鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

小諸そば「草笛」本店

2011-01-15 | グルメ


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 3 0 分

長 野 県 上 田 市

上 田 駅 前



上田城を後にして、上田駅に戻ってきました。
電車の発車時刻には少々時間があるので、駅前のMで待ち時間を過ごします。


さてさて次の目的地は、この旅のシメを飾る3城目。
上田からは近場にある小諸城【国指定史跡】です。
小諸城へのアクセスは、上田駅からしなの鉄道線で東に向かうこととなります。
しなの鉄道線は第3セクターなので、18きっぷが使えません。
あらかじめ券売機で小諸行きの切符を買うこととなります。
乗車する電車は、12時52分発 しなの鉄道線 普通電車 小諸行きです。


電車は定刻どおりに上田駅を発車し、わずか20分で終点・小諸駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

Sしなの鉄道 上田駅 1番線 12時52分発
しなの鉄道線 普通 小諸行き
小諸駅 2番線 13時12分着

*所要時間 20分
*移動距離 18.0km  *運賃 390円

※運賃は当時のものを掲載しています。




午 後 1 時 1 5 分

長 野 県 小 諸 市

小 諸 駅 前



小諸駅を出ました。
駅前は少しさびしい感じもします。
新幹線が小諸を通らずに隣町の佐久へ行ってしまったのが、打撃になっているのかもしれません。

さて小諸城ですが、遺構はしなの鉄道を挟んで懐古園大手門公園に分かれています。
正確に言えば、しなの鉄道の前身・信越本線を敷設する際に、小諸城の城域を貫くかたちで通したのです。
長野新幹線(※現在は北陸新幹線)を敷設する際に、小諸を通ると懐古園を削らなければならず、そのため小諸市が通過に反対したともいいます。
もしそうならば、そのおかげで小諸城は守られたことになりますね。



まずは大手門公園へ。



公園にポツンとある櫓門
このオブジェのような櫓門こそ、現存する小諸城大手門【国指定重要文化財】なのです。


しばし大手門を仰ぎ見て、駅の反対側にある懐古園へ。


懐古園に入る前に、て多少遅い昼食をいただきます。
旅立つ前に調べておいた、懐古園の駐車場前にあるお蕎麦屋さんに入ります。



「草笛」本店
こちらではくるみそばが有名なのだそうですが、多少空腹であった私は、事前に調べた裏メニュー中もりそばをオーダーしました。
店員の淑女は、「量多いですよ」とご忠告くださいましたが、そば好きの私に迷いはありません。



中もりそば! うまい! そして多い!!
せいろはだいたい8センチくらいの高さで、直径が20センチ超といったところ。
そしてそばの盛り具合が半端じゃありません。
せいろいっぱいに盛られたそばは、せいろに遊びの空間がまったくありません。

香りが感じられ、味がしっかりしたそば。
のどごし、歯ごたえも言うに及ばず。
かえしは東京のそば屋で出る塩辛い一辺倒のものではなく、甘みも感じられる私好みのものでした。

そば好きの私も4人前近いそばを食べては腹いっぱいになってしまいます。
それでも完食し、そば湯をじっくり味わって900円を支払いました。
(ちなみに普通のもりそばは630円でした)

(※現在、「草笛」本店はリニューアルして営業しています)


腹いっぱいの身となった私は、このまま懐古園の散策におもむいたのでした。





上田城~真田の城?

2011-01-15 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 5 分

長 野 県 上 田 市

上 田 城 址 公 園



すっきりと晴れず、底冷えがする信濃路。
真田六文銭で彩られた上田市街を歩き、上田城址公園に到着しました。


上田城は公園化が進んでおり、二の丸には上田市民会館などがあります。
そんなこともあり、城跡ではあまり聞こえてこないはずのブラスバンドの練習音なんかも耳に入ってきました。


上田城【国指定史跡】は、天正11年(1583年)に真田昌幸により築城されました。
天正10年の武田家滅亡後、昌幸は上田地方一帯の領主として、織田、徳川、北条、上杉らの大大名とわたり合い、権謀術数をもって所領を拡大し「表裏比興の者」と賞賛されました。

天正13年(1585年)徳川軍が7,000の兵で攻め入ったときは、昌幸と長男・信幸らは1,200の兵で迎撃、上田地方の諸城で篭城戦を展開します。
このときは地の利を巧みに利用し、徳川軍に戦死者1,000人以上の損害を与え、撃退しました。(第一次上田合戦

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前夜。
真田昌幸と二男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信幸は東軍につきました。
これは、東西どちらが勝っても真田の家名がのこるように図ったのだといいます。
また、幸村は西軍についた大谷吉継の娘を、信幸は徳川家臣・本多忠勝の娘・小松を妻としていた、という事情もあったようです。

決戦に向けて徳川家康は軍勢を二手に分け、自らは東海道を西進し、三男・秀忠の軍勢38,000を中山道から進ませました。

秀忠西進の途上にある上田城。
真田昌幸・幸村父子が2,000の兵で篭城して待ち構えていました。
昌幸の計略、采配によって秀忠軍はもてあそばれ、城を落とせないばかりか、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を演じてしまいました。(第二次上田合戦
一説によれば秀忠軍の目的は上田城攻略にあったのですが、状況が変わり家康が関ヶ原への急行を命じたため上田城を落城させないまま西進することとなり、結果本戦に間に合わなかったともいいます。
いずれにしろこの戦いで秀忠の武人としてのキャリアは傷ついたようで、秀忠本人もこの敗戦を相当意識していたそうです。

戦後、信幸とその義父・本多忠勝が嘆願し、昌幸・幸村父子は死を免れ、高野山(のち九度山)に幽閉されることとなりました。
徳川にとって忌まわしの上田城は破却されることとなったのです。
信幸は、父の所領を与えられ、徳川への忠誠の証として父から継いだ「幸」の名を削り「信之」と改名しましたが、2代将軍・秀忠のときに上田から松代へ転封となりました。
真田にひどい目に遭わされた秀忠さんが、嫌がらせのために転封を命じたといわれていますが、実際は信之の才略を見込んでの加増だったようです。

上田の地は、小諸から移ってきた仙石忠政が治めることとなり、このとき上田城が復興します。
現在の上田城は、仙石家が建てたものが残っているものです。
仙石家が出石に移ると、松平(藤井松平)家が藩主を務め、明治維新を迎えました。



上田城の歴史をよ~く踏まえたうえで、上田城の遺構がよく残っている本丸に入ってみましょう。



本丸への関門であった東虎口櫓門【再建】。
両脇を南櫓【長野県宝】と北櫓【長野県宝】が固めています。
これらの2基の櫓は明治維新後に民間に払い下げられ、一時期にはなんと遊郭!!になっていたそうです。
昭和前期に、移築されていた2基の櫓は元の位置に戻されました。



東虎口櫓門の「真田石」
上田城で一番大きな石だといいます。
真田信之が転封のさいに持ち去ろうとしたのですが全く動かず、そのまま残されたそうです。
しかし信之時代には城はなかったはずです。
この話はただの伝承に過ぎないものと思われます。

門をくぐると南櫓の入口があるのですが、この日は閉まっていたのでした。
たしか100名城スタンプはここにあるはず・・・。
まさかスタンプなしで終わるのでは??


さて、本丸へ入ると・・・



本丸の一画には真田神社が鎮座しています。
真田、仙石、松平家の歴代城主を御祭神として祀っています。
しかしもとは「松平神社」といい、松平家の当主のみを祀っていたそうです。

そんな神社の境内で、署名活動をしているおじさまがいらっしゃいました。
その内容は、「真田幸村を大河ドラマに!」とのことでした。
私も署名をしてきました。

(※この署名活動が実ったのか、平成28年の大河ドラマは「真田丸」が放映されましたね)

署名ついでにそのおじさまに、
「南櫓に入れないんですけど・・・」
と尋ねれば、
「冬の間は開いてないんですよ」
とのことでした。
じゃあ100名城スタンプはどこでもらえるの???

社殿の奥には、「真田井戸」があります・・・って、また真田かい!?
この城は真田さんじゃなくて、仙石さんが建てた城だっていうに・・・それはいいとして。
本丸にある唯一の大井戸で、城の北側へ抜け穴が通じていたという伝承があります。



本丸の西側、真田神社の境内からも見える西櫓【長野県宝】。
この櫓は唯一、上田城が再築城された江戸時代から現存しています。



いったん本丸から出て、お濠ぞいに歩いていきました。
どこぞの高校の陸上部の方でしょうか、半袖短パンで疾走しています。
元気ですねぇ~。



二の丸から見た本丸です。
北東の方角のみ、お濠とその上の土塁が切り取られた形をしています。
これは「鬼門除け」といい、北東の方角=鬼門の土地を削ることによって厄災を防ぐおまじないのようなものだそうです。



さて、100名城スタンプです。
スタンプ帳によると、上田城の櫓の中でもらえるとの記述がありましたが、冬季は櫓が閉鎖されています。
今回はスタンプをゲットできないのか?

スタンプ帳をよくよく確認すると、「冬季は博物館」とありました。
そこで二の丸にある上田市立博物館へ。



27番、上田城!
絵柄は東虎口櫓門ですね。

このまま博物館に入るのがスジというものですが、時間がなかったのでそのまま上田城を出たのでした。