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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の2

2025-01-29 15:26:10 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の2
 
 その頃愛奴の人達が着て居た衣服は、壮年以下の者は我々和人と同じ服装をして居たのであったが、老人のそれは和人の人達が着て居た物よりも遥かに立派であったように思えた。と言うことは、その人達が着て居た衣服が、藍色の特殊な模様を織り込んだ布を、和人の言う「あっし」に仕立た物を着て居たからであった。
 
 婦人も五十年輩の人達の髪形は、男子のそれと同じように肩までの長髪であったが、婦人は紫色に染めた布で鉢巻をして居た。
 
 私は次郎の兄弟のことについては、詳かでは無いのであるが、彼の兄に八郎と言う、当時既に青年に近い人が居たことを覚えて居る。そしてその八郎と言う兄の他にも兄弟が居たようではあったが、私にはその人達の事は何も判って居ない。
 
 私の記憶に残って居るのは、始めて訪れた私を彼の両親が、昔ながらの服装でとても喜んで迎えてくれたことであった。
 
 「綾井さんのニシュパ(愛奴語であるが、旦那と言う意味)は未だ逢ったことが無いのだが、うちの次郎が皆からとても可愛がって貰って居るんだってなぁ。今日は俺のうちでもうんとご馳走をするから、次郎とゆっくり遊んで行ってくれや。」と彼の父は、とても嬉しそうに私の頭を撫でてくれた。
 
 その時次郎が横合から、「義章さん、お前馬に乗ったことあるか。」と突然私に呼びかけた。
 
 
 
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 「いや、俺はなぁ、馬には未だ一度も乗ったことが無いんだよ」と、私が答えると、「そうか、それなら今日は二人で馬に乗って遊ぶことにするか。」と、次郎が言ったのだが、次郎の家には厩舎らしい建物が見当らないので、私が「オイ、お前とこの馬は何処に居るんだ。」と不審に思って尋ねると、ニコッと笑った次郎が、「心配するな、俺について来い。」と言って次郎が、土間へ降りて表へ出たので、私はその後に続いた。
 
 次郎の家から更に五十米程行った所に、当時としては立派と言える構えをした柾葺の家の裏に在った厩舎に次郎は、私を連れて行った。
 
 「小石川のニシュパ、俺は次郎よ、役場のなぁ、綾井さんの子供がなぁ、今まで一度も馬に乗ったことが無いんだとよ。その子供がよ、今日俺の家さ遊びに来たんだよ、だからこれから一緒に乗って遊びたいんだ。農用の鹿毛を一寸貸してけれや。」と裏口から呼びかけると嘗ては、この辺の酋長であったと言う老人で小石川トノサムクと言う人が出て来て「そうか綾井さんのセカチ(愛奴語であって子供と言う意味)か、うちの鹿毛はおとなしい馬だけどなぁ、次郎、お前気をつけて行けよ、怪我をさすなよ。」と言いながら、馬の準備を整えてくれた。
 
 小石川老人が引き出して来た馬は、当時農用と一口に言って居たのだが、とても肥満体の馬であった。
 
 次郎は巧みな手練でたて髪を摑むと、いとも鮮かに馬上の人となったのだが、私には幾度試みても、馬の背には乗れなかった。
 
 そうした私を、傍で見て居た小石川老人が、見るに見かねて私を馬の背へ抱きあげてくれた。
 
 「次郎、お前はあまり馬を飛ばすなよ。それから綾井さんのセカチよ、お前はしっかり次郎に摑って居るんだぞ。」と私達二人に忠告をする小石川老人の声をあとに乗鞍の無い裸馬の背上の私達二人は、似湾沢に通ずる神社前からの道に出て鵡川川の渡船場へ、次郎が馬を進めた。
 
 
 
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 「次郎、お前何処へ行くつもりよ。」と言う私に、「似湾沢さ行って、イチゴ食ってくるべや。」といった次郎は、ポンと軽く馬腹を蹴った。
 
 馬は次郎の合図でパカポカと駆け出したが、馬に始めて乗った私は、馬の駆ける反動に、ポンポンポンと弾機仕掛の人形のように、馬の背で踊って今にも振落されそうなので、必死と次郎の腰にしがみついて居た。
 
 「オイ次郎、俺なんだか腰が落着かないので落ちそうな気がするんだが、大丈夫だろうか。」と言う私に「何を言って居るんだい。大丈夫だよ、俺もなあ始めはそうだったのだが、すぐ何とも無くなるよ。ビクビクしないで俺にしっかり摑まって居れよ。」と平気で言い放った彼は、「チッチッ」と口を鳴らしては、軽く馬腹を蹴って馬を追い続けた。
 
 「義章さん、それでは駄目だ、体全体の力を抜くんだ。そうして両足をだらりとするんだ。」
 
 「まだ駄目だ、もっと肩の力を抜けよ。」
 
 「足がまだ堅いぞ、俺のようにぶらん、ぶらんにすれよ。」と熱心に、適時に適切な注意を次郎がしてくれたので馬が、一粁程走った頃には、それまでポンポンと馬の背に尻が弾んで居た、私の馬上踊りは止んだ。
 
 「オイうまくなったなあ。もう大丈夫だぞ。馬に乗ることを覚えるのはなあ、裸馬から馴れるのが一番良いんだぜ、裸馬に乗れるようになったら鞍掛馬なんか屁の河童さ。」と次郎が言った時に私達は、渡船場に着いた。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編 古雑誌と次郎 7の1

2025-01-26 20:11:14 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の1
 
 私が、似湾村に移住をしてから、その頃までに親しくなった友人は、未だ五人程しか居なかったが、その中に私より学級が二学級遅れた四年生の中に、愛奴の少年で布施次郎と言う、とても親しい少年が居た。
 
 私達が北海道へ移住をした当時の制度では、愛奴の少年少女の入学年齢が、私達和人よりも一年遅れて居た。
 
 当時は、年齢の数え方が現在のそれとは違って生れた年を一年に数える制度であった、従って、八年目の春には皆入学をすることになって居た。
 
 併し、一月元旦から三月末日までに生まれた者は、早生れと称して七年目の春に入学をするようになって居た。従って、二月七日に生れた私は、七年目の春に入学をしたのだが、遅生れの次郎は和人よりも一年遅れると言う制度によって九年目に、入学をしたと言うことが、私よりも二学級遅らせて居たのであった。
 
 その次郎は、私によくこんなことを言って居た。
 
 「義章さん、お前は和人に生れて良かったなぁ、俺は愛奴だもんなぁ。いくら頑張っても和人にはなれないもんなぁ。」と、しょげて居た。併し彼は、ポチャポチャとした円顔の可愛い顔をした少年であって、当時濁音の発音が不明瞭であった愛奴族としては、立派にその発音の出来る少年であったので、方言の多い讃岐弁の私より遥かに聞き易い標準語であった。
 
 その当時の似湾村には、雑誌類を取扱って居る店が一軒も無かった。従って、生徒で雑誌を読んで居た者は、高松戸長の三男坊と私の二人きりであった。
 
 
 
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 その高松戸長の三男坊であった獅郎君とは、前にも書いたように同じ机で席を同じうして居たので、お互が話し合っては、彼の「少年倶楽部」と、私の「日本少年」を交換しあって読んだ。
 
 私の「日本少年」は、本社から直送、高松君の「少年倶楽部」は、当時札幌駅に勤務をして居た米治さんと言う長兄から送ってくるのであった。
 
 雑誌と言うものを全然知らない生徒達は、私と高松君が、授業の休み時間中に読んで居た雑誌には、これまた全然無関心であったが、次郎はとても読みたがって私達二人が、読んで居る傍に来ていつも覗き込んで居た。
 
 そうした次郎に或日、私が「次郎、お前雑誌欲しいか。」と言うと、彼は「ウン、俺も読みたいなぁ。」と言ったので、その翌日、古い雑誌を五冊、彼に与えるととても喜んだので、その後自分が読み終ったものを彼にやることにした。
 
 次郎は、私の家が下似湾の学校の傍に在った時には、一度も遊びに来なかったのだが、市街地の吏員住宅に移ってからは、時折り遊びに来るようになって居た。
 
 その日は私が薯蒔をした日曜日のことであったが、「もう帰って、晩ご飯の支度をしなければならないから、今日はこれ位にして、サア皆帰りましょう。」と母に促されて、私と弟の三人が家に帰ったのは、午后の四時頃であったが、その時私の帰りを次郎が表で待って居た。
 
 「次郎、お前いつ来たんよ。」と、私が呼びかけると「ウン、俺一時間位待ったわ。」と言って、次郎はニコッと笑ったが、私の肩から鍬を取って、裏の物置まで彼が持ってくれた。
 
 「オイ義章さん、畑はどの位作って居るのよ。」と次郎に言われて「ウン、二反歩位あるんだ。」と私は答えた。
 
 「そうかそんなにあるんか、それぢゃお前大変だなぁ。よし、そんなら俺これから毎日手伝ってやるから、畑をやる時学校で俺に話してくれや。」と彼は親切に言ってくれた。
 
 
 
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 そうした次郎は、その翌日から毎日のように私の畑仕事を手伝ってくれた。
 
 小出さんの畑も、一応種蒔が終った或日私は、始めて次郎の家に遊びに行ったのだが、次郎の家は郵便函の在る山岸さんの店の向って左の角を斜に曲って神社前から似湾沢への丁字路に抜けて居る細道を約五十米程行った右側に在って、同じ造りの葭葺の家が、四米程の間隔で五軒程が並んで居た中程の家で在った。
 
 家の構造は、四方を葭で囲った堀建造りであって、玄関を這入ると家の内部は、三尺程の土間から直接上がるようになって居る十畳敷程の部屋が一部屋しか無かった。そして玄関の這入口には三尺の板戸があったが、土間から部屋へは仕切りがして無かった。
 
 玄関を這入った正面に土間から直接土足で踏み込める、囲炉裏が在ってその囲炉裏で燃やす薪の煙に燻った天井の無い梁の全体が黒く光って居た。
 
 部屋には明り取りの窓が一つあったが、一、五米程の高い所に硝子の這入て居ない五十糎米平方程の物が、吹抜になって南側の中程に在るだけであった。
 
 家屋その物は、とても薄暗い家ではあったが、彼の家庭内の雰囲気は、とても明朗な明るい家であった。
 
 その当時愛奴の人達は、その年輩が五十歳以上と思われた男子は、肩までの長髪を伸して居て、鼻下から頬、そして顎に、長々と鬚を伸して居たものであった。
 
 また女の既婚者は、口唇の周辺と手首に一見毒々しいものに見える入墨をして居た。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の6

2025-01-06 20:09:08 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の6
 
 当初私は、「弟の奴、何故あんなことをするのかな。」と不審に思って見詰めて居たのであったが、そうした私の目が其処に意外な光景を捕えたので、「ウム、そうだったのか。」と頷けたのであった、併しその光景があまりにも珍無類と言う滑稽なものであったので、私は思わず吹き出してしまった。
 
 その珍無類の光景と言うのは、「こん畜生」と弟に怒鳴られて居るのが、何んと二羽の烏では無かったか。
 
 私が、その根元に薯種を置いてある太い切株の上には、弟が背負って来たお握り弁当を包んだ風呂敷包が置いてあった。
 
 それが雌雄の烏であったかも知れないが、その風呂敷を二羽で喰えて、飛び去ろうとして居るのを弟が、柳の木で根元の大地を叩いては、怒鳴って居たのであった。
 
 
 
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 その頃の烏は、郷人に懐いて居た。何故そうした状態にあったかと言うことを今にして想えば、次の諸条件であったように想う。
 
 その当時の似湾村は、山と言う山がいづれを見ても、斧釿を知らない原始その儘の姿であった、そして平地にもそうした状態の森林がうっ蒼として所々に点在して居た時代であったから、川雑魚、木の実、虫類、小鳥の雛等を常食として居た烏は、その日その日の餌食に不自由をしなかったので、村の農作物を荒すと言うことが、至極稀であった。
 
 それはそうした実態がそうさせたものと思うが、私達少年が、烏を追っかけたり、その巣を襲って仔烏を捕えようとする行動を大人の人達は叱ったものであった。
 
 その日の弟が、直接烏を叩かないで足下の大地を叩いて怒鳴ったのもそうした郷人のありかたが、そうさせたと今の私は思って居るが、若しあの時の弟が、今一歩踏み込んで直接烏を叩いたならば、勿論烏は風呂敷包のお握り弁当を諦めて飛び去ったではあろうが、弟のような幼年期の子供が、よしんばそれが真剣なものであっても烏としては、一種の戯れでないかと思ったのではないかと、現在の私は想像をして居るのだが、弟の叩く柳の木が、切株の根元の大地に音をたてると、羽搏きはこそするが、烏は切株からは離れなかった。
 
 
 
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 二羽の烏が、切株から飛び立てなかった理由には、こうしたことがあったのでないかと現在の私は思って居る。それは二羽の烏が、風呂敷包を右と左から向い合って喰えて居たことであった。その結果として羽搏いても羽搏いてもお互いが引張合をすることになるので飛び上れなかったのだろうと言うことであるが、その時の光景は、弟が足下の大地を叩く、烏が切株の上でバタバタと羽搏く、弟がそうした烏をじっと見て居ると、烏が羽搏きを止めて風呂敷包を喰え直す、すると弟が、また足下の大地を叩く、と言う場面を繰返して居る弟と烏の握り飯争奪戦が、あまりにも滑稽であったので、「ハハハハハ」と私は腹を抱えて笑った。
 
 私の笑い声が、あまりにも大きかったので、それまで青豌豆の種蒔に専念して居た母が顔を上げて、弟と烏のそうした争いを見ると「シッ、シッ」と烏を追う口を鳴らしながら弟の傍へ、駆け寄って行った。
 
 それまで弟が、柳の木を振り廻して迫る、風呂敷包の争奪戦を繰返して居た烏は、子供の弟に大人の母が応援をすると言う、始めての経験に風呂敷包を諦めて仔烏が、待って居るであろう林の奥へ、「カア・カア」と啼きながら飛んで行った。
 


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履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の5

2025-01-06 19:42:07 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の5
 
 その時の弟と私の距離は、二十米程しか無かったのだが、周章た弟は、その途中で二、三度転倒をしたのだが彼は起きあがり、起きあがり、夢中になって駈け寄って来た。
 
 当時の似湾では、洋服を着て居る者と言えば、役場吏員の一部、教員・巡査・森林看守・医師と言った人達に限って居て、その他の者は凡てが和服に下駄履或は草鞋履と言った服装であった。
 
 従ってこの日の私達母子は当然和服姿であった。
 
 私と母は、高丈とも言ったし、また地下足袋とも言って居た物を履いて居たのだが、当時六歳の弟は下駄履の姿であった。
 
 弟は、最初に転倒した所で下駄を脱ぎ捨てて足袋裸足になって駈け寄って来たので、「義憲、裸足はいかん、危いから下駄を履いて来い。」と私が注意をするのを、彼は素直に「ウン」と頷いて、その場所へ駆けて行った。
 
 
 
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 私は、柳の木の馬に寄せる弟の関心を煽るのを目的に、下駄を履いて一心に駆け戻った彼を尻目に、「ヒヒン、ヒヒン」と嘶きを真似ながら、更に勢をつけて土塊を打砕いた儘になって居る、略正方形の一反歩に近い耕地を、或時は大きく、また或時は小さく、円を描いて巻乗の要領で駆け廻った。
 
 そうした私は、今は半ば泣声の弟が、「兄さんくれよ、馬をくれよ。」と喚きながら、幾度か転倒しながらも、必死になって追っかけて来た。
 
 そうした弟の喚き声に、豌豆を蒔く手を休めて腰を伸ばした母が、「義章、もうそんなにセカサないで、義憲にやりなさい。」と私を窘なめたので、潮時や良しと、「それ義憲」と弟を手招いて私は柳の木の馬から下りた。
 
 
 
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 そうした私は、「ハア、ハア、ハア」と息せき切って駆寄って来た弟にその柳の木の馬を手渡した。すると弟は「兄さん、有難う。」と軽く頭を下げたのだが、それまで嫌と言う程にセカされて居たのでいらだって居たものか、私の手からひったくるように捥ぎ取った、その柳の木の馬に早速打跨って堀返された畑に散らばって居た笹の根茎の中から鞭に手頃の物を一本拾うと、一鞭当てて「ヒヒン」と一声高々と嘶きを真似ると、大地を蹴って次弟は一目散に駆け出した。
 
 
 
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 それは、それから一時間程過ぎた時のことであったが、それまで「ヒヒン、ヒヒン」と喜こんで、駆け廻って居た弟が、「こらっ、こん畜生、この野郎。」と突然怒鳴り始めたので、そうした弟の怒号の声を聞いた私は、「義憲の奴、今度は何をやって遊んで居るのかな。」と薯蒔きの腰を伸して怒号する弟に目をやると、弟は馬齢薯の種を置いてある、一番大きい切株の側で、それまでは馬にして喜んで遊んで居た柳の木を振りかざして喚いて居たのであった。
 
 その時の私は、おかしなことをやる奴だなと思ったので、なおも弟の行動を見守って居ると、弟は振りかざした柳の木で足下の大地をバシッと叩いては、「こん畜生」と怒鳴って居るのであった。
 


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