履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
私の弟と烏 6の6
当初私は、「弟の奴、何故あんなことをするのかな。」と不審に思って見詰めて居たのであったが、そうした私の目が其処に意外な光景を捕えたので、「ウム、そうだったのか。」と頷けたのであった、併しその光景があまりにも珍無類と言う滑稽なものであったので、私は思わず吹き出してしまった。
その珍無類の光景と言うのは、「こん畜生」と弟に怒鳴られて居るのが、何んと二羽の烏では無かったか。
私が、その根元に薯種を置いてある太い切株の上には、弟が背負って来たお握り弁当を包んだ風呂敷包が置いてあった。
それが雌雄の烏であったかも知れないが、その風呂敷を二羽で喰えて、飛び去ろうとして居るのを弟が、柳の木で根元の大地を叩いては、怒鳴って居たのであった。
その頃の烏は、郷人に懐いて居た。何故そうした状態にあったかと言うことを今にして想えば、次の諸条件であったように想う。
その当時の似湾村は、山と言う山がいづれを見ても、斧釿を知らない原始その儘の姿であった、そして平地にもそうした状態の森林がうっ蒼として所々に点在して居た時代であったから、川雑魚、木の実、虫類、小鳥の雛等を常食として居た烏は、その日その日の餌食に不自由をしなかったので、村の農作物を荒すと言うことが、至極稀であった。
それはそうした実態がそうさせたものと思うが、私達少年が、烏を追っかけたり、その巣を襲って仔烏を捕えようとする行動を大人の人達は叱ったものであった。
その日の弟が、直接烏を叩かないで足下の大地を叩いて怒鳴ったのもそうした郷人のありかたが、そうさせたと今の私は思って居るが、若しあの時の弟が、今一歩踏み込んで直接烏を叩いたならば、勿論烏は風呂敷包のお握り弁当を諦めて飛び去ったではあろうが、弟のような幼年期の子供が、よしんばそれが真剣なものであっても烏としては、一種の戯れでないかと思ったのではないかと、現在の私は想像をして居るのだが、弟の叩く柳の木が、切株の根元の大地に音をたてると、羽搏きはこそするが、烏は切株からは離れなかった。
二羽の烏が、切株から飛び立てなかった理由には、こうしたことがあったのでないかと現在の私は思って居る。それは二羽の烏が、風呂敷包を右と左から向い合って喰えて居たことであった。その結果として羽搏いても羽搏いてもお互いが引張合をすることになるので飛び上れなかったのだろうと言うことであるが、その時の光景は、弟が足下の大地を叩く、烏が切株の上でバタバタと羽搏く、弟がそうした烏をじっと見て居ると、烏が羽搏きを止めて風呂敷包を喰え直す、すると弟が、また足下の大地を叩く、と言う場面を繰返して居る弟と烏の握り飯争奪戦が、あまりにも滑稽であったので、「ハハハハハ」と私は腹を抱えて笑った。
私の笑い声が、あまりにも大きかったので、それまで青豌豆の種蒔に専念して居た母が顔を上げて、弟と烏のそうした争いを見ると「シッ、シッ」と烏を追う口を鳴らしながら弟の傍へ、駆け寄って行った。
それまで弟が、柳の木を振り廻して迫る、風呂敷包の争奪戦を繰返して居た烏は、子供の弟に大人の母が応援をすると言う、始めての経験に風呂敷包を諦めて仔烏が、待って居るであろう林の奥へ、「カア・カア」と啼きながら飛んで行った。