履 歴 稿 紫 影子
香川県編 私の生家
私の生家は、300年の歴史をもった郷土の旧家であって、明治維新前の幕政時代には、苗字帯刀を許されて居た家柄であったと私は父から聞かされて居る。
また、藤原源氏の末裔であるとも父は言って居た。
私が生家で育ったのは、僅か4歳の春までと言う極めて短い期間、それも幼い時代なので判然とした記憶は無いのだが、郷土の人人からは三町屋敷と呼ばれて居た生家が、四方に白壁の塀を廻らしてあって、俗に歌舞伎門と称して居た、武家屋敷のそれと同じ構造の門が東側にあったのを覚えて居る。
そしてその門をくぐると、右側に廐舎があって、其処には栗毛の駒が一頭飼われて居た。
また左側には、長屋門と称して居た二階建の木造が一棟あって、その二階には、平常あまり使わない諸道具類を、そして階下には家族持ちの使用人を住まわせて居た。
廐舎は1米程、そして長屋門が約2米程外塀から間隔をおいて建てられ居て、長屋門の裏には、若松や椿と言った庭木が植えてあった。
表門から母屋の玄関へは、敷石伝いで可成り隔たって居たが、今にして想えば、30米程ではなかったかと想像して居る。
私は、母屋の間数が幾部屋であったかと言うことは、今に知らないのだが、東西に襖で仕切った二つの座敷が北端にあって、その双方の座敷の縁側から外塀までが、いずれも庭園になっていたことを私は覚えて居る。
併しこの隣合った座敷の広さについては、後日母から教わったのであるが、各各畳を20枚ずつ敷いてあったそうである。
また、表門を這入った所が可成りの広場になって居て、長屋門の北端から母屋の座敷南端へ直線に、外塀と同じ白壁造りの土塀を設けてその広場と、座敷の庭園とを仕切ってあった。
この南側に仕切られて居た広場が、どれ程の広さであったかと言うことは判って居ないのだが、その広場でよく凧揚げをして遊んだことを私は覚えて居る。
東と西に別れた二つの庭園は、東側が松の木を主体に自然林の趣きで造られていて、天然に芽生えた若松の群れに、連抱の老松が、此処や彼処で覆い被されるように枝を拡げて、うっ蒼と茂って居た。
また、そうした松の木の外に、紅葉の木と椿の木が数本と、樹齢が百年を越えていたと言う。
山桃の木も1本あったが、小鳥の群が毎日のように集まっては、その老樹の枝から枝へ囀って居た。
私はまだ幼かったので、季節感と言うものは無かったが、老松の葉裏を縫った陽射に、若松の群が明るい緑となって、紅の紅葉を、そして紅白の椿の花を、その緑の中に浮かせていたことも、その葉陰に、枝もたわわに実らせた真紅の実を、そうした陽射に浴させていた山桃の老樹を、”とても美しいなあ”と思ったことも私は覚えて居る。
また、西側の庭園と言うのは、庭師の手に成ったものであって、縁側から1米程の所には、可成に大きい泉水があった。
そしてその泉水の向側には、趣向を凝らした築山があって、その築山には庭師の手に成ったさまざまな枝振の松が、椿やツツジを混じえて、雅趣に富んだ配置で植えられていた。
その泉水には雅趣に富んだ調和で配分してあった。
巨岩巨石の類はすでに苔むして居たが、延長20米程の瓢箪形であって、その中程の狭ばまった所には、半円の弧を描いた大橋が架かって居た。
また、その大鼓橋を渡った所には、苔むした石灯籠があって築山には、風流なあづま家が在った。
そして黄昏時ともなれば、菜種油を使って、その苔むした石灯籠には灯がともされて居た。
大鼓橋橋畔のそうした雅趣と、四季それぞれに趣を変える築山の風情を水面に浮かべた泉水には、大小の真鯉緋鯉が入まじって、終日、百態を演じて遊泳して居た情景には、幼いながらもしばし恍惚たらしめられるものがあった。
東の庭から西の庭へは、座敷の北端と外壁との間が2米程の芝生地帯になって居たので、自由に往来することが出来た。
また、その芝生地帯には、紫雲英や蒲公英が、その季節ともなれば綺麗な花を咲き競って居た。
西側の座敷から縁伝いの隣室が祖父の居間になって居て、私達親子の居間は西側の外壁から1米程離して南北に建って居た6畳二間の平屋造りであって、俗に其処を部屋と称して居た。
私達親子の居間と母屋とは、部屋の北端から祖父の居間の南端へ直線に幅が約1米程の廊下でつながって居て、西側の庭園をその廊下が仕切って居た。
またその廊下には、左も右も共に上部の70糎程が全区間を吹抜と言った構造になって居たので、その吹抜になっていた所からは、南北双方の景色を眺望することが出来るようになって居たことも私は覚えて居る。
その廊下によって西側の庭園と二つに仕切られていた私達親子の住んでいた部屋と、母屋との間にあった空地にも、家人が、之れならばと言う自信の元に適当に配分をしたものではあったと私は思って居る者であるが、そうした家人の手によって植えられた松の木やツツジの木を一段と高く離した藤棚のあったことも私は覚えて居る。
そしてその藤棚の一株が、間(まま)花(開花?)の季節ともなれば、そよ吹く風に、その藤の花が持っている特徴を存分に生かそうと思って作ったであったろう棚の上から、紫色の花房を垂れ下げてユラユラと揺れている風情を、”とても綺麗だなあ”と幼いながらも思ったことの記憶は、今に残って居る。
以上が私の、生後4歳までを育ったせいかに関する記憶の主たるものである。
撮影機材
Nikon Mew FM2