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081116 「東洋のマタ・ハリ」川島芳子 生存説に新証言 見

2023-04-20 13:52:37 | 歴史
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'08/11/16の朝刊記事から

「東洋のマタ・ハリ」川島芳子 生存説に新証言
 処刑逃れ78年まで 可能性は五分五分
  中国・長春「形見」の双眼鏡も


【北京15日時事】満州国建国にかかわった旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子が、処刑を逃れ、中国東北地方の吉林省長春(旧新京)市で1978年まで生きていたとする証言が飛び出した。
同省の日刊紙・新文化報が15日までに報じた。
芳子をめぐっては処刑直後から替え玉を使った逃亡説がささやかれてきたが、その後30年間も生存していたという証言は初めて。





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 証言したのは長春市の女性画家、張鈺さん (41)。
 
 張さんの母(64)は残留日本人孤児で、引き取って育てた男性が2004年末、86歳で亡くなる直前、義理の孫の張さんを枕元に呼び「お前が小さい頃世話をしてくれた『方おばさん』は実は川島芳子だ」と明かし、「方おばさん」の形見の品を託したという。

 男性は若いころ、日本語を勉強して満州国の警察学校に勤め、芳子やその親族と接触があった。
芳子の処刑前夜、元同僚と3人で身代わりを用意し、芳子を北京の監獄から脱出させて長春にかくまったという。
「方おばさん」と呼ばれた芳子は、長春の般若寺で尼僧になるなどして身を隠し、78年に死亡するまで男性が生活の面倒を見たとされる。





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 方おばさんの遺品には、芳子と親交のあった女優李香蘭(山口淑子元参院議員)が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードや、芳子の秘書だった故小方八郎に送るよう託された七宝焼の獅子像、浮世絵を模写した絵、フランス製双眼鏡などが含まれているという。

 長春大学の日本語教師で、遺品を鑑定した野崎晃市さん(34)は「中国人が手に入れるのが難しい日本製や舶来の品物が残されている。双眼鏡は(関東大震災直後、無政府主義者の大杉栄らが虐殺された甘粕事件で服役後、フランスに留学した)甘粕正彦が買って帰ったものを、芳子がスパイ活動に利用していたのでは、と想像をかき立てられた」と話している。




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 川島芳子 清朝皇族の王女として1907年、北京で生まれ、本名は愛新覚羅顕王子(あいしんかくら・けんし)。
日本人の養女となって川島芳子と改名。
小学校から高校まで東京や長野県松本市で育つ。
中国に戻り、上海事変の謀略や満州国建国の工作にかかわり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」と呼ばれた。(北京時事)

長野県松本市の「川島芳子記念室」設立に当たった穂苅甲子男氏の話
 戦後しばしば流れた生存説には、何とか生かしてやりたいという希望的観測が交じっている。
多くの遺品が見つかったという話だが、彼女は早朝に突然拘束され、身の回りの品を刑務所に持っていく余裕はなかったと思う。
ただ処刑直後の遺体写真を見た秘書の 小方八郎氏は「芳子ではない」と断言した。
生存の可能性は五分五分と考えている。(時事)







720429 大樹に巨大トーチカ

2019-05-27 21:03:26 | 歴史
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’08/09/19の朝刊記事から

大樹に巨大トーチカ

【大樹】十勝管内大樹町旭浜の海岸近くの林の中で、太平洋戦争末期に日本軍が米軍上陸侵攻に備えて構築した巨大なトーチカが見つかった。

半世紀以上も経て存在が確認されるトーチカは珍しい。

風化や破壊を免れ、ほぼ手付かずの状態で、日本建築学会は歴史遺産として極めて貴重と指摘。

町は戦争遺産として保存する考えだ。

トーチカは七角形のコンクリート製で全周は約26メートル。

海岸まで約500メートルある。



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現場一帯は町有地で1956年に防霧保安林としてカラマツなどを植林し、樹齢を経たため8月に町有資産として保安林を民間に売却。

伐採に入った業者が8月末に小山状になっていた部分の土砂を取り除いていてトーチカの一部を発見した。

土中から露出した部分は高さ約3メートル。

海岸に向け銃眼2カ所が開く。



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18日は、日本建築学会歴史意匠委員会で道内のトーチカを研究している帯広市の建築家小野寺一彦さん(50)が現地調査した。

「コンクリートの厚さは1.8メートルあり、道内で確認したトーチカでは最大級。土をかぶせ偽装したので見つからなかったのだろう。本当に状態が良く、構造の解明など進める貴重な歴史遺産となる」と話す。

伏見悦夫町長は「トーチカは戦争を鮮明に伝える遺産。次の時代に残していきたい」と保存して見学しやすいよう整備する方針だ。




080914 玄奘記述「先王伽藍」か バーミヤン遺跡 寺院跡が出土

2018-12-28 21:08:02 | 歴史
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'08/09/14の朝刊記事から

玄奘記述「先王伽藍」か
バーミヤン遺跡 寺院跡が出土


【バーミヤン(アフガニスタン中部)13日共同】アフガニスタン中部の世界遺産バーミヤン遺跡で13日までに、小説「西遊記」の三蔵法師としてしられる玄奘三蔵が、著書「大唐西域記」に記述した「先王(先代の王)の建てた伽藍(寺院)」とみられる仏教寺院跡が出土した。

旧政権タリバンが破壊した東大仏跡と西大仏跡のほぼ中間で見つかり、近くの石窟の年代などから5〜6世紀ごろの伽藍と推定される。



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大東西域記に記載された建立物のうち、先王伽藍、大きさ約300メートルとされる涅槃仏、王城の3つが未確認だった。

「幻の涅槃仏」発見に向け貴重な成果で、謎が多いバーミヤン遺跡の全容解明に大きく前進したといえそうだ。

アフガン考古学保護協会のゼマリアライ・タルジ氏(フランスのマルク・ブロック大教授)が率いるチームが発掘した。

伽藍の規模は推定東西300メートル、南北200メートル。

タルジ氏は「規模から考えて先王の伽藍に間違いない。今後、土砂を取り除き幻の涅槃仏発見を目指したい」と話している。



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7世紀にバーミヤンを訪れた玄奘三蔵は大東西域記で、東西大仏建立前から先代の王
が建設した伽藍があったと指摘し「王城の東2、3里の伽藍に仏の涅槃像があり、長さは千余尺」と記述。
涅槃仏は、今回出土した伽藍跡の近くに埋まっているとみられる。

伽藍跡は、約1キロ離れた東西大仏の中間にあるバーミヤンで最も古い5世紀の石窟前で出土。
伽藍を囲む土塀の北西部分のほか、7本の円柱を周囲に配した円形の仏塔(直径2メートル、高さ1メートル)も見つかった。



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バーミヤン遺跡
アフガニスタンの首都カブールの西約240キロにある山岳地帯の仏教遺跡。
東西約1,300メートルの切り立ったがけに約1,000の石窟が並ぶ。
一般に5〜8世紀の造営とされるが、それ以前との説もある。
世界最大級の高さを誇った約38メートルと約55メートルの東西2体の大仏立像は旧タリバン政権が破壊。
国連教育科学文化機関(ユネスコ)が2003年に世界遺産に登録した。(イスラマバード共同)




撮影機材
Kodak DC4800




080819 三笠の旧幌内炭鉱 北海道遺産 立て坑やぐら解体

2018-03-15 20:43:28 | 歴史
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’08/08/19の朝刊記事から


三笠の旧幌内炭鉱 北海道遺産 立て坑やぐら解体
周囲陥没で倒壊の危険


【三笠】北海道遺産にも選定されている、旧北炭幌内炭鉱の入気にゅうき立て坑やぐら(三笠市唐松青山町)の解体作業が、18日始まった。

やぐらは、今年3月に近くの排気立て坑内部が崩壊した影響で破損、所有する建設運輸会社が倒壊の危険性があると判断した。



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やぐらは鉄骨造り高さ約40メートルと国内有数の大きさで、地下には日本一深い約千メートルの立て坑が伸びる。

北端が1967年に建設し、89年の閉山まで、坑内員や外気を地下坑道に入れる施設として使われた。

2001年には、同やぐらを含む空知管内の一連の炭鉱関連施設が、北海道遺産に選定されている。



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今年3月、同やぐらから約150メートル離れた排気立て坑跡の内部が噴煙を上げて崩壊。

地下行動でつながる入気立て坑のやぐらの柱4本などもその衝撃で破損した。

さらに数日後、排気立て坑に隣接する地面が広範にわたり陥没した。

近くには工場や事業所があり、やぐらを所有する岩見沢市の小谷産業は「放置しておけば倒壊の危険がある」と解体を決めた。

作業は9月中に終える。



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道によると、北海道遺産に選定されても解体を止める効力はなく、NPO法人炭鉱やまの記憶推進事業団(夕張)の吉岡宏高理事長は「炭鉱遺産が地域の財産として認識されかけている中で残念」と話している。




撮影機材
Kodak DC4800






080405 天皇陛下の写真、資料 焼却せよ

2013-10-16 20:54:22 | 歴史
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Kodak DC4800

’08/04/05の朝刊記事から

天皇陛下の写真、資料 焼却せよ
敗戦時 海軍が命令 英に暗号解読文書
「戦犯」回避も目的か


1945年に日本が敗戦受け入れを決定した後、旧海軍が天皇の「御真影(写真)」などを含む重要文書類の焼却を命じた通達内容が4日までに、連合国側が当時、日本の暗号を解読して作成された英公文書で判明した。
戦犯訴追に言及したポツダム宣言を念頭に、昭和天皇の責任回避を敗戦決定直後から意識していた可能船をうかがわせる希少な史料という。(ロンドン共同)

関東学院大の林博史教授(現代史)が英国立公文書館で見つけた。

研究者によると、当時の日本軍が出した分書類の焼却命令は現在、旧陸軍関係の原文が防衛省防衛研究所にわずかに残っているほか、米国立公文書館で旧陸軍による命令の要約史料として若干見つかっている。
旧海軍関係の個別命令が原文に近い形でまとまって確認されたのは、今回が初めてとみられる。

発見されたのは、45年8月16日から22日までの間に、東南アジアや中国などで連合国側に傍受された通達で、計35の関連文書のうち天皇関係は4文書。

同17日の第23特別根拠地隊司令官名の命令は「すべての兵器などから(菊花)紋章を外せ」と指示。
第10方面艦隊司令長官は翌18日に御真影、紋章などを神聖なものとして「最大限の敬意を払い、箱に安置」するよう指示し、敵に渡る恐れがある場合は処分を命じた。
21日にはスラバヤの第21通信隊から「御真影は敵の手に渡らないように扱うべし。必要ならばその場で厳粛に火にささげ、海相に報告せよ」と具体的な命令が出ていた。

ほかの焼却命令は、暗号帳や軍艦に関する文書、個人の日記などを細かく指定し、今後の「外交関係に不利となる恐れ」のある文書はすべて焼却するよう繰り返し指示。
通達自体の焼却を命じたものもあった。

重要文書類の焼却は、45年8月の閣議決定などを受け、連合国軍進駐までの約2週間に、政府や旧軍が組織的に実施。
研究者らは、焼却は戦犯訴追回避が目的で,御真影などの焼却も、天皇と軍の密接な関係を可能な限り隠し、天皇の責任が追及されるのを避けようとした可能性もあると指摘している。

元の資料なく貴重
一橋大大学院の吉田裕教授(近現代史)の話

今回の英公文書から、旧海軍が1945年8月の段階で、天皇の戦争責任の訴追回避をかなり意識していたのは確かだと思う。
焼却命令で、天皇の御真影や紋章などに言及した日本語の原史料は残っておらず、重要な発見だ。


英公文書の要旨
▽ 1945年8月16日、第17警備隊より
  1、ポツダム会談の××(判読不明)、帝国は以下の手順で機密文書を処分することになった。
  1、現在使用中の暗号帳、機密文書を除き、すべてを完全に焼却せよ。作戦終了後、残りも完全に焼却せよ。命令了解後、この通達も焼却せよ。
▽ 同、大本営海軍軍令部第三部長より(海軍の)学校長あて
  1、捕虜や尋問に関する全文書は、敵に口実を与えないように、この通達とともにただちに確実に処分せよ。
▽ 同17日、海軍より第9特別根拠地隊あて
  1、軍艦旗、機密に関する本、資料、帳面、日記といった作戦の目的を敵に知らせる恐れがあるものはすべて即刻焼却せよ。この電文を内容理解後すぐに焼却せよ。
▽ 同、第23特別根拠地隊司令官より同隊分遣隊などあて
  1、すべての兵器などから(菊花)紋章を外せ。
▽ 同18日、クパン分遣隊第6警備隊より
  1、わが国の外交関係に悪影響を与える恐れのあるすべての暗号通信文や文書を焼却し、その旨を報告せよ。
▽ 同、第10方面艦隊司令長官より同艦隊などあて
  1、天皇陛下の御真影、勅命、紋章などは最大限の敬意を払い、箱の中に安置せよ。敵に渡る恐れがある場合は処分せよ。
▽ 同21日、スラバヤの第21通信隊より第6警備隊などあて
  1、天皇の御真影と××(判読不能)は敵の手に渡らないように扱うべし。必要ならば、その場で厳粛に火にささげ、海相に電報で報告せよ。



ポツダム宣言
米、英、中国(当時の中華民国)が1945年7月、戦争終結の諸条件を示し、無条件降伏を呼び掛けた宣言。8月にソ連も参加。日本の軍国主義者の除去や軍事占領、主権制限、戦争犯罪人の処罰などを明記し、全13条からなる。

天皇の御真影
大日本帝国憲法で天皇は、「神聖不可侵」とされ、写真は「御真影」「御写真」と呼ばれた。当時の宮内省から各学校などにも交付され、丁重に取り扱うことが求められ、直視を禁じられることもあった。

   


ーーーーーーーー
退却する時あるいは占領された時に、残された国旗や天皇陛下の写真やその象徴である紋章が敵兵によって汚され毀損廃棄されることを想像すれば、どう対処すれば良いと考えるのか。
第一に天皇の戦争責任回避を思い立つのか。

「恐れ」 新聞表記のまま 正しくは「虞」