コンビニで朝食をとってからは、ふたたび岡崎公園に戻りました。
先ほどはスルーした神橋を渡り、この日最初の城・岡崎城へ登城します。
神橋から1分もかからず、天守に到着しました。
天守前には、亀が背負う「東照公遺訓碑」が立っています。
「東照公」とは徳川家康の神号です。(正しくは「東照大権現」)
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
急ぐべからず
岡崎城で生まれ、今川義元のもとでの人質生活、織田信長への従属、豊臣秀吉への臣従。
忍耐を重ね、ついに天下人となった家康その人が、その半生を振り返って語ったものと言われていますが、じつは偽作とされています。
この言葉は、家康の孫にあたる徳川光圀の遺訓がもとになっているそうです。
天守前にはさらに、「東照公遺訓碑」とはまた別の家康公遺言の碑や、小説『徳川家康』記念碑もあり、なんだか盛ってるかんじもします。
なお、天守の脇には、徳川家康と「徳川四天王」のひとり・本多忠勝を祀る龍城神社が鎮座しています。
天守は午前9時に開くということなので、岡崎公園内を散策することにしました。
徳川家康は、岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生しました。
東照公えな塚。
母・於大の方の胎内にあって、家康を護っていた胎盤とへその緒。
これらの“えな”を埋めたところがこの場所なのだそうです。
古来日本には、えなを地中に埋めてその子の成長を祈願する風習があったそうです。
この井戸は東照公産湯井。
家康は出生のさい、この井戸で汲まれた産湯につかったといいます。
徳川家康は、能を舞うことをひとつの趣味としていたそうです。。
岡崎城に能舞台があったわけではないのですが、家康が趣味としていたってことで、このような能舞台が設営されています。
この日は特に開演はありませんでしたが、先客がおひとりいらっしゃいました(*^_^*)
さてここからは、岡崎城内にある銅像・石像コーナー。
家康しかみ像。
家康が数え年31歳、元亀3年(1572年)のこと。
「甲斐の虎」と称される武田信玄の軍勢が、家康の治める遠江国(静岡県西部)に攻め込んできました。
対する家康は軍勢が少なく、多勢でしかも名うての戦上手である信玄の進軍に、手も足も出ません。
しかし何を思ったか信玄、家康の籠る浜松城を素通りしていくではありませんか。
「敵軍に背を向けるとは・・・追撃して信玄をたたきつぶしてくれる!」
しかしこれは信玄の罠でした。
徳川軍が武田軍に追いつくと、武田軍は軍を返して徳川軍を待ち構えていたのです。
この三方ヶ原の戦いで大敗し、命からがら浜松城に逃げ戻ってきた家康は、無様な己を姿を絵師に描かせ、のちの戒めとしたといいます。
その肖像画を石像にしたもののようです。
ただ、このエピソードは岡崎城とはあまり関係がないかもしれませんね・・・(^_^;)
しかみ像のすぐ近くには、本多平八郎忠勝公銅像。
あまり大きい銅像ではないのですが、めちゃくちゃかっこいいです・・・。
「徳川四天王」のひとりで、今川からの独立から姉川、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、関ヶ原と、徳川家の主だった戦いに参戦し、武勲を挙げました。
名槍「蜻蛉切」を得物とし、57度の合戦に出陣し、一度も傷を負わなかったといいます。
家康に 過ぎたるものが 二つあり
唐の頭に 本多平八
唐の頭に 本多平八
敵として戦った武田軍からはこのように賞され、織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将」、豊臣秀吉からも「東国無双の侍大将」と評されました。
戦場では手傷ひとつ追わなかった忠勝ですが、晩年小刀を使用中に手元が狂って傷を負ってしまいました。
このことで忠勝は自分の死期を悟り、その数日後に亡くなったそうです。
水場のそばにあるのは、元康騎馬石像。
「元康」は家康が今川から独立する前の名で、「元」の字は今川義元の「元」の字を拝領したものです。
今川義元の部将であった青年期の勇姿は、かくの如しといったところでしょうか。
桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川から独立すると、「元康」の名を捨てて「家康」と名乗ります。
最後に、徳川家康公銅像。
戦国の世を生き抜き、泰平の世を創り上げた漢は、このような姿をしていたのでしょうか。
忠勝像の近くにはからくり時計と花時計があります。
時刻は午前9時になりました。
能の音響とともに、からくり時計が開きました。
金屏風の舞台に躍り出たのは・・・
イヨ~、ポン! イヨ~、ポン、ポン!
3分後、大御所様は舞い疲れたのか・・・
人の一生は~重荷を負うて~遠き道を行くがごとし~
人生訓を言い残して、沈んでいかれたのでした(^_^;)
もう少し岡崎公園を歩き回りました。
大手門【復元】は公園の北側にあり、大通りに面しています。
ふたたび園内に戻り、しかみ像のそばにある三河武士の館「家康館」に入ります。
そういえば前日泊まったホテルの翁は、ここを「外せない場所」と話しておられましたなぁ。
ここは午前9時に開館したばかり、入館者は私しかいないようでした。
1階、武具、甲冑のレプリカ、岡崎城の模型などを拝見。
地階、長イスのある最初のフロアに入ると、突然VTRが始まりました。
「わしは大久保彦左衛門
3代将軍家光に仕えた「天下のご意見番」大久保彦左衛門。
その彦左どのが、『三河物語』を執筆しているっていう忙しいときに、私のためだけに家康以前の松平家について語ってくれるというのです。
・・・聞き入ってしまった。
すぐ隣に、徳川譜代の家臣を一家ずつ解説するVTRがありました。
酒井、大久保、本多、鳥居、榊原、etc...
・・・全部見てしまった。
さらに奥に「決戦・関が原!」のコーナー。
関ヶ原の大戦をジオラマで解説する、壮大なスペクタクル!
東の徳川家康、井伊直政、本多忠勝、福島正則、黒田長政・・・
西の石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘・・・
錚々たる武将たちがフィギィアになって出陣します!
「西軍は鶴翼の陣だねぇ」
「東軍も布陣したなぁ」
「お、井伊が抜け駆けしたなぁ、福島怒っとる」
「福島、宇喜多は互角だなぁ」
「家康、前に進むぞ」
「島津はちっとも動かねぇな」
「ああっ! 小早川寝返りだ!!」
「大谷が戦死した」
「三成、敗れたな」
「さあさあさあ、島津が正面突破して退却するぞぉ!」
フィギィアがそんなにめまぐるしく動くわけではありませんでしたが、(当時)30にもなる男がえらく盛り上がっていたのでした。
館内のアンケートに答え、ちょっとしたプレゼントをもらい、「家康館」を出ました。
「八丁味噌キャラメル」、美味い!
「家康館」に予想外の好印象をおぼえ、予想外の時間を費やした私は、急ぎ岡崎城天守に登りました。
岡崎城から望む「ビスタライン」。
徳川家の菩提寺である大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」というそうです。
3代将軍家光が、家康の17回忌を機に大樹寺の伽藍を整備しました。
寺の本堂から山門、総門、そして岡崎城天守が一直線になっていて、「祖父生誕の地を望めるように」という想いが込められているそうです。
現在大樹寺総門は大樹寺小学校南門となっていますが、このビスタラインの上では3階以上の建物は建てないという不文律があるそうです。
・・・ただ岡崎城からは、ビスタラインはあまり実感できなかったです。
(画面中央付近にちっちゃく写る赤い建物の付近に、大樹寺があります)
ついでに、前日泊まったホテルは、目と鼻の先にありました。
天守閣1階の係員と話し、100名城スタンプをもらいました。
45番、岡崎城!