備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 北海道似湾編  生べつ村 3の2

2024-10-14 20:05:26 | 国防
IMGR070-23
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 生べつ村 3の2
 
 その生べつ小学校は、私たちが歩いて来た鵡川川上流の道から五百米程右に這入った小高い丘の上に在った。
 
 小学校と言っても教室は僅か1教室、そしてその教室の横に只1人の先生でもあり、校長先生でもあった由佐先生が住んで居る住宅が併設されてあった。
 
 香川県の丸亀時代では、教室の数も二十程あった城北の小学校で学んだ私は、こんなに小さな学校も在るのかと、驚いたよりも寧ろ不審でならなかった。
 
 校舎に併設をされて居た校長先生の住宅は、六畳間が二部屋あっるきりという手挾いものであったが、由佐校長の家庭は夫人と勝子さんと言った六年生の長女を頭に、女児が3人の5人家族であったが、その3人の子供達は、私達がその両親の故郷と同じ香川県から来たという事を大変珍らしがって、第一夜から燥いで、私達兄弟と仲好しになって遊んだ。
 
 
 
IMGR071-10
 
 私達の家族は、この校長の住宅に1週間ほど寄寓をしたのだが、私は毎日校舎前の狭い校庭や一つしかない教室へ行っては、この学校の生徒達と仲良く遊んだ。
 
 学校は、南向に建てられて在って、その東側が教室になって居た。
そうして校長の住宅から教室へは、居室の六畳間から3尺のドアーを開けて出入をするようになって居た。
 
 また教室では、一年から六年までが授業を受けるようになって居て、生徒は愛奴と和人が半半位であったように覚えている。
 
 僅か1週間と言う短い期間ではあったが、私にはこうした思い出が残って居る。
それは、生べつに着いて2日目の正午のことであったが、学校の昼休みの時間に、生徒達と遊んで居た私が、校庭の南端に立って見下ろすと、三十米程あった急斜面の麓が、沢水の流れて居る所らしかったが、斜面の中程から其処までには、未だ真白い残雪があるのが見えた。
 
 
 
IMGR071-13
 
 郷里の香川県時代には、雪が降ると言うことも稀であって、積雪などは全然見たことが無かったので、「あっ、雪が積っている」と言って、私は急斜面を駆け降りた。
 
 私は残雪の手前に止るつもりで駆け降りたのだが、勢い余ってその残雪の中へ飛込んでしまったのであった。
すると革靴を履いた私の足が雪に滑って、ドシンと勢い良く尻餅を搗くとその儘麓まで落ちて行ったのであったが、幸い沢水の流れている所が、其処から二米程離れて居たので濡れることは免がれた。
 
 私は、周章てて丘へ這上ろうとあせったのだが、雪と言う物に経験の無い私には無理なことであった。
幾度も這上ろうとあせるのだが、雪に足が滑るのでとても丘へは登れそうも無いので途方にくれていると、そうした私に丘の上の学童達は、それは疎ではあったが五米程右へ寄った所に生えて居た柴木の方向を指さして、其処へ行け、と声を揃えて叫んで居たのだが、狼狽え切った私には、その柴木を摑んで登って行くということに気付く余裕は無かった。
 
 

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履歴稿 香川県編  八幡神社 2の2

2024-10-11 17:12:21 | 国防
“IMGR060-16"
 
履 歴 稿  紫 影子
 
香川県編
 八幡神社 2の2
 
 また花車は、それが花柳街の人達であったのかも知れないが、三味や太鼓で賑かに囃したてては威勢の良い若衆に綱を曳かせて、町から町を練歩いては、所所で綺麗な舞姿の娘さん達に舞を披露させて居た。
 
 私が母から貰うお祭りの小遣は、10銭の銀貨が1枚ときまって居たのであったが、私はその10践の小遣を此処で5厘、此処では1銭と言うように、菓子や果物を買食いしながら、終日ダンジリや花車のあとを飽かずにつけ歩いた者であった。
 
 香川県と言う所の氏神には、八幡神社が多かったものか、土器川を挾んだ対岸の土器村にも氏神の八幡神社があった。
 
 
 
“IMGR060-17"
 
 その土器村の八幡神社へ行く道は、渡場通りから直線に土器川へ出た所に架してあった仮橋を渡って行くのであったが、向岸の堤防の道を右へ50米程行った所から左へ曲って、その路傍が一色の水田地帯と言う所を2粁程直線に行った所の正面に、その八幡神社があった。
 
 そして其処は、土器山と呼んでいた山の麓であった。
 
 この土器村の祭典には、御輿を土器川に投げ込んで、とても荒荒しく取り扱って居た。
 
 そうした乱暴な場面をしばしば見た私が、その光景を一度父に話をしたことがあったのだが、その時の父は、「土器の八幡さまは荒神さまなので、そうしなければならないことになって居るんだ」と教えてくれたのだが、当時の私には、その意味は通じなかった。
 
 
 
“IMGR060-18"
 
 香川県一円の祭典では、そのいづれの神社でもきまって獅子舞が、その境内で行われて居た。
 そしてその獅子舞は、各部屋ごとに、または各町内ごとに2人の若衆が獅子の頭尾となって、舞の技巧を競うのであった。
 
 それは、私が4年生の秋のことであったが、私は土器川の堤防に生えて居る老松へ登って、その枝に腰を掛けて四辺の景色を見渡すのがとても好きであったので、その日も只一人でその堤防へ出かけて、老松の枝から四辺を見渡して悦に入って居たのであったが、突然土器山の麓からコンコンチキチンと獅子舞の鐘の音が聞えて来た。
 
 「ははぁ、今日は土器の八幡様のお祭か」と気付いたので、私は土器山の麓へじいっと目をやった。
 
 
 
“IMGR061-10"
 
 その日は空に雲一つ無いと言う絶好のお祭日和であったが、社頭から川岸までの間に一定の間隔をとって建ててあった幟が、秋の陽に映えて白くはためいて居た。
 
 私はその日まで土器の八幡神社の祭典と言えば、御輿を川の中へ投込むと言った光景以外には嘗て見たことが無かったので、「よし、一つ見てこう」と急いで老松から降りて仮橋の袂へ走った。
 
 仮橋を渡った私は、駆け足で神社へ行ったのだが、祭典とは言っても、純農村のことであったから、子供達が喜ぶ興業物の催しは何一つ無いと言う淋しいお祭風景であった。
 
 併し、村の子供達は、お互に着飾って、獅子舞の周囲や、綿飴や玩具を売って居る、露天店の前に群って、楽しそうに遊んで居た。
 
 
 
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履歴稿 香川県編  幼稚園

2024-10-01 13:15:53 | 国防
“IMGR054-04

履 歴 稿 紫 影子

香川県編
  幼稚園

 私が、幼稚園へ入園をした日時については、父の履歴稿に記録されて居ないので、正確なことはわかっていないのだが、明治40年の春ではなかったかと私は思って居る。

 母の末の妹に久枝と言う叔母が居たのだが、私達が丸亀へ移った時には、丸亀の高等女学校へ法勲寺村の生家から約8紆の道程を徒歩で通学をして居て、その学級が3年生であったかのように記憶して居るが、その叔母が通学をする道はと言えば、私たちの新居から東へ600米ほど言ったところを南から北へ流れて瀬戸内海へ落ちて居る土器川の堤防づたいで竹藪と松並木の淋しい所ばかりを歩くのであったが、私達が引っ越すと、そうした淋しい道を通学するということが関係して居たのだろうと、現在の私は想像をしているのだが、私達と同居して通学をするようになった。



“IMGR054-05

 私はその叔母を、同居をした日から「姉さん」と呼ぶ父や母を真似て、ずうっと「姉さん」と呼んで居た。

 幼稚園へ入園をした日には母が附添ってくれたのであったが、その翌日からは、その姉さんが登校の途中を廻り道をして幼稚園まで送ってくれた。

 併し1週間すると、独りで通えると言う自信がついたので、「姉さん、もう俺一人で行けるけん今日から送ってくれんでもええわ。」と私は言ったのだが、「ええからええから。」と言って、姉さんは幼稚園の近くまで毎日送ってくれた。



“IMGR054-07

 それは、或る風雨の日のことであったが、雨傘を風に取られまいとする私が、弱い突風に負けて転倒をした途端に、レースで編んだ袋に容れて右肩から左の腰へ紐で釣下げて居た円形の弁当函が袋から転がり出て水溜に落ちた。

 急いで起きあがった私が、慌てて弁当を拾おうとすると、今度は蓋がとれて泥水が中へ這入ったので弁当が滅茶苦茶になってしまったことがあったが、その時姉さんが自分の弁当と交換をしてくれたので、毎日楽しみにして居たお昼の弁当を友達と一緒に食べられたのが、とても嬉しくて未だに私の懐かしい思い出に残って居る。



“IMGR054-08

 幼稚園は、東幼稚園と西幼稚園とが隣合って並んで居たのだが、東西相互の園児達はとても仲好であった。

 幼稚園では、唱歌と遊戯、それに手工が毎日の授業であったが、私達園児が先生と呼んで居た保姆さんが二人と老年夫婦の小使さん、そして私達園児の数は二つの教室に別れて40人程が居たように私は記憶をして居る。

 幸い授業の総てが好きであったので、先生に可愛がられたことも懐しい想い出の一つとなって残って居る。



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履歴稿 香川県編 蜂の巣と蝦蟇

2024-09-30 14:18:11 | 国防
IMGR053-21

履 歴 稿  紫 影子

香川県編 
 蜂の巣と蝦蟇

 裏の小庭園の築山には、蝦蟇が2、3匹棲んで居た。
そうして日暮時ともなると、泉水の附近や手水鉢の近くによく這い出て来たものであった。

 それは、私がまだ小学校の1年生であった時代のことであったが、或日の黄昏時に、ついぞ見かけない珍しい小鳥が、五葉の松の小枝で囀っているのを発見したので、「ウム、珍しい小鳥が居るぞ」と、密っと近くへ忍び寄ったのだが、それと気付いたものか、パッと小枝を蹴って夕焼けの空へ飛んで行ったので「ヤァ失敗してしまった」と、思わずつぶやいた私ではあったが、その時その小鳥が飛び立った小枝に蜂の巣がぶら下がっているのを発見した。
 丁度その頃が、蜂が巣に帰る時刻であったものか、巣の周辺には多数の蜂が群がって居た。
 と、そのうちの1匹がスーッと垂直に急速度で下へ落ちたので、”奇怪だな”と思った私の目は、その落ちていった蜂のあとを追った。

 その時の私は思わず「ハッ」と息を呑んだ。
 と言うことは、その蜂の落ちて行った所で私の目が、世にも不思議な事態を見たからであった。


IMGR053-22

 その蜂が落ちて行った所には、大きな蝦蟇が口を開いて待って居た。
 そうして落ちて来た蜂を一呑みにした蝦蟇が、再び口を開いて”パカッ”と言う微かな音をたてると、またその蝦蟇の口に新しい蜂が1匹落ちて来たのであった。

 その日までの私は、蝦蟇をとても可愛いと思って居たので、蝦蟇が這い出てくる日暮時ともなれば、きまって縁側で、その這い出てくるのを待って居たものであった。

 併し、その日からの私は、蝦蟇をとても憎んだ。
 何故かと言うと、それは偶然と言えば偶然の出来ごとであったかもしれないが、生きんがための餌を求めて、終日花から花へ飛び回った蜂が、働き疲れて憩いの我が巣へ帰り着いたものを、無惨にも吸い込むように呑み込んで蝦蟇が餌食としたことが、少年の日の私に怒りを感じさせたからであった。

 そうした私は、その翌日からは日暮時に縁側に立って蝦蟇を待つことを止めた。


撮影機材
 Nikon New FM2


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履歴稿 香川県編 転 居

2024-09-28 19:20:36 | 国防
IMGR053-10

            履 歴 稿  紫 影子

香川県編 転 居

 私は、4歳の春に父母と共に丸亀市へ転居をした者ではあるが、父はこの転居について、その履歴稿に、
 1、明治39年5月27日、香川県丸亀市土居町へ転居す。
と、記録をして居る。

 当時4歳であった私には、何故転居をしなければならなかったのか、と言う詳しい事情は知るよしも無かったが、成年後の私が、父母から聞かされた内容によると、私の祖母が他界をした以後に、家庭内の複雑な事情や災厄が累積したので家運が大きく傾いて、”嫁に行くなら豊穣の加茂へ、加茂は上水米所”と、郷土の人々が歌った上水地域の地主であった私の家も、遂に倒産をすると言う逆境に転落をしたので、祖先伝来の田地田畑と、300年来の由緒を誇った三町屋敷をも人手に渡して、悄然と丸亀市に転居をしたと言うことであった。



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