備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 香川県編 蜂の巣と蝦蟇

2024-09-30 14:18:11 | 国防
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履 歴 稿  紫 影子

香川県編 
 蜂の巣と蝦蟇

 裏の小庭園の築山には、蝦蟇が2、3匹棲んで居た。
そうして日暮時ともなると、泉水の附近や手水鉢の近くによく這い出て来たものであった。

 それは、私がまだ小学校の1年生であった時代のことであったが、或日の黄昏時に、ついぞ見かけない珍しい小鳥が、五葉の松の小枝で囀っているのを発見したので、「ウム、珍しい小鳥が居るぞ」と、密っと近くへ忍び寄ったのだが、それと気付いたものか、パッと小枝を蹴って夕焼けの空へ飛んで行ったので「ヤァ失敗してしまった」と、思わずつぶやいた私ではあったが、その時その小鳥が飛び立った小枝に蜂の巣がぶら下がっているのを発見した。
 丁度その頃が、蜂が巣に帰る時刻であったものか、巣の周辺には多数の蜂が群がって居た。
 と、そのうちの1匹がスーッと垂直に急速度で下へ落ちたので、”奇怪だな”と思った私の目は、その落ちていった蜂のあとを追った。

 その時の私は思わず「ハッ」と息を呑んだ。
 と言うことは、その蜂の落ちて行った所で私の目が、世にも不思議な事態を見たからであった。


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 その蜂が落ちて行った所には、大きな蝦蟇が口を開いて待って居た。
 そうして落ちて来た蜂を一呑みにした蝦蟇が、再び口を開いて”パカッ”と言う微かな音をたてると、またその蝦蟇の口に新しい蜂が1匹落ちて来たのであった。

 その日までの私は、蝦蟇をとても可愛いと思って居たので、蝦蟇が這い出てくる日暮時ともなれば、きまって縁側で、その這い出てくるのを待って居たものであった。

 併し、その日からの私は、蝦蟇をとても憎んだ。
 何故かと言うと、それは偶然と言えば偶然の出来ごとであったかもしれないが、生きんがための餌を求めて、終日花から花へ飛び回った蜂が、働き疲れて憩いの我が巣へ帰り着いたものを、無惨にも吸い込むように呑み込んで蝦蟇が餌食としたことが、少年の日の私に怒りを感じさせたからであった。

 そうした私は、その翌日からは日暮時に縁側に立って蝦蟇を待つことを止めた。


撮影機材
 Nikon New FM2


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履歴稿 香川県編 丸亀の新居

2024-09-30 11:43:16 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子

香川県編
  丸亀の新居

 丸亀市へ転居した父母と私と言った3人が引越した新居は、殆んど市の郊外に近い所に在って、その家の玄関を通り過ぎて左へ30米程行った所が、丸亀歩兵第12連隊の練兵場になって居た。

 しかし、その練兵場の面積がどの位の広さであったかと言うことについては、全然判って居ない私ではあるが、相当広い練兵場であったなと今に思って居る。
 私達家族が引越した新居は、明治維新前には丸亀藩の武家屋敷であった所であって、6畳間が2室と8畳間が2室、そして10畳間が1室に台所と言った間取で西向きに建てられて居た。
 また裏には土塀を廻らしてあった。



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 私達の家族は、その家に3年程住ったのだが、玄関から裏口へは土間続きで通り抜けられるようになって居て、玄関を這入った所の土間の広さが1坪であったように記憶をしている。

 また間取の状態はと言えば、玄関を這入った土間の左側に6畳間があって、その右隣が同じ6畳の茶の間であった。
 そうして、母と私の居室であった8畳間は、この茶の間の奥に在って、台所は、茶の間の右に隣っていた。

 そして、玄関から裏口へ通り抜けられる土間は、この台所が喰み出て居たので、私達が1人辛うじて通り抜けられる程度にまで狭められて居た。



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 玄関の6畳間の奥には、もう一つの8畳間があって、その右に隣った東向きの10畳間が父の居室であった。

 父の居室の縁側から家の裏側に廻らしてある土塀までの間に在った30坪程の面積が、小規模ながら一応庭園の様相を形造って居て、其処には、奇岩巨石を配した築山と泉水があった。

 父の居室は、縁側から這入った右側に1間の床の間があって、その左隣が1間の違い棚になっていたが、その違い棚の上部と下部の文庫戸棚には、江戸時代の田園風景を描いた小襖を使ってあった。



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 また、その居室と縁側との境には、幼ない私にも”綺麗だなあ”と思わせた障子を使ってあったが、床の間からの1間には細い竹を風流に編んであった円形の窓を中央に、そしてその周辺をキラキラと光る砂状のものをチリバメた黒色の壁になって居た。

 また、上部の欄間には天女の彫刻がしてあった。

 私と母の居間は、他の各室よりも2尺程高くなって居たので、茶の間からと、そして父の居室からの出入りには、それぞれ踏段が設けてあった。

 父の居室から私と母の居室へは、縁側を右に突当たった所に私達母子の居室に隣った茶の間の壁があって、其処を左へ曲がって踏段を上がると、其処は縁側になって居た。
 そしてその縁側と私達の居室との境には、父の今のそれと同じように凝った障子が使われて居た。



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 また、縁側には欄干が設けてあった。
そしてその縁側の真下にあった泉水には、機種類かの小さな金魚が、いつも楽しそうに泳いで居た。

 父の居室から縁側を左へ2米ほど行った所に、御影石で造った古風な手水鉢があって其処に一株の南天が植わっていた。

 この南天の木は、その結実の季節ともなれば、真紅の実を沢山つけてとても美しかった。

 また正面の築山には、亭々と他の樹木を凌駕した1本の五葉の松があって、その五葉の松と、他の赤松や黒松、そして椿、ツツジと言った木々や、苔むした奇岩や巨石との調和がとても雅趣に富んで居たので、狭いながらも、風情豊かな庭園であったと、後年の父がよく口にして居た。


撮影機材
Nikon New FM2
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履歴稿 香川県編 転 居

2024-09-28 19:20:36 | 国防
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            履 歴 稿  紫 影子

香川県編 転 居

 私は、4歳の春に父母と共に丸亀市へ転居をした者ではあるが、父はこの転居について、その履歴稿に、
 1、明治39年5月27日、香川県丸亀市土居町へ転居す。
と、記録をして居る。

 当時4歳であった私には、何故転居をしなければならなかったのか、と言う詳しい事情は知るよしも無かったが、成年後の私が、父母から聞かされた内容によると、私の祖母が他界をした以後に、家庭内の複雑な事情や災厄が累積したので家運が大きく傾いて、”嫁に行くなら豊穣の加茂へ、加茂は上水米所”と、郷土の人々が歌った上水地域の地主であった私の家も、遂に倒産をすると言う逆境に転落をしたので、祖先伝来の田地田畑と、300年来の由緒を誇った三町屋敷をも人手に渡して、悄然と丸亀市に転居をしたと言うことであった。



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履歴稿 香川県編 私の生家

2024-09-28 16:41:44 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子

香川県編 私の生家

  私の生家は、300年の歴史をもった郷土の旧家であって、明治維新前の幕政時代には、苗字帯刀を許されて居た家柄であったと私は父から聞かされて居る。

 また、藤原源氏の末裔であるとも父は言って居た。

 私が生家で育ったのは、僅か4歳の春までと言う極めて短い期間、それも幼い時代なので判然とした記憶は無いのだが、郷土の人人からは三町屋敷と呼ばれて居た生家が、四方に白壁の塀を廻らしてあって、俗に歌舞伎門と称して居た、武家屋敷のそれと同じ構造の門が東側にあったのを覚えて居る。 

 そしてその門をくぐると、右側に廐舎があって、其処には栗毛の駒が一頭飼われて居た。 

 また左側には、長屋門と称して居た二階建の木造が一棟あって、その二階には、平常あまり使わない諸道具類を、そして階下には家族持ちの使用人を住まわせて居た。 

 廐舎は1米程、そして長屋門が約2米程外塀から間隔をおいて建てられ居て、長屋門の裏には、若松や椿と言った庭木が植えてあった。




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 表門から母屋の玄関へは、敷石伝いで可成り隔たって居たが、今にして想えば、30米程ではなかったかと想像して居る。

 私は、母屋の間数が幾部屋であったかと言うことは、今に知らないのだが、東西に襖で仕切った二つの座敷が北端にあって、その双方の座敷の縁側から外塀までが、いずれも庭園になっていたことを私は覚えて居る。

  併しこの隣合った座敷の広さについては、後日母から教わったのであるが、各各畳を20枚ずつ敷いてあったそうである。 

 また、表門を這入った所が可成りの広場になって居て、長屋門の北端から母屋の座敷南端へ直線に、外塀と同じ白壁造りの土塀を設けてその広場と、座敷の庭園とを仕切ってあった。 

 この南側に仕切られて居た広場が、どれ程の広さであったかと言うことは判って居ないのだが、その広場でよく凧揚げをして遊んだことを私は覚えて居る。 

 東と西に別れた二つの庭園は、東側が松の木を主体に自然林の趣きで造られていて、天然に芽生えた若松の群れに、連抱の老松が、此処や彼処で覆い被されるように枝を拡げて、うっ蒼と茂って居た




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 また、そうした松の木の外に、紅葉の木と椿の木が数本と、樹齢が百年を越えていたと言う

 山桃の木も1本あったが、小鳥の群が毎日のように集まっては、その老樹の枝から枝へ囀って居た。 

 私はまだ幼かったので、季節感と言うものは無かったが、老松の葉裏を縫った陽射に、若松の群が明るい緑となって、紅の紅葉を、そして紅白の椿の花を、その緑の中に浮かせていたことも、その葉陰に、枝もたわわに実らせた真紅の実を、そうした陽射に浴させていた山桃の老樹を、”とても美しいなあ”と思ったことも私は覚えて居る。 

 また、西側の庭園と言うのは、庭師の手に成ったものであって、縁側から1米程の所には、可成に大きい泉水があった。

 そしてその泉水の向側には、趣向を凝らした築山があって、その築山には庭師の手に成ったさまざまな枝振の松が、椿やツツジを混じえて、雅趣に富んだ配置で植えられていた。 

 その泉水には雅趣に富んだ調和で配分してあった。 

 巨岩巨石の類はすでに苔むして居たが、延長20米程の瓢箪形であって、その中程の狭ばまった所には、半円の弧を描いた大橋が架かって居た。




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 また、その大鼓橋を渡った所には、苔むした石灯籠があって築山には、風流なあづま家が在った。 

 そして黄昏時ともなれば、菜種油を使って、その苔むした石灯籠には灯がともされて居た。  

 大鼓橋橋畔のそうした雅趣と、四季それぞれに趣を変える築山の風情を水面に浮かべた泉水には、大小の真鯉緋鯉が入まじって、終日、百態を演じて遊泳して居た情景には、幼いながらもしばし恍惚たらしめられるものがあった。

 東の庭から西の庭へは、座敷の北端と外壁との間が2米程の芝生地帯になって居たので、自由に往来することが出来た。 

 また、その芝生地帯には、紫雲英や蒲公英が、その季節ともなれば綺麗な花を咲き競って居た。




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 西側の座敷から縁伝いの隣室が祖父の居間になって居て、私達親子の居間は西側の外壁から1米程離して南北に建って居た6畳二間の平屋造りであって、俗に其処を部屋と称して居た。

 私達親子の居間と母屋とは、部屋の北端から祖父の居間の南端へ直線に幅が約1米程の廊下でつながって居て、西側の庭園をその廊下が仕切って居た。 

 またその廊下には、左も右も共に上部の70糎程が全区間を吹抜と言った構造になって居たので、その吹抜になっていた所からは、南北双方の景色を眺望することが出来るようになって居たことも私は覚えて居る。

  その廊下によって西側の庭園と二つに仕切られていた私達親子の住んでいた部屋と、母屋との間にあった空地にも、家人が、之れならばと言う自信の元に適当に配分をしたものではあったと私は思って居る者であるが、そうした家人の手によって植えられた松の木やツツジの木を一段と高く離した藤棚のあったことも私は覚えて居る。

 そしてその藤棚の一株が、間(まま)花(開花?)の季節ともなれば、そよ吹く風に、その藤の花が持っている特徴を存分に生かそうと思って作ったであったろう棚の上から、紫色の花房を垂れ下げてユラユラと揺れている風情を、”とても綺麗だなあ”と幼いながらも思ったことの記憶は、今に残って居る。

 以上が私の、生後4歳までを育ったせいかに関する記憶の主たるものである。

  撮影機材
    Nikon Mew FM2


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香川県編 出生

2024-09-26 19:50:18 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子


香川県編
 出 生

 私の出生を、父はその履歴稿に
  1、明治35年2月7日午前7時、男子(二男)出生、義章と命名す。
  産婆、鴨の庄の住、藤井時蔵の妻・ムメ
  と記録している。



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私の父

 私の父は長男であって、その出生を履歴稿に、
  1、明治9年1月11日、綾歌郡加茂村字鴨232番戸に生る。
  父 小三太  母 コムメ
 と記録している。
     注・加茂村は現在の坂出市加茂町

 父は明治25年の3月28日に、現在は市政であるが、その当時は町政であった香川県坂出高等小学校を卒業して、その年の5月に愛媛県尋常中学校(別に校名があったろうと思うが、父の履歴稿には、このように記録していある)に入学したのだが、翌26年の2月に中途退学をしている。

 父は、その中途退学の理由を、病弱であった慈母の病状が悪化したので呼び戻されたので、事情止むを得ないものがあったのだが、その当時は残念でたまらなかったと、その当時を回想しては、時折、私達子供等に聞かせていた。

 中途退学をして帰郷をした父が、母と結婚するまでの履歴稿には、次のような事項が記録されている。

  1、明治26年4月、天満宮に於て郷友と共同し、素人芝居を奉納す。
    自分その俳優の1人たり。
  1、同年5月、氏神祠前に於て、右芝居を方のせり。
  1、同年7月30日(旧6月18日)、慈母永眠されたり。
  1、明治27年4月6日より、加茂村尋常小学校に教員として奉納す。
   1、同年5月31日(旧4月27日)妻を娶る。



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私の母

  私の母は明治10年生れの人であって、讃岐富士と称されて居る飯野山の麓に近い、綾歌郡法勲寺村と言う所に店舗を構えて、肥料問屋を営んで居た福井家の長女であったが、その資性は、温厚貞淑な人格の中に、強い忍耐力と克己心の持主であった。



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父と素人芝居

 父は7歳の時から大学に始まった四書五経と言う漢学を学んだ、と言うことを、その履歴稿に記録をして居るが、その影響によったものか、性格がきわめて謹厳且実直な人であった。

 しかしその面、生花と茶の湯の免許を持って居て雲溪と号して居た。

 また、琴、三味線、尺八と言った音曲にも長じて居て、訪問客と盃を交す酒宴の席で、尺八の吹奏をしたり、口三味線や手拍子に合せて舞い踊る父の姿を、少年の日の私はしばしば見ている。

 そうした父が、郷友と共演をしたと言う奉納芝居の役柄は、富士の裾野で仇討をした、曾我十郎の役であったらしかった、と言うことは物心ついた5、6歳頃からの私は、自宅で催した酒宴の席で、宴が酣ともなれば、来訪の友人達から「春駒の兄弟を是非」と言って所望されると、千鳥足の父が、十郎の所作と声色で宴席を賑わして居たことが、未だに判然と私の記憶に残って居る。

  とにかく私の父と言う人は、謹厳実直であった反面に、巷間俗に言う通人でもあったらしかった。



撮影機材
  Nikon FA
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