも舞っていた・・・。
矢尽き刀折れての敗戦。
全てを出しつくしての美しいKO負けでした。
この試合の影響でボクシング・ファンになったせいでしょうか?
私は「日本人が勝てば何でもイイ」という思考で試合を見る事は無いのです。
敗者を称えるピントールも王者の威厳が滲み出てたし。
再起して、世界挑戦の為に返上した日本王座に挑んだテルだったが、
磯上修一に判定負け。
世界への最浮上を掛けて当時WBC2位のキコ・ベヒネス(メキシコ)と
ロスで対戦したが、
勢いに乗るべヒネスは最初から惜しみなく強打をブンブン振ってきて、
テルは初回からダウン。
ダックした所にアッパーで身体ごと掬い上げられた形だった。
右も左も勢いあるべヒネス、右ストレートでテルはフラリ。
最初のダウンより効いたパンチを貰って初回は終了。
ラファエル・マルケスのような攻撃型メキシカンのべヒネス。
(マルケスほどのリーチは無いが)思い切り良いパンチはスピードもある。
ガードも結構固いのでテルの反撃も躱されている。
相打ちタイミングで少し仰け反らせたのが精一杯の抵抗か。
「勝負を掛けて打ち合いに臨んだ」という試合記述もあったが、
ダメージの回復に努めている間に追撃を食らってダウンを重ねた印象。
第4Rのダウンでレフェリーはストップ。
同時に石川会長もタオルを投げていた。
それでも現役を続けたテルは82年のチャンピオン・カーニバルで
磯上修一に挑み、得意のリズムボクシングで磯上の出鼻をジャブで
叩き続けたと思われたが、判定は磯上へ。
結果的にはピントール戦から4連敗。
それをもってハリケーン・テルは引退となった。
引退後は、運送会社に勤めながら後進の指導に当たった時期も
あったテルさん。
厳しかった石川会長が「テルくらい練習する選手がいたら」と、
その努力を認めるボクサーでした。
80年代~90年代、メキシコの関係者が日本のジム関係者を見つけると
「ウラカン(ハリケーン)はどうしてる?」と聞いて来たそうです。
※まるでサルディバルとの激闘で知られた故・関光徳さんのようですね。
テルさんの試合の多くは見ていない私ですが、
それでもリズミカルなフットワーカーを見ると今でも心ときめきます。
今でもテルさんのようなボクサーが好きなのです。
擦り込まれているのです。
ハリケーン・テルさん、本当に、素晴らしい試合を有難う御座いました。
照喜名俊三さんの御冥福を心から御祈り申し上げます。
ハリケーン・テル(石川)
Hurricane Teru
51戦35勝(15KO)13敗3分
1970年
4R判定 西沢俊明
4R引分 ジョージ溝尾 △
4R判定 政井広之
4RKO 根本 博
1971年
4R判定 ジョージ溝尾
2RKO 伊藤四郎
4R判定 永島政広
4R判定 井上 進
6R引分 小林政一 △
6R判定 谷口重雄
6R判定敗 平川譲一 ●
5RKO 本間 学
6R判定敗 平川譲一 ●
1972年
6R判定 上原茂紀
6R判定 吉田松志
4RKO 細川光昭
8R判定 平川譲一
8R判定 竹内邦夫
7RKO 東城 拓
10R判定敗 内山真太郎 ●
10R判定敗 竹内邦夫 ●
1973年
8R判定 深沢重信
8R判定 佐久川正次
9RKO 福村貞夫
10R判定 水野久美
10R判定敗 三船 豪 ●
1974年
10R判定敗 三船 豪 ●
1976年
6R判定 留岡 偲
1977年
5RKO 北垣一弘
10R引分 井 誠志 △
10R判定敗 村田英次郎 ●
10R判定 川口高生
10R判定敗 磯上修一 ●
1978年
6RKO 林田宇一郎
7RKO 田中風太郎
1979年
10R判定 神馬 進
10R判定 佐藤一美
3RKO 山本 勝
2RKO 阿南弘生
【日本バンタム級王座獲得】
10R判定 阿南弘生
【日本バンタム級王座初防衛】
1980年
10R判定 石垣 仁 ●
【日本バンタム級王座陥落】
9RKO 石垣 仁
【日本バンタム級王座奪回】
1981年
4RKO 丘 勇治 (高田次郎)
【日本バンタム級王座初防衛】
3RKO 新鬼 丈
1RKO 磯上修
【日本バンタム級王座防衛2】
10R判定 丘 勇治 (高田次郎)
【日本バンタム級王座防衛3】
10R判定 大橋克行 (大橋秀行の兄)
【日本バンタム級王座防衛4】
15RKO敗 ルペ・ピントール(メキシコ)●
【WBC世界バンタム級王座挑戦】
※日本バンタム級王座返上
1982年
10R判定敗 磯上修一 ●
【日本バンタム級王座挑戦】
4RKO敗 フランシスコ・キコ・ベヒネス(メキシコ)●
10R判定敗 磯上修一 ●
【日本バンタム級王座挑戦】
もう、ショックで・・・。
テルさんといえば、元日本バンタム級チャンピオンにして世界タイトルにも
挑戦したキビキビした好選手で、私は大好きでした。
当時の居住地にTV局が少なくて具志堅の試合は見れなかった私、
ボクシング・ファンになったのは、ルペ・ピントールとのWBC世界バンタム級
タイトルマッチで全てを出し切って戦い、力尽きて倒れたテルさんの姿を見て
深い感動を覚えたからです。
「ハリケーン・テル」「ハリケーン照」のリングネームで活躍した照喜名俊三さん
(62才)が東京福生市の自宅で死亡しているのが発見されたのは1月17日。
死後1週間から10日が経過していたとの事。
たった一人の晩年だったと言うことでしょうか。
だったら寂しい事この上ないです。
照喜納さんは沖縄県那覇市出身。
高校でアマキャリアを始め、1970年に東京・昭島の石川ジムから
プロデビュー。
必ずしも順風満帆とは行かず、途中で引退した時期もあり。
その間には後進を指導していたが、現役復帰の思いが頭を
もたげカムバック。
79年には阿南弘生を2回で倒して日本王座獲得。
80年にモントリオール五輪バンタム級日本代表だった石垣仁に王座を
追われたが、再戦で判定勝ちし返り咲いた。
ここらから81年までが最も充実していた時期でしょうね。
後にビデオで国内試合も見ましたが
ジャブ、フットワーク、ボディワークを駆使する技巧派のボクサー型でした。
ボクシング雑誌で見たファイティングポーズは後ろ足のカカトが「クン」と
柔らかそうに上がり、「だから、あんなに動けるんだろうなぁ」と
思ったものです。
※矢尾板貞雄さんのファイティング・ポーズに似てるように思えました。
足首柔らかそうな構えがね・・・。
81年9月には名古屋でWBC世界バンタム級王者ルペ・ピントールに挑戦。
ピントールは、カルロス・サラテ(メキシコ)から微妙な判定ながら
王座を奪取し、6度の防衛に成功していた充実のメキシカン。
昭和でいえば56年9月22日
場所は、多くのバンタム級名勝負が繰り広げられた愛知県体育館。
大きな体格を誇るピントールは、減量苦に起因するスロースターターぶりが
浸透していたが。
長くて重いと知れ渡っていた左ジャブ、さらにそれをフェイントに
使って直ぐに左アッパーを掬い上げるという恐ろしいパンチを振るってくる。
一方のテルは、手足の長さこそ恵まれなかったが、リズミカルな
動きからのジャブ、左フックの連打で反撃。
第2Rにはバッティングをレフェリーにアピールする王者を急襲、
なんとピントールをロープに詰めてボディから顔面へフックを打ち込む!
チャンスとばかりに大歓声の愛知県体育館だが、ピントールはブロッキングで
やりすごして、ロープ際から離脱。重いジャブを返してペースを渡さない。
テルの速くて小気味よいジャブに対し、ピントールは長く重いジャブを
繰り出すという見応えある展開!これぞ世界タイトルマッチだ!
中盤までは決して劣らない展開を見せたテル。
具志堅台頭まで「沖縄出身で最初に世界王者になるのはテルかも知れない」
と言われた挑戦者の健闘が光る。
しかし、ピントールの左はフックやロングのアッパーまで盛り込む
多彩なブロー。そして、全てが重いパンチ。
左ジャブもストレートのように伸び、テルの顔が仰け反り、
動きが止まるシーンも。
ジワジワと王者の重いブローが試合を支配し始める。
左のレバーブローが実に有効だ。
足とボディワークで対抗していたテルだが、次第に動きの精度が
落ちてきた。仰け反って躱したつもりでも王者のパンチは届いている。
第6Rには攻勢を掛けるテル、連打でピントールを煽るも、王者はジックリ見て
打ち返し、逆転を許さない。
テルとて磯上や阿南を序盤で倒した事のある選手、決してパンチが
弱い訳では無いのだが、ピントールとのパワー差はいかんともしがたい。
解説の矢尾板さんも、自分とパスカル・ペレスの試合を思い出したが如く、
パンチの効果の違いに「同じように打ってるんですけどね・・・!」と
声を振るわせる。
ピントールは、ますます終盤の強さを発揮。
相手が真っ直ぐ下がればワンツー連打だけで追うなど理にかなった攻撃だ。
13Rには遂にこの連打でテルがダウン。
ゴングに救われたテルは14R、なんと逆襲を掛ける。
素晴らしい挑戦者スピリット!
ピントールは英国の挑戦者ジョニー・オーエンを死に至らしめた事も
ある強打者・・・。王者のパンチが恐ろしくないのか!?
しかし、やはりピントールは勝負強い。またもラウンド終盤に強打を集め、
テルを窮地に追い込む。
最終15Rもリズムを失わなかったテルのボクシングだったが、
ピントールのレバーから顎への左フックを貰ってグロッギー。
左フックで顎を削られ、強烈な大の字ダウン!!
それでも立ちかけたテルだったが足元は覚束ず。
コーナーに倒れこんだテルを見かねたレフェリーが試合終了を宣した。
すでに石川会長からのタオルも舞っていた・・・。
矢尽き刀折れての敗戦。
全てを出しつくしての美しいKO負けでした。
この試合の影響でボクシング・ファンになったせいでしょうか?
私は「日本人が勝てば何でもイイ」という思考で試合を見る事は無いのです。
敗者を称えるピントールも王者の威厳が滲み出てたし。
再起して、世界挑戦の為に返上した日本王座に挑んだテルだったが、
磯上修一に判定負け。
世界への最浮上を掛けて当時WBC2位のキコ・ベヒネス(メキシコ)と
ロスで対戦したが、
勢いに乗るべヒネスは最初から惜しみなく強打をブンブン振ってきて、
テルは初回からダウン。
ダックした所にアッパーで身体ごと掬い上げられた形だった。
右も左も勢いあるべヒネス、右ストレートでテルはフラリ。
最初のダウンより効いたパンチを貰って初回は終了。
ラファエル・マルケスのような攻撃型メキシカンのべヒネス。
(マルケスほどのリーチは無いが)思い切り良いパンチはスピードもある。
ガードも結構固いのでテルの反撃も躱されている。
相打ちタイミングで少し仰け反らせたのが精一杯の抵抗か。
「勝負を掛けて打ち合いに臨んだ」という試合記述もあったが、
ダメージの回復に努めている間に追撃を食らってダウンを重ねた印象。
第4Rのダウンでレフェリーはストップ。
同時に石川会長もタオルを投げていた。
それでも現役を続けたテルは82年のチャンピオン・カーニバルで
磯上修一に挑み、得意のリズムボクシングで磯上の出鼻をジャブで
叩き続けたと思われたが、判定は磯上へ。
結果的にはピントール戦から4連敗。
それをもってハリケーン・テルは引退となった。
引退後は、運送会社に勤めながら後進の指導に当たった時期も
あったテルさん。
厳しかった石川会長が「テルくらい練習する選手がいたら」と、
その努力を認めるボクサーでした。
80年代~90年代、メキシコの関係者が日本のジム関係者を見つけると
「ウラカン(ハリケーン)はどうしてる?」と聞いて来たそうです。
※まるでサルディバルとの激闘で知られた故・関光徳さんのようですね。
テルさんの試合の多くは見ていない私ですが、
それでもリズミカルなフットワーカーを見ると今でも心ときめきます。
今でもテルさんのようなボクサーが好きなのです。
擦り込まれているのです。
ハリケーン・テルさん、本当に、素晴らしい試合を有難う御座いました。
照喜名俊三さんの御冥福を心から御祈り申し上げます。
ハリケーン・テル(石川)
Hurricane Teru
51戦35勝(15KO)13敗3分
1970年
4R判定 西沢俊明
4R引分 ジョージ溝尾 △
4R判定 政井広之
4RKO 根本 博
1971年
4R判定 ジョージ溝尾
2RKO 伊藤四郎
4R判定 永島政広
4R判定 井上 進
6R引分 小林政一 △
6R判定 谷口重雄
6R判定敗 平川譲一 ●
5RKO 本間 学
6R判定敗 平川譲一 ●
1972年
6R判定 上原茂紀
6R判定 吉田松志
4RKO 細川光昭
8R判定 平川譲一
8R判定 竹内邦夫
7RKO 東城 拓
10R判定敗 内山真太郎 ●
10R判定敗 竹内邦夫 ●
1973年
8R判定 深沢重信
8R判定 佐久川正次
9RKO 福村貞夫
10R判定 水野久美
10R判定敗 三船 豪 ●
1974年
10R判定敗 三船 豪 ●
1976年
6R判定 留岡 偲
1977年
5RKO 北垣一弘
10R引分 井 誠志 △
10R判定敗 村田英次郎 ●
10R判定 川口高生
10R判定敗 磯上修一 ●
1978年
6RKO 林田宇一郎
7RKO 田中風太郎
1979年
10R判定 神馬 進
10R判定 佐藤一美
3RKO 山本 勝
2RKO 阿南弘生
【日本バンタム級王座獲得】
10R判定 阿南弘生
【日本バンタム級王座初防衛】
1980年
10R判定 石垣 仁 ●
【日本バンタム級王座陥落】
9RKO 石垣 仁
【日本バンタム級王座奪回】
1981年
4RKO 丘 勇治 (高田次郎)
【日本バンタム級王座初防衛】
3RKO 新鬼 丈
1RKO 磯上修
【日本バンタム級王座防衛2】
10R判定 丘 勇治 (高田次郎)
【日本バンタム級王座防衛3】
10R判定 大橋克行 (大橋秀行の兄)
【日本バンタム級王座防衛4】
15RKO敗 ルペ・ピントール(メキシコ)●
【WBC世界バンタム級王座挑戦】
※日本バンタム級王座返上
1982年
10R判定敗 磯上修一 ●
【日本バンタム級王座挑戦】
4RKO敗 フランシスコ・キコ・ベヒネス(メキシコ)●
10R判定敗 磯上修一 ●
【日本バンタム級王座挑戦】
保険のおばさん
ボヤいてた男も女も
独身多いから大口の契約取れないって
年寄りが多く住む
地域は未来がないって言ってスーパー撤退するとこ多いし
Numeberで世界挑戦経験者のコーナーで岡部進と一緒に写ってましたし、氏は‘私なんぞが世界に届くとは思ってなかった’と語っていただけでなく世界戦では左肘を痛めていて武器の左フックを打てなかったとの事。
それを考えると左肘を痛めてなければピントールが計量に失敗していただけにひょっとしてと思わざるを得ません。
また拙ブログにも記しましたが世界戦の時に外人同士と紛らわしいという事からかリングネームを‘テル’から‘照’に変更させられてからツキが落ちたのかとも思ってました。
実直を絵に描いたような選手でしたから引退後はスパイダー根本のような幸せな余生を送っていたと思っていたのに孤独死していたとは、本当に残念でたまりません。
好漢・照喜納氏の冥福を祈らずにいられません。
仕留めたのはさすが テルさんは小さな身体で頑張りましたよね
発見が数日か経って…というのもショックですね。
独り者も多いし、離婚も増えるし。私自身も分からないですねぇ。
>年寄りが多く住む地域は未来がないって言ってスーパー撤退するとこ多い
――うちの田舎がそうです。
パルシステムみたいな食材配達がないと厳しいですね。
>ピントルは目を切って 足のマメ潰したり 悲惨だったけど
>仕留めたのはさすが
――右拳も痛めてたんですよね。
テルさんが求めた握手に利き腕で応じられないのをリング上で詫てました。
でもテルさんに敢闘賞が渡されると左掌と右手首を叩いて拍手したりして・・・
あれで私はピントールのファンになりました。
>テルさんは小さな身体で頑張りましたよね
――身長リーチには恵まれてなかったんですけどね。
ピントールが大きいだけに尚更ガタイの差を感じましたが
それでも時に勇猛な攻めを見せる姿は感動的でした。
あまり専門誌もマメに読んでいないので、いろいろと疎くなってしまいますね。
>Numeberで世界挑戦経験者のコーナーで岡部進と一緒に写ってました
――そうでしたね。
同じ石川ジムという事で、並んで拳を突き出したポーズを取っていたような・・・。
>‘私なんぞが世界に届くとは思ってなかった’と語っていた
――後付でそう言ってたのかも知れませんね。
欲は無さそうな感じでしたが、戦ってる時は懸命でした。
>世界戦では左肘を痛めていて武器の左フックを打てなかったとの事。
――繰り出してはいましたが、ピントールに比べると明らかに軽く
ほとんどのリードパンチはストレート系でしたね。
>それを考えると左肘を痛めてなければピントールが計量に失敗していただけに
>ひょっとしてと思わざるを得ません。
――攻勢時には左フックのダブルとかも打ってましたものね。
当時はピントールの強打を警戒してフルスイング出来なかったのでは?・・・なんて
思ってましたが、やはり痛めた影響もあったんでしょうか。
もっともピントールも途中で右を痛めたりして、お互い様だった面もあるんですけどね。
ほとんど左だけで相手にペースを渡さず、ダメージを植え付ける王者には感服モノでした。
メキシカンには「左だけ重いグラブをはめる練習法がある」と聞いた事がありますが
それも納得のボクシングでしたね。
>世界戦の時に外人同士と紛らわしいという事からかリングネームを
>‘テル’から‘照’に変更させられてからツキが落ちたのかとも思ってました。
――本文にも書きましたが、81年のテルさんは乗っていただけに
そういった横槍は残念でしたね。
実直を絵に描いたような選手でしたし、自身でジムを持っても良いほどの
実績があったんですが、孤独死という最期は本当に残念です。
半年遅れですけど、ここで皆さんとともにテルさんを惜しむ気持ちを分かち合えた事が
少しでも慰めになれば・・・と思います。
テルさん、安らかに・・・。
ただ当日 朝からソワソワして
wowowの外人同士でさえもそういうカード少なくなりました
まあ当日数時間後でようつべに上がるという便利な時代になってもいますが
――とにかくTV観戦でも凄いエネルギーを消費してました。
勝っても負けてもグッタリ・・・みたいな。
※ピントールvsテル戦後には不思議な爽やかさも感じましたけどね。
まぁ、私も「日本人が勝つなら、どんな形でもイイとは思わない」と言いつつ
浜田剛史や長谷川穂積の大一番では「とにかく勝ってくれ!」と
願いましたけどね。
アルレドンドvs浜田第一戦なんて
「オレのツキを浜田にあげてもイイから勝たしてやってくれ!」と
勝負の神様にお願いしたほどです。ギャンブルなんてしないクセに(苦笑)。
渡辺二郎に関しては基本的に
「私が願わなくてもクールに勝負の女神を呼び込むだろう」という
変な信頼感がありましたが、パヤオ戦とか朝からワクワクと盛り上がりました。
>ようつべに上がるという便利な時代になってもいますが
――動画サイトは凄いですね。
照さんとベヒネスの試合も、それで見ましたし。
ベヒネスがE・ローマンに負けた試合は見当たりませんけどね。
テルさんご冥福をお祈り申し上げます。
大橋秀行氏のお兄さんはバンタム級でしたね。
テルさんが亡くなってから3年半。
石川圭一会長も故人となられており、さみしい限りです。
テルさんは身近な人だったんですね。
若くしてお亡くなりになり、驚きました。
湯野さんとは比べるべきも無いですが、私もいつか直接テルさんに
感謝の言葉を伝えたかったのですが、叶いませんでした。
ご冥福をお祈りいたします。
私が見始めた頃は高田さんは晩年で、しかも地方では国内試合は殆ど見れなかったため、殆ど未見なのです。
後にビデオで磯上戦などを取り寄せて見たものです。
大熊さんやテルさんなど…世界で戦った人の国内戦は一味違いますよね。
>高田選手を左ジャブ一本でコントロールした試合は凄かった!
>いまだにあんな切れるジャブの連発は見たことありません!
貴重なお話ありがとう御座いました(._.)