備 忘 録"

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履歴稿 北海道似湾編 私の弟とカラス 5の4

2024-12-30 14:56:46 | 履歴稿
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履 歴 稿 紫 影 子 

北海道似湾編
 私の弟とカラス 5の4
 
 弟は親子三人分のお握弁当と母が、その日蒔かんとする、青豌豆の種をグルグル巻にした風呂敷包を右肩から、左脇下に背負ってその右手には、空手籠を持って居た。
 
 「おお義憲、お前弁当持って来てくれたのか、重かっただろうが。」と頭を撫でてやると「ウン」と頷いて、とても得意そうであったのが、今に私の印象に残って居る。
 
 私の馬鈴薯蒔は、背負って来た叺の種薯を全部、鎌で二つに切って、それを弟が持って来た手籠に一ぱい入れては自分が、昨日作った畝筋に約三十糎程の間隔に一個づつ、ポトンポトンと落しては、両足で交互に土をかけて行くのであった。
 
 また母は、私が薯を蒔くために畝筋を切った、最後の筋から約五十糎程間隔をおいて、自分が蒔かんとする青豌豆の畝筋を数十本切って種を蒔くのであったが、弟は原始林に隣った開墾畑で独りぼっちにされたのがつまらなかったのか、私の側へ来てブツブツ呟きながら未だ種薯を落としていない畝筋を私に真似て、両足で埋めるので、「駄目だっ、義憲。」と私が叱っても、弟は「何を言って居るんだ、こんなこと俺にだって出来るぜ。」と言った。寧ろ誇らし気な態度になって益々馬力をかけるので、私は閉口した。
 
 
 
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 私が、あまりにも連続的に𠮟るので、セッセッと青豌豆の畝筋を切って居た母が、「義憲、邪魔をしたらいかんよ、こっちへお出で。」と手招きをすると弟は喜んで、早速母の方へ走って行ったので、私はホッとしたのだが、しばらくすると、「義則、駄目っ。」としきりに叱る母の声が聞こえて来るので、「義憲の奴、困った奴だが一体何をやって居るんだ。」と目を弟に注ぐと彼は、折角母が切った畝筋を私の傍でやったと同じようにまたまた両足で、得意そうに埋めて居た。
 
 ホントに困った奴だなぁ。」と私は舌打をしたのだが、その途端、私に素晴らしい名案が浮かんだ。
 
 その案名と言うのは、弟が私達母子から離れて独りで遊べる物を作ってやることであった。
 
 何を作ってやろうかなと思いながら四辺を見廻した私の目が、私達の畑の東端を流れている小沢の芽に、芽ぶくれて居る数本の柳の木を捕えた。
 
 「そうだ。」柳の木で、一つ馬を作ってやろうと思いついた私は、早速その根元の直径が二糎程ある手頃の柳の木を一本切りとった。
 
 その柳の木の長さは、全長二米程の物であって、切り口から1米程のところまでには枝が無かった。
 
 
 
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 私は、切り口の太い方を馬の頭部に見たてて、その柳の木に打跨った。そしてヒヒン、ヒヒンと馬の嘶きを真似ながら、畝筋未だ切って無い畑を、跳ねながら走り出した。
 
 その当時の似湾には、未だ自転車と言う物が一台も無かった時代であったから往来は、凡て徒歩と馬によって居たので、私達の住んで居る住宅前の道路には、終日乗馬を駈ける人が絶え無かった。
 
 弟は、そうした乗馬を駈ける姿に憧憬を抱いて居たものか手頃の棒切に打ち跨っては、チッ、チッ、チッと口を鳴らして騎乗者が、馬に発進を促す舌打ちを真似て、ヒヒン、ヒヒンと、これまた馬の嘶きを真似て、吏員住宅の前を駆け廻るのが、独り遊びをする時の弟が、最も得意とする行動であった。
 
 私はこうした弟の日常に着想して、母と私の畑仕事を妨げる弟を遠ざけるのには、乗馬の遊びをさせるのが最適と思ったので、柳の木の馬を作ったのであったが、この着想は見事に成功した。
 
 弟は、私の「ヒヒン」と真似た馬の嘶きを耳にするとその視線にそうした私を捕えて、「兄さんおくれよ、兄さんおくれよ」と喚きながら私の傍へ駈寄って来た。



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履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 5の3

2024-12-25 20:24:03 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 5の3
 
 私の母は、胃弱と言う持病があったので、いつも薬湯に親しんで居た人であったから、過激な労働は出来ない人であった。従って、住宅の付近にある家庭菜園を耕作するのが精一杯であったのだから、小出さんからの借地は、主として私が耕作をしなければならなかった。
 
 私の家では、借地の畑を小出さんの畑と呼んで居たが、私は学校から帰ると、早速その小出さんの畑へ鍬・鎌・鉈等の器具を持って第一日の火曜から土曜日までの五日間を、種を蒔くための整地に通った。
 
 私の整地作業第一日は、開墾をする時に伐採をした柴木や掘り起した木の根株、それに切り払った枝木を、人力ではとても掘り起せないので、其の儘に残してある巨木の根株を芯にして、その周囲に積重ねてあったものを焼きつくすことであった。
 
 芯になって燃やされる切株は、その直径が六、七十糎程あった物が五箇所に選ばれて居た。
 
 私は、枯草を狩集めて積累ねてある柴木や木の根の隙間へ風上の方から詰込んで、次々と五箇所を廻って火をつけた。
 
 
 
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 その日の風は微風ではあったが、柴木を始め木その物が乾燥しきって居たので、火は忽ち勢い良く燃え広がって真紅の炎が高々と五箇所の切株から揚がった。
 
 「よしっ、これならうまく燃えるぞ。」と、熾んに火の手を揚げる五箇所の火を次々と見廻った私は、その日の黄昏時まで笹の根を深く堀返してある新地の土塊を畑地の南端から、鍬を振るって砕き耕したのだが、その面積は、僅か二十坪程のものにしか過ぎなかった。
 
 私はその翌日も、学校から帰ると早速小出さんの畑に出かけたのであったが、昨日燃やした五箇所の火は既に燃えつきて居た、併し、柴木や木の根の類が未だ炭火のように赫赫として居た。そして芯にされた切株はその外側が黒く焦げてブスブスと燻って居た。
 
 私は昨日に引続いて、矢張黄昏時までの時間を懸命に土塊砕きをやったのであったが、昨日の経験が要領に馴れさせたので、その日は、約半反歩程の成果をあげることが出来た。
 
 明けて、木曜日の第三日目には、火は全く消えて、黒く燻んだ切株の周囲を柴木類の灰が、白く取り巻いて居た。
 
 
 
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 その日の土塊砕きは、二日間の熟練が能率をあげて、翌四日目には全部完了と言う素晴しい成績であった。
 
 五日目の土曜日には、昨日までに砕いた土を均して馬鈴薯を蒔く部分の畝筋を切った。
 
 ”私の弟と烏”それは、六日目の日曜日のことであったが、次弟の義憲がこの小出さんの畑で二羽の烏と、珍無類の滑稽を演じたことであった。
 
 その日の朝私が、叺に入れた半俵程の種馬鈴薯を背負って、鍬を持とうとした時に母が、「今日はお天気も良いし家にはお父さんが居るのだから、お母さんも手伝ってあげる。その鍬はお母さんが持って行くから置いて行きなさい。」と言ってくれたので、私はその鍬を残して途中では、三度ほど休んだが、三十分程で小出さんの畑に行き着いた。
 
 畑に行き着いた私が、畑の中央部に在った直径が一米程もある楢の巨木の切株に、種馬鈴薯の叺を卸してホッとした時に、「義章、重かったじゃろうなぁ。」と二丁の鍬を肩にした母が、弟を伴って畑に来着いた。
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 5の2

2024-12-25 19:48:11 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 私の弟と烏 5の2 
 
 当時、似湾村としての一般的な食生活は、米と麦或は稲黍・粟・稗・馬鈴薯・南瓜等を混合したものが主食であって、馬鈴薯・生唐黍・南瓜の類は、その季節ともなれば塩煮にして、一食は必ず食したものであった。
 
 私の家もこの二種類混合の主食と、代用食の馬鈴薯・生唐黍・南瓜等の塩煮を食べて生活をした家庭であったが、住宅の周辺に割当られた家庭菜園の収穫だけでは補い得なかったので、他に二反歩の借地をすることになった。
 
 借地は、私達の住んで居た吏員住宅から道路(私は鵡川から生べつそして似湾へ移住をするまでも、それから以後も自分達が歩いたこの道を、本稿では今まで道路と書いて居るが、胆振の国の鵡川から十勝の国へ抜けて居る道であったから、或いは当時の国道と称するものであったやも知れんと思うので、爾後は此の道路を国道と書くことにする)をT字路から左へ曲って一粁程を行った所の左側に、その家の造作はあまり立派では無かったが、当時の似湾村としては、家構えの広い小出さんと言う人の土地であって、前年開墾したばかりの新地であった。
 
 
 
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 現在では、苫小牧の王子製紙山林部は冬期間に鵡川川の上流地域に在る、会社の所有林から造材をした原料丸太を、柳芽が告げる北海道の春の水に乗せて国鉄富内線の穂別駅までを流送搬出をして、其処から鉄道輸送をして居るのであるが、当時は、太平洋へ注ぐ川口の在る鵡川村の本村までを、流送することによって搬出をして、其処から専用線であった軽便鉄道によって苫小牧まで運んだものであった。
 
 従って、上流地域から川口までの要所要所に、流送の作業をする人夫の宿泊所が必要であった。
 
 併し、その流送搬出は、六十日程度の短期間であったので、その流送作業の過程に於て、終点の鵡川までの途中に於て似湾村が一泊をする地点であったのだが、数隊に分れたその流送人夫の人達が一日間隔で川を原木と共に下って来て似湾に一泊をするのであった。
 
 併し、そうした人達の人数が、時としては百人に近い人数となることもあるので、一般の旅館営業をして居る人達としては、そうした季節的な多人数を収容する設備は、とても出来なかったので、小出さんのような大きな構をした家を借りて居たようであった。
 
 
 
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 私の家で借りた畑は、その小出さんの家から更に北へ百米程行った所に幅が二米程の小沢があって、その小沢の土橋を渡ると左へ曲る小路があった。
 
 小沢の流れは、この小路に添って十米程行った所から左へ曲って居て、私達の借地の畑はその右側に在った。
 
 畑は昨年開墾したばかりの処女地であったので、その直径が五十糎程の物から八十糎程もある樹木の切株が、此処や彼処に十数本点在して居て、切り倒して枝を払った直径六十糎内外と言う桂の丸太が、其処此処に集積されてあった。
 
 私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越たので、兄は郵便局へ遠くなったのだが、私は学校の授業が終わった足をその儘郵便局へ立寄って、開函用の鍵と鞄を持って帰えることを許されたので、翌朝の八時に開函した郵便函の郵便物を局に引継いで登校をすれば良かったので、寧ろ都合が良くなった。
 
 併し、日曜日と祭日には、引継を了えた空鞄を持って帰らなければならなかったので、以前とは反対の行程ではあったが、市街地と下似湾間を、矢張り往復をしなければならなかった。
 
 またその頃は、勤務の馴れた兄が、一人で配達をして午后の五時頃には毎日帰って来て居たので、私の手伝はもう必要が無くなって居た。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 5の1

2024-12-05 16:22:53 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 5の1
 
 大正元年の秋に着工をした戸長役場の新庁舎と吏員住宅が落成したのは、私が尋常科の六年に進級をした大正二年の五月頃であったように覚えて居るのだが、それまで市街地の中程にあった寺の説教場を改造して仮の庁舎に当てて居た役場が、新庁舎へ移転をするのと同時に私達の家も木の香新しい吏員住宅に、移り住むことになった。
 
 新装になった戸長役場は、仮庁舎の時と同じように道路の西側にあって、それまで市街地の北端であった駅逓所から更に、百米程を北上した所に、約七、八十米の四方へ木柵と排水溝を巡らして道路側の排水溝から約十米程行った所が、新庁舎の玄関になって居た。
 
 その建築面積については詳で無いが、排水溝の架橋、そして門柱、木柵、玄関等の構造が、少年の私の目にはとても立派に見えた。
 
 
 
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 吏員住宅のうち、戸長の住宅は庁舎の北側に併設されて居た。
 
 私達の住む一般吏員の住宅は、北側の木柵と排水溝を超えて、各戸が同じ間数で四戸一連の一棟が北に延びて居て高橋、綾井、藤川、田中と言う順序に配分されたので、私達の家は、南端から二軒目であった。
 
 それが敷地と言うものであったか、用地と言うものであったか、と言うことは判って居ないが、相当広い面積であったので、住宅の表と裏には、可成りの空地が在って、その空地を吏員住宅の家族が、それぞれ耕作をして家庭菜園にして居た。
 
 一般吏員の住宅と道路との関係は、私の家の前から幅が一米程で直線に十米程行って道路と丁字路になって居る路が在った、そして一連になって居る住宅の前は、家庭菜園までに二米程の空地を残してお互いが往来をして居た。
 
 住宅の間取りは、一間の玄関を這入ると三尺の土間があって、其処から仕切の障子が無い板の間の茶の間とその奥が、一坪の台所であって、その右側に在る縦に一間、幅が三尺の土間から勝手口となって居た。
 
 
 
IMGR083-25
 
 また座敷は、茶の間から左に這入ると左右に、六畳間が二部屋あって左側の部屋には、表側に面して一間の出窓があった。そうして、此の部屋を座敷と称して父の居室にして居た。
 
 右側の部屋には、窓も無ければ茶の間との出入も一枚の襖で仕切られて居た。
 
 住宅の裏側は、西側の山脈の山裾を流れて居る鵡川川の本流までが一望の平地であった、そして表側は道路から三十米程行った所を、東側の山脈が南へ走って居た。
 
 役場の木柵内にも釣瓶井戸が一つ在ったのだが、飲料不適なので、飲料水は役場の正門前に新築をして、市街地の中程の所から移転をして来た田辺良作さんと言う理髪店の主人が、裏の山裾に湧清水を利用して枠を入れた井戸から貰い水をして居た。
 
 この貰い水を汲んでくる役は私の担当であったから、十八立入りの石油空缶二箇に握把をつけた手製の容器に汲んでは、毎日三回天ビン棒で担いだ。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の10

2024-11-28 16:56:16 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の10
 
 そうだ、俺達は睡ったんだなと思うと、私はこの逓送の馬橇が人馬共に神々しくさえ思えた。
 
 そうした私は、嘗て秋の椎茸狩の日に「北海道では、吹雪で人が死ぬんだぞ。」と言った保君の言葉を、「うん、うん」と頷きながらも内心何を言うのだと聞き流して居た、その日のことを思い出して、保君、すまなかったなぁ。と言う感情が私の胸を締めつけた。
 
 橇の上は、先頭が馭者の逓送夫。その次に兄、そして私が最後部であった。
 
 馭者は、敢然と吹雪に立向って馬を追ったが、私達は、馭者が言うが儘に後向になって座って居た。
 
 中杵臼から湯の沢、湯の沢から峠と、烈風に荒ぶ吹雪の中をかいくぐって馬橇は、似湾へ、似湾へと、驀進に驀進を続けた。
 
 
 
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 村境の峠を超えても橇は吹雪の真向を突いて驀進を続けたが、輓馬と馭者が楯になるので、私達兄弟には吹雪は直接襲わなかったが、馬橇の両側から烈風に捲き揚げる新雪が、私達の目と言わず、口と言わず、全身に渦を巻いて乱舞するので、その苦痛は、徒歩の時よりも遙かに苦しいものがあったが、そのたて髪を、振り立て、振り立て、首の鈴輪の音も高らかに雪を蹴って、嘶きながら吹雪の平野を驀進する光景は、壮烈そのものであって、馬橇から降り落されまいと懸命にしがみついて居た私ではあったが、その血は沸いて肉は踊って居た。
 
 郵便局では、帰りの遅い私達を気づかって、局長さんも居残って居たが、私達の顔を見ると「オオ帰って来たか、大吹雪で酷い目に逢ったろう、さぁ引継は良いから早く帰りなさい。」と言ってくれたので、各所の郵便函から集めて来た郵便物の這入って居る鞄を閑一さんに渡して、早々に郵便局を出たのだが、家に帰った時刻は、午后の十一時を既に過ぎて居た。
 
 全身雪達磨になって玄関を這入った兄弟が、「只今」と茶の間の灯へ声をかけると、その帰りを待って居た母が、「おお、帰ったか、酷かっただろうにご苦労さんじゃったなあ。」と言って、おろおろとした声で玄関まで出迎えてくれたが、その時の母は泣いて居たのではないかと、私は今思って居る。
 
 

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