備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の10

2024-11-28 16:56:16 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の10
 
 そうだ、俺達は睡ったんだなと思うと、私はこの逓送の馬橇が人馬共に神々しくさえ思えた。
 
 そうした私は、嘗て秋の椎茸狩の日に「北海道では、吹雪で人が死ぬんだぞ。」と言った保君の言葉を、「うん、うん」と頷きながらも内心何を言うのだと聞き流して居た、その日のことを思い出して、保君、すまなかったなぁ。と言う感情が私の胸を締めつけた。
 
 橇の上は、先頭が馭者の逓送夫。その次に兄、そして私が最後部であった。
 
 馭者は、敢然と吹雪に立向って馬を追ったが、私達は、馭者が言うが儘に後向になって座って居た。
 
 中杵臼から湯の沢、湯の沢から峠と、烈風に荒ぶ吹雪の中をかいくぐって馬橇は、似湾へ、似湾へと、驀進に驀進を続けた。
 
 
 
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 村境の峠を超えても橇は吹雪の真向を突いて驀進を続けたが、輓馬と馭者が楯になるので、私達兄弟には吹雪は直接襲わなかったが、馬橇の両側から烈風に捲き揚げる新雪が、私達の目と言わず、口と言わず、全身に渦を巻いて乱舞するので、その苦痛は、徒歩の時よりも遙かに苦しいものがあったが、そのたて髪を、振り立て、振り立て、首の鈴輪の音も高らかに雪を蹴って、嘶きながら吹雪の平野を驀進する光景は、壮烈そのものであって、馬橇から降り落されまいと懸命にしがみついて居た私ではあったが、その血は沸いて肉は踊って居た。
 
 郵便局では、帰りの遅い私達を気づかって、局長さんも居残って居たが、私達の顔を見ると「オオ帰って来たか、大吹雪で酷い目に逢ったろう、さぁ引継は良いから早く帰りなさい。」と言ってくれたので、各所の郵便函から集めて来た郵便物の這入って居る鞄を閑一さんに渡して、早々に郵便局を出たのだが、家に帰った時刻は、午后の十一時を既に過ぎて居た。
 
 全身雪達磨になって玄関を這入った兄弟が、「只今」と茶の間の灯へ声をかけると、その帰りを待って居た母が、「おお、帰ったか、酷かっただろうにご苦労さんじゃったなあ。」と言って、おろおろとした声で玄関まで出迎えてくれたが、その時の母は泣いて居たのではないかと、私は今思って居る。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の9

2024-11-28 16:40:46 | 履歴稿
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履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の9
 
 その時の私は、恰も無神経のような状態になって居たので、寒い、冷い、餓じい、と言った類の苦痛は、少しも感じなかったものであったが、執拗に襲って来る睡魔に、ウツラウツラして居たものであったから、兄と弁当の状景を只ぼんやりと傍観して居たものであった。
 
 勿論その時の私には、弁当を食べようと言った意思は全然無かった。
 
 それからどれ程の時が過ぎたのか、と言うことは判らなかったのだが、それまで私が忘れて居た、寒い、冷たい、餓じい、と言った諸々の感覚が蘇って仮睡の状態であった私の神経を呼び起した。
 
 と、それはその時であった。ヒヒン、ヒヒンと嘶きながら路上を駈ける馬の鈴の音が、チャリンチャリンと強弱長短の尺度を瞬秒の間合に変えて、荒れ狂う烈風と吹雪をついて或時は近く、また或時は遠く微かに、生べつの方向から聞えてきた。
 
 
 
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 私は、咄嗟にそれが似湾と鵡川の郵便局の間を往復して居る逓送の馬橇であると感じたので、「そうだ、あの音は屹度逓送の馬橇だ、そしたら俺達はそれに乗せて貰って帰ろう。」と思って傍で、仮睡の状態になって居る兄を激しく揺り起こした。
 
 私達は、急いで荒狂う吹雪の路傍に出た。
 
 ヒヒン、ブルンブルンと、吹雪に怒る馬の嘶と、チャリンチャリンと鳴る鈴の音にまじって、コツ、コツ、コツと馬橇の側面を叩いて鳴る梶棒の音も次第に近づいて、やがてその全体が、吹雪の中に黒く浮んで見えた時には、「嬉しい」と言う、言葉だけではとても言い表わせないものが、涙となって私の頰を流れた。
 
 「そうか、お前達は睡ったのか、フウン、併し危なかったぞ。吹雪で死ぬ人はなぁ、皆そう言うふうに睡った者がその儘凍れ死ぬんだぞ。」と私達を馬橇に乗せてから、一部始終を聞き出した逓送夫が、凍死をする者の原因を教えてくれた。
 
 ”睡った者が凍死をする”それまでの私は、生きるとか死ぬと言うことには、全然無関心であったのだが、この逓送夫の言葉を聞いて今更のように、慄然としたものであった。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の8

2024-11-27 11:06:26 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹 雪 10の8
 
 いつもならば、とっくに通り過ぎて居る筈の中杵臼の部落へはまだ二、三百米は歩かなければならないと言う所まで来た時に、突然兄が足を止めて、「義章、俺はもう歩けんわ、だから此の林の中で少し休んで行こうや。」と言って、右側の林の中へ歩き出した。
 
 私に兄の声は、判然と聞こえたのではあったのだが、生べつの本村から、この林の道へ入って五、六百米程の所までは、首を左右に振ったり、瞬いたりして、視界や呼吸を障害する吹雪と闘いながら歩いたものであったが、それから後は、寒い、冷たい、餓じい等と言う、苦しい感覚が次第に薄れて、只無我夢中で殆んど無意識の状態になって歩いて居たのであったから、兄の歩けない、林の中で休む等の言葉を、私の神経が既に意識する状態に無かったのであったのかも知れないのだが、私は、なおも直線の家路へ歩き続けようとして居た。
 
 その時、「オイ、義章お前休まないのか。」と兄が呶鳴ったので、私はハッと気付いたのであったが、兄へ答える力も無く、無言の儘で、そうした兄の後に続いたものであった。
 
 
 
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 兄と私の二人が這入って行った林の中で、道路から五米程這入った所に、その木種については判らなかったが、枝を大きく張った一本の老樹があった、「オイ、あの木の下が良いんでないか」と兄が言うので、私もそれに同調して、その老樹の根元へ二人がどっかと腰をおろした。
 
 私達が吹雪を避けて這入った林の中は、猛烈な猛吹雪を余所に無風の状態であった、と言うことは、連抱の老樹もさることながら、その隙間も無い程に生い茂って居る若木が、防風の楯になって居たからであろうと、現在の私は思って居るのだが、その当時の私は、「吹雪が少しも来ないなんて有難いことだなぁ。」と思って、流石に兄は先見の明ありと思って、その林へ這入ろうとした兄を敬服したものであった。
 
 林の中へ這入た私が、それが意識が朦朧として居たと言っても、何故自分達はこんな林の中で休まなければならないのか、これから家に二人が帰れるのか、どうかと言うことは、私の脳裡を去来して居たのであった。
 
 
 
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 それは、二人が老樹の根元へ腰をおろしてから十分程たった時であったが、「オイ、義章、弁当を食うとしようか。」と言って兄は、それまで腰に結びつけた儘になって居た風呂敷包から、弁当の這入った行李(現在では既に姿を消して居ると思うが、当時は弁当行李と言って、柳の枝を原料とした容器があった)を取り出して箸をつけたのだが「駄目だ、これじゃ食えないわ、カンカンに凍って居るんだ。」と言って、「しょうが無いなぁ。」と呟きながら弁当行李を風呂敷に包んで腰に巻いたのだが、北海道の一月、それも凛烈肌をつんざくと言う悪天候の終日を、人の腰肌にあったとは言っても、終日の雪中に晒された弁当が凍るのは当然のことであった。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の7

2024-11-25 14:59:56 | 履歴稿
IMGR083-15
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の7
 
 例によって、市街地の郵便函を開函して帰った私は、兄が大別してあった、キキンニを始め、自分が担当をして居る区域の郵便物を、いつものように区分をして学生鞄に詰めたのだが、その日の量が特に多くて詰めきれなかったので、残りを風呂敷包にした。
 
 兄も、そして私も、五個程の小包を背負って家を出た時刻は、平日と何も変らなかったのだが、人趾未踏の雪路が歩行の速度を鈍らせるので、兄弟がキリカチの大久保商店で落合ったのは、午后の三時を既に二十分程過ぎて居た。
 
 いつもは、此処で二人が昼食の弁当を食べたのだが、朝から頻頻と降り続けて居る雪に対する不安と時間的にも平日より、二時間以上を遅れて居ることを気にして、私達二人は昼食抜きで、早早帰路についた。
 
 
 
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 私達が大久保商店を出た時には、朝からの弱い南風が止んで無風状態になったので、「風が止んだぞ。」と二人は喜んだのであったが、それもつかの間、約一粁程を歩いた頃から、新に北風が吹き始めた。
 
 併し、風はさして強くは無かったのだが、来る時のそれと同じように、頻頻と降る雪を、正面から吹きつける向風であったので空腹を抱えた二人にはとても苦しい行進であった。
 
 平常は、この辺の道を人や馬橇が、鵡川の市街地へ多少は往来をして居るのであったが、それが荒天の関係であったものか、行けども、行けども、人馬はその影すらも無かった。
 
 短かい冬の日が早早に四辺を夜の帷に包んで、白一色に塗り潰された大地は、道と田畑との見界を困難なものにして、私達の歩行を苦しいものにした。
 
 私達は、睫の雪を拭いながら、凡そ此処こそ道と思いし所をひたむきに歩いたのだが、路傍の側溝へ足を滑らしては、幾度か転落したものであった。
 
 
 
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 漸く二人が生べつ本村のはづれに差懸った頃に、雪は多少小降りになったのだが、風が猛烈に強くなって、地上の積雪を乱舞させる猛吹雪になった。
 
 併し、其処から村境の峠までは、道の両側に溝も無ければ、中杵臼の部落以外には、人家とても無い林の中の一本道であったので、側溝に足を滑らす心配は無くなった。
 
 私達は、側溝に足を滑らす心配は無くなったのだが、ピューッ、ピューッと、或時は高く長く、或時は低く短かく、瞬秒風鳴りの音を変えては老樹の幹を揺ぶって、その梢に唸る烈風が路上に約五十糎程積って居る朝来の新雪を猛烈に吹雪いて、一歩、また一歩と、積雪を踏超えて此処を必死と懸命に歩く私達兄弟の、目と言わず口と言わず、真正面から全身に打ちつけるので、顔面を拭う暇とても無いと言う状態であったので、私達は首を左右に振っては顔の雪を、目を瞬たいては睫の雪を、そして下唇をとがらしてプーッ、プーッと、鼻腔に息を吹上げては、呼吸を妨げる鼻下の雪を払い落して、空腹と疲労でふらふらになった体を踠きながら歩いた。



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履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の6

2024-11-15 16:33:25 | 履歴稿
IMGR083-22
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の6
 
 私達が郵便局へ帰ったのは、午后の八時を三十分程過ぎた時であったが、早速各所の郵便函から集めて来た郵便物を、事務の閑一さんに引継いで家へ帰ったのは、それから三十分程後のことであった。
 
 「今日は、昨日より遅かったな。」と、父に言われて、「今日は郵便物が多かったから。」と兄は答えたが、その事実は遠道に馴れて居ない私の足が遅かった結果であった。
 私はこの日から、「兄さんが慣れるまで。」と言う母の意思に従って、向う一週間を毎日生べつへ往復をした。
 
 その結果、どうにか兄が一人で行けるようになったので、私は通学するようになったのだが、勉強の遅れが可成り私を苦しめた。
 
 併しその後も、郵便物の多い日や兄の体調の悪い日には、私が学校休んで手伝ったので、週間、二、三日位しか登校することが出来なかった。
 
 
 
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 やがて、雪は降り積もり、河川は凍結して、人馬が対岸と氷上を往来すると言う厳冬期に這入って、学校は冬休みになったのだが、私の生べつ往復は、この冬休み中を一日も欠かさずに毎日続いた。
 
 やがてその年も暮れて、大正二年の元旦を迎えたのだが、私達兄弟にはお正月の喜びは無かった。
 
 その頃の私は、川向のキキンニから芭呂沢までの三部落と、芭呂沢を渡って畔道から道路へ出たその道路の右側の配達をキリカチまで受持って居た。
 
 また兄は、似湾村の部分を受持って、其処の配達が終ると峠を越えて中杵臼の部落を配達するのであった。そして生べつの本村へ這入ってからは、私の受持以外の道路から左側を配達しながらキリカチへ歩いて、郵便函の在る大久保商店で二人が落合うのであった。
 
 
 
IMGR083-18
 
 このように手分けをして配達をするようになって居たので、時間的には相当短縮して居たのだが、何んと言ってもお正月であった、十日頃までと言うものは、殆ど戸毎へ配る年賀郵便で、私達兄弟が家に帰り着くのは、毎日午后の八時以後と言う時刻であった。
 
 こうした私達兄弟が、ある猛吹雪の日に、「北海道では吹雪で人は死ぬ。」と言った、保君の言葉をそのままに、危く遭難をしかかることがあった。
 
 その当時私は、その状況を記録しておいたのであったが、長い年月のいつの日にか忘失してしまって、正確な日時が判らなくなってしまったのだが、年賀郵便も、小包も、特に多い日のことであった
 
 その日の朝は、明方から降り出した粉雪が、猛烈に降って居て積雪も既に三十糎程になって居たのだが、風はさして強くは無かった。
 
 
 
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