履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
私の弟とカラス 5の4
弟は親子三人分のお握弁当と母が、その日蒔かんとする、青豌豆の種をグルグル巻にした風呂敷包を右肩から、左脇下に背負ってその右手には、空手籠を持って居た。
「おお義憲、お前弁当持って来てくれたのか、重かっただろうが。」と頭を撫でてやると「ウン」と頷いて、とても得意そうであったのが、今に私の印象に残って居る。
私の馬鈴薯蒔は、背負って来た叺の種薯を全部、鎌で二つに切って、それを弟が持って来た手籠に一ぱい入れては自分が、昨日作った畝筋に約三十糎程の間隔に一個づつ、ポトンポトンと落しては、両足で交互に土をかけて行くのであった。
また母は、私が薯を蒔くために畝筋を切った、最後の筋から約五十糎程間隔をおいて、自分が蒔かんとする青豌豆の畝筋を数十本切って種を蒔くのであったが、弟は原始林に隣った開墾畑で独りぼっちにされたのがつまらなかったのか、私の側へ来てブツブツ呟きながら未だ種薯を落としていない畝筋を私に真似て、両足で埋めるので、「駄目だっ、義憲。」と私が叱っても、弟は「何を言って居るんだ、こんなこと俺にだって出来るぜ。」と言った。寧ろ誇らし気な態度になって益々馬力をかけるので、私は閉口した。
私が、あまりにも連続的に𠮟るので、セッセッと青豌豆の畝筋を切って居た母が、「義憲、邪魔をしたらいかんよ、こっちへお出で。」と手招きをすると弟は喜んで、早速母の方へ走って行ったので、私はホッとしたのだが、しばらくすると、「義則、駄目っ。」としきりに叱る母の声が聞こえて来るので、「義憲の奴、困った奴だが一体何をやって居るんだ。」と目を弟に注ぐと彼は、折角母が切った畝筋を私の傍でやったと同じようにまたまた両足で、得意そうに埋めて居た。
ホントに困った奴だなぁ。」と私は舌打をしたのだが、その途端、私に素晴らしい名案が浮かんだ。
その案名と言うのは、弟が私達母子から離れて独りで遊べる物を作ってやることであった。
何を作ってやろうかなと思いながら四辺を見廻した私の目が、私達の畑の東端を流れている小沢の芽に、芽ぶくれて居る数本の柳の木を捕えた。
「そうだ。」柳の木で、一つ馬を作ってやろうと思いついた私は、早速その根元の直径が二糎程ある手頃の柳の木を一本切りとった。
その柳の木の長さは、全長二米程の物であって、切り口から1米程のところまでには枝が無かった。
私は、切り口の太い方を馬の頭部に見たてて、その柳の木に打跨った。そしてヒヒン、ヒヒンと馬の嘶きを真似ながら、畝筋未だ切って無い畑を、跳ねながら走り出した。
その当時の似湾には、未だ自転車と言う物が一台も無かった時代であったから往来は、凡て徒歩と馬によって居たので、私達の住んで居る住宅前の道路には、終日乗馬を駈ける人が絶え無かった。
弟は、そうした乗馬を駈ける姿に憧憬を抱いて居たものか手頃の棒切に打ち跨っては、チッ、チッ、チッと口を鳴らして騎乗者が、馬に発進を促す舌打ちを真似て、ヒヒン、ヒヒンと、これまた馬の嘶きを真似て、吏員住宅の前を駆け廻るのが、独り遊びをする時の弟が、最も得意とする行動であった。
私はこうした弟の日常に着想して、母と私の畑仕事を妨げる弟を遠ざけるのには、乗馬の遊びをさせるのが最適と思ったので、柳の木の馬を作ったのであったが、この着想は見事に成功した。
弟は、私の「ヒヒン」と真似た馬の嘶きを耳にするとその視線にそうした私を捕えて、「兄さんおくれよ、兄さんおくれよ」と喚きながら私の傍へ駈寄って来た。