'08/11/16の朝刊記事から
「東洋のマタ・ハリ」川島芳子 生存説に新証言
処刑逃れ78年まで 可能性は五分五分
中国・長春「形見」の双眼鏡も
【北京15日時事】満州国建国にかかわった旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子が、処刑を逃れ、中国東北地方の吉林省長春(旧新京)市で1978年まで生きていたとする証言が飛び出した。
同省の日刊紙・新文化報が15日までに報じた。
芳子をめぐっては処刑直後から替え玉を使った逃亡説がささやかれてきたが、その後30年間も生存していたという証言は初めて。
証言したのは長春市の女性画家、張鈺さん (41)。
張さんの母(64)は残留日本人孤児で、引き取って育てた男性が2004年末、86歳で亡くなる直前、義理の孫の張さんを枕元に呼び「お前が小さい頃世話をしてくれた『方おばさん』は実は川島芳子だ」と明かし、「方おばさん」の形見の品を託したという。
男性は若いころ、日本語を勉強して満州国の警察学校に勤め、芳子やその親族と接触があった。
芳子の処刑前夜、元同僚と3人で身代わりを用意し、芳子を北京の監獄から脱出させて長春にかくまったという。
「方おばさん」と呼ばれた芳子は、長春の般若寺で尼僧になるなどして身を隠し、78年に死亡するまで男性が生活の面倒を見たとされる。
方おばさんの遺品には、芳子と親交のあった女優李香蘭(山口淑子元参院議員)が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードや、芳子の秘書だった故小方八郎に送るよう託された七宝焼の獅子像、浮世絵を模写した絵、フランス製双眼鏡などが含まれているという。
長春大学の日本語教師で、遺品を鑑定した野崎晃市さん(34)は「中国人が手に入れるのが難しい日本製や舶来の品物が残されている。双眼鏡は(関東大震災直後、無政府主義者の大杉栄らが虐殺された甘粕事件で服役後、フランスに留学した)甘粕正彦が買って帰ったものを、芳子がスパイ活動に利用していたのでは、と想像をかき立てられた」と話している。
川島芳子 清朝皇族の王女として1907年、北京で生まれ、本名は愛新覚羅顕王子(あいしんかくら・けんし)。
日本人の養女となって川島芳子と改名。
小学校から高校まで東京や長野県松本市で育つ。
中国に戻り、上海事変の謀略や満州国建国の工作にかかわり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」と呼ばれた。(北京時事)
長野県松本市の「川島芳子記念室」設立に当たった穂苅甲子男氏の話
戦後しばしば流れた生存説には、何とか生かしてやりたいという希望的観測が交じっている。
多くの遺品が見つかったという話だが、彼女は早朝に突然拘束され、身の回りの品を刑務所に持っていく余裕はなかったと思う。
ただ処刑直後の遺体写真を見た秘書の 小方八郎氏は「芳子ではない」と断言した。
生存の可能性は五分五分と考えている。(時事)